第四巻 冬の証明
第十六章 部長室
十二月の最初の金曜日、千景は現地事務所の入るビルの前で、蓮を待っていた。
夜の八時。三軒茶屋の交差点には、もうクリスマスの電飾が灯っていた。ビルの自動ドアが開き、蓮が出てきた。千景に気づいて、蓮は足を止めた。
「真柴さん、でしたよね。柚木さんから聞いてます」
「少し、お時間いいですか。あなたの上司のことで」
蓮の顔が、わずかに強張った。
駅前のチェーンのカフェで、千景は二枚の紙をテーブルに並べた。
一枚は、有働企画の社員名簿の写し。もう一枚は、白いセダンの前に立つ二人の男の写真。
「この若いほうが、篠崎恭一。三十年前、有働修司さんの部下でした」
蓮は、写真を手に取った。長いあいだ、見つめていた。
細い顎。少し垂れた目尻。笑ったときに片方だけ上がる口角。三十年の歳月を差し引いても、見間違えようがなかった。毎朝、事務所で顔を合わせている男だった。
「……知ってました」
蓮は、写真をテーブルに戻した。
「正確には、知っていたわけじゃない。八月に、本社の資料室で人事記録を見たんです。部長は一九九七年に中途で入っていた。前職は、不動産関連とだけ書いてあった。それから、有働企画への支払いの記録も。十一月に途切れていて、余白に、特別対策は中止、担当者所在不明のため、と」
千景は、手帳を開いた。
「特別対策」
「会社の中で、そんな言葉は聞いたことがありません」
千景は、灯から見せられた紙のことを話した。十一月二十七日。あの人たちは、この町を燃やすつもりだ。今夜、修司さんがやらされる。柚の湯の裏から。
蓮は、目を閉じた。
「特別対策というのは」
「たぶん、そういうことです」
千景は言った。
「三十年前、蒼和は太子堂を火事で更地にしようとした。実行役は、有働企画。有働さんがいなくなって、計画は止まった。その計画を知っていた若い社員が、翌年、蒼和に入った。そして三十年後、同じ町の再開発の責任者になった」
千景はテーブルに肘をついた。
「久世さん。宮内さんは、殺される前の日に、誰かに電話をかけています。柚木さんが聞いていました。あの若造、まだ生きてやがった、と」
蓮は、目を開けた。
宮内の茶の間。篠崎の名前が刷られた書類。宮内は、その紙を四つに折って、胸のポケットにしまった。直通の電話番号が、そこに刷られていた。
――上司はよく選べよ、若いの。
「……僕です」
蓮の声は、かすれていた。
「宮内さんに、部長の名前と電話番号を渡したのは、僕です」
その夜、蓮は本社に戻った。
篠崎は、まだ部長室にいた。週末の夜でも、篠崎はいつも遅くまで残っている。ガラスの仕切りの向こうで、机のスタンドだけが灯っていた。
蓮は、ドアをノックした。
「久世か。どうした、こんな時間に」
篠崎は書類から顔を上げ、眼鏡を外した。いつもの穏やかな顔だった。
「部長に、お訊きしたいことがあります」
「座れ」
蓮は座らなかった。
「部長は、蒼和に入る前、有働企画にいらっしゃいましたね」
篠崎の手が、眼鏡を机に置いたところで止まった。
「誰に聞いた」
「写真を見ました。三十年前の。有働修司さんと、部長が並んで写っている写真です」
篠崎は、しばらく黙っていた。それから、ふっと息を吐いて、椅子の背にもたれた。
「隠していたつもりはない。訊かれなかったから、言わなかっただけだ」
「床下から有働さんの遺体が出たときも、ですか」
「あのときは、驚いた。……正直に言えば、ショックだった」
篠崎は、窓の外の夜景を見た。
「有働さんは、俺の恩人だった。親のいない俺を、拾ってくれた。高校を出て、どこにも行き場がなかった俺に、仕事をくれた。乱暴な人だったが、俺には優しかった。あの人がいなくなって、俺はまた行き場をなくした。蒼和の人が、拾ってくれた。それだけの話だ」
「特別対策、というのは何ですか」
篠崎の目が、蓮に戻った。
その目から、穏やかさが消えていた。
