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勝ったら婚約解消のはずでした  作者: 平瀬ほづみ


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10/12

10.解消されたくないから勝ちたかったんだよ!

 だめだ、私が抑えなくては! ここには人がいる。エディスの虎から逃げ切れる人間ばかりじゃない。

 ルクレツィア戦の同調で削った分が、今になって効いてきた。膝が笑う。視界の端がちかちかと白く瞬く。一週間前のあの夜と同じ、体の底から根こそぎ持っていかれる感覚だ。

 炎の塊と化した虎が、もう一度、吠えた。

 次の瞬間、虎の体が内側から弾け飛んだ。


 四方八方に炎が散る。火の粉は草地に燃え移り、あっという間に地を這う炎の帯となって広がっていく。観客席の最前列にいた生徒たちが悲鳴を上げて一目散に逃げていく。

 逃げて、みんな、逃げて! もっと遠くへ!

 そして散った炎のひとつが、まっすぐこちらへ……エディス自身へと向かってくる。


 ――避けなきゃ。


 わかっているのに、足が動かない。魔力を使い果たした体は、指一本、思い通りにならない。


 ――あ、これ、まずいやつだ。


 妙に冷静にそう思った、その時だった。

 誰かに、強く腕を引っ張られた。

 頬が何か固いものにぶつかる。視界の端で黒髪が揺れる。頭上を青白い何かがばさりと覆った。

 水の竜の大きく広げられた翼が、エディスごと包み込むようにして炎を受け止める。

 じゅうっ、と耳をつんざく音が響き、あたり一面が真っ白な蒸気に包まれた。


 何が起きたのか、すぐには理解できなかった。

 エディスは、シリルの腕の中にいた。

 さっきまで離れた場所にいた男が、いつの間にかこの距離を詰めて、エディスを抱き込むようにして立っている。背中に回された腕が、痛いくらいに強い。


「エディス、大丈夫か!?」


 頭上から降ってきた声は今まで聞いたこともないほど切羽詰まっていた。


「へ、平気……」


 シリルに抱きしめられるようにして体を支えてもらいながら、エディスはなんとか声を絞り出した。

 そうこうしているうちに、蒸気の幕の向こうで、竜が尾を振る。

 巻き起こった水飛沫が、草地を舐めていた炎をまとめて呑み込んでいった。

 人が焼けたにおいはしない。誰も犠牲になっていない。シリルのおかげで延焼もしていない。被害は最小限に違いない。


 助けられた。シリルに。完璧な形で助けられた。

 だが、込み上げてきたのは感謝ではなかった。


 五年間、手加減されて。勝たせてもらって。そして最後の最後には、自分の使い魔の暴走から守られている。

 最初から最後まで、自分はこの人と対等なんかじゃなかった。

 喉の奥が熱くなる。悔しいのか悲しいのか、もうわからない。


「……離して」

「エディス」

「離してって言ってるの!」


 力の入らない腕で、シリルの胸を押し返す。びくともしない。それがまた、たまらなく悔しい。


「本気を出せば、いつだって私なんか簡単に負かせたんでしょう!? 五年間もずっと手加減して、私が勝ったり負けたりするのを見て、さぞおもしろかったでしょうね!」

「違う、それは」

「なのに今日だけは本気なのね。そんなに勝ちたかったの?」


 見上げた先で、シリルの青い瞳がわずかに揺れた。


「わかってるわよ。私に勝って、あなたの口から婚約解消を言い渡したいんでしょ。地方の伯爵家の娘に振られたなんて、シュトラール家の名折れだものね!」


 一度心の堰が切れてしまったら、もう止まらなかった。


「そんなに私との婚約が嫌なの!?」

「嫌がってるのは君のほうだろ!」


 シリルが叫ぶ。

 エディスは目を見開いた。シリルが声を荒らげるところなんて、五年間で一度も見たことがない。


「教室であれだけはっきり言っただろう。お願いは婚約解消だって。あの夜だって、いやかもって」

「だって、あなたからは言い出せないじゃない!」


 負けじとエディスも叫び返した。


「好きな人がいるくせに! お父様の決めた婚約だから、侯爵家の嫡男だから、自分から解消なんてできないんでしょ!? だったら私が勝って、解消してあげるしかないじゃない!」

「好きな人?」


 シリルが、心底わけがわからないという顔をした。


「なんのことだ?」

「ルクレツィア様に決まってるでしょ! 毎朝毎朝、あんなに楽しそうに話して! 私の前ではちっとも笑わないくせに!」

「ルクレツィアは関係ない!」

「関係なくないわよ!」


 視界がにじむ。蒸気のせいだ。きっとそうだ。


「好かれてもいないのに、婚約者面されて! 優しくされて、気遣われて! そのたびに私がどんな気持ちだったか、あなたにわかる!?」


 エディスはぼろぼろと泣きながら続けた。

 シリルが呆然としている。

 私に気付かれていることに気付いていなかったというの!?


「解消なんて、したいわけないでしょ! したくないわよ! だって私はあなたのことが好きなんだもの! でもあなたがそれを望んでるなら、私から言ってあげなきゃって……! あなたこそ、私に勝ったら婚約解消するつもりなんでしょ!?」

「解消されたくないから勝ちたかったんだよ!」


 シリルが叫び返す。


 ――解消されたくない……?


 何を? 私との婚約を?

 え?

 まさか?

 どういうこと……!?


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