「資料室の記録に、ありました。一九九六年十一月末。太子堂二丁目の特別対策。担当者所在不明のため中止」
「知らんな」
篠崎は言った。
「俺は下っ端だった。上が何を考えていたかなんて、知る立場じゃない」
「宮内さんは、亡くなる前の日に、部長に電話をかけませんでしたか」
部長室の空気が、変わった。
篠崎は、ゆっくりと立ち上がった。机を回り込み、蓮の前に立った。蓮より、少し背が低かった。それでも、蓮は一歩下がりそうになった。
「久世」
篠崎の声は、静かだった。
「お前の資料室の閲覧申請は、俺の机を通っている。九五年から九七年。何を探しているのか、俺が気づかないと思ったか」
蓮は、何も言えなかった。
「お前が柚の湯に朝までいたことも、知っている。この町のことは、全部耳に入ると言っただろう」
篠崎は、蓮の肩に手を置いた。春に、封筒を渡したときと同じ手だった。重かった。
「会社を守れ。お前の将来のためだ」
篠崎は、蓮の耳もとで言った。
「それに、余計なことを掘り返しても、あの銭湯の娘のためにはならない。三十年前のことが全部表に出たら、困るのはあの娘のほうだ。……お前は、あの娘を守りたいんだろう」
篠崎は手を離し、机に戻った。眼鏡をかけ直し、書類に目を落とした。
「もう帰れ。週末くらい休め」
蓮は、本社を出なかった。
エレベーターで地下に下り、総務の倉庫に入った。現地事務所の社用車の運行日誌は、月末ごとにここへ送られてくる。去年の新人研修で、蓮は日誌の整理を手伝わされたことがあった。
七月の綴りを、蓮は探し出した。
七月四日、金曜日。
――出庫 一八:一〇 篠崎。目的 顧客訪問。
――帰庫 一九:〇〇。
帰庫の時刻の数字が、わずかに盛り上がっていた。蓮は日誌を蛍光灯にかざした。白い修正液の下に、別の数字が透けて見えた。
――〇:四〇。
蓮は、携帯でそのページを撮った。シャッターの音が、倉庫の中にひどく大きく響いた。
七月四日の夜十一時。太子堂の月極駐車場の暗がりに止まっていた、白いセダン。
あのとき、あの車のナンバーを確かめていれば。
蓮は日誌を元の場所に戻した。手が震えて、二度、綴りを落としそうになった。
第十七章 白い社用車
蓮から写真が届いたのは、土曜日の朝だった。
運行日誌の一ページ。七月四日、篠崎、出庫十八時十分。帰庫十九時。その「十九時」の数字の下に、修正液で消された別の数字が透けて見えていた。
零時四十分。
写真の下に、短い文があった。
――あの夜十一時ごろ、太子堂の月極駐車場で、白いセダンを見ました。ナンバーは確かめていません。すみません。
千景は、その文を三度読んだ。最後の「すみません」が、誰に向けたものなのか、千景にはわかる気がした。
千景は、宮内の家の近所を、もう一度一軒ずつ回った。
七月に、警察も同じことをしたはずだった。だが、警察が探していたのは、柚木源造が夜中に出歩いていなかったかどうかだ。白いセダンのことを訊いた刑事は、たぶんいない。
宮内の家の二軒隣に、一人暮らしの老婆が住んでいた。九十歳だという。玄関で千景の顔を見るなり、老婆は言った。
「あんた、週刊誌の人でしょ。テレビで見たわよ」
「テレビには出てませんけど」
「出てなくても、顔でわかるの」
老婆は千景を上げてくれた。炬燵に足を入れ、蜜柑を勧めながら、老婆は言った。
「あの晩はね、眠れなかったのよ。年寄りは、夜中に何度も目が覚めるの。お手洗いに起きたら、外で車のドアの音がしてね。窓から覗いたら、角の駐車場から白い車が出ていくところだった」
「何時ごろですか」
「零時半くらいかしら。お手洗いのあと、ラジオの深夜便をつけたら、ちょうど零時半の時報だったから」
「乗っていた人は」
「背広の男の人。慌ててたわね。ドアを閉めるのに手間取ってた。このへんの人じゃないと思った。このへんの年寄りは、あんな時間に背広なんか着ないもの」
「警察には、話しましたか」
老婆は蜜柑の皮をむきながら、首を振った。
「訊かれなかったもの。刑事さんは、柚の湯の源造さんが夜中に出歩いてなかったか、そればっかり訊いてた。源造さんがあんなことするわけないのにね。あの人は、口は悪いけど、虫も殺せない人よ」
千景は、手帳に書きつけた。零時半。白い車。背広の男。
零時四十分に、帰庫。太子堂から三軒茶屋の駅前まで、車で十分。
編集部に戻ると、黒木が待っていた。
「真柴。蒼和の部長の話、裏は取れたか」
「七割です」
「七割で十分だ。書け。来週の号で行く」
千景は、机の上に資料を広げた。有働企画の名簿。白いセダンの前の写真。運行日誌。老婆の証言。そして、灯から預かった、十一月二十七日の紙のコピー。
「書けません」
「なんでだ」
「篠崎のことを書くには、三十年前のことを全部書かなきゃならない。蒼和の放火計画。有働修司の失踪。床下の遺体。誰が有働を殺して、誰が埋めたのか。……そこが、まだわからない」
「わからないところは、わからないと書けばいい」
「わからないまま書いたら、町の人がまた疑われます。柚木さんのおじいさんか、別の誰かが」
黒木は、千景の顔をじっと見た。
「お前、静岡のことを気にしてるのか」
千景は答えなかった。
「いいか、真柴。記者は、誰かを傷つけないために書かないことはできない。書かないことで傷つく人間もいる。宮内って爺さんは、話そうとして殺された。お前が書かなきゃ、あの爺さんは犬死にだ」
「わかってます」
千景は顔を上げた。
「だから、全部わかってから書きます。二か月ください。二月の終わりまでに、全部書きます」
黒木は長いあいだ黙っていた。それから、舌打ちをして、背を向けた。
「二月だ。それ以上は待たん。他に抜かれたら、お前のせいだからな」
クリスマスの前の晩、千景は三軒茶屋の居酒屋で、湊と飲んでいた。
喫茶店ではなく、居酒屋に誘ったのは千景のほうだった。湊は少し迷ってから、来た。カウンターの端の席で、二人は熱燗を分け合った。
「先生、お酒弱いんですね」
「医者は、あんまり飲まないんです」
「顔、真っ赤ですよ」
「……うるさいな」
湊は猪口を置いた。それから、ぽつりと言った。
「灯に、好きだって言いました」
千景は、徳利を持つ手を止めた。
「十月に。烏山川緑道で。答えは、もらってません。今は何も考えられないって」
「……そうですか」
「その三日後に、久世さんが柚の湯の裏口から出てくるのを見ました。夜明けに」
湊は笑った。ひどく下手な笑い方だった。
「灯は、僕には手紙を読ませなかった。僕はこの町の人間だから、困らせたくないって。それで、あの人を呼んだ。……正しいと思います。灯は、いつも正しいんです」
千景は、何も言えなかった。
湊の横顔を見ていた。赤くなった耳と、少し伸びた襟足と、猪口を持つ長い指を。
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
ああ、と千景は思った。私は、この人が好きなのだ。
いつからだったのか、わからなかった。雨上がりの喫茶店でコーヒーをおごったときか。通夜の夜、寺の門の外で連絡先を交換したときか。それとも、今、この人が別の女の話をして、下手な笑い方をしているのを見たときか。
わかったところで、どうにもならなかった。
「先生」
「なんですか」
「先生のお父さんは、三十年前、何をしたんですか」
湊は、猪口の中の酒を見た。
「まだ、知りません。父は、源造さんが話すまでは話さないと言ってる」
湊は顔を上げた。
「でも、もうすぐ知ることになる気がします。真柴さんが、全部書くまでには」
千景は、自分の猪口に酒を注いだ。手が少し震えて、カウンターに一滴こぼれた。
「先生。私が全部書いたら、先生のお父さんのことも、書くことになるかもしれません」
「わかってます」
湊は言った。
「そのときは、ちゃんと書いてください。父の名前も。……中途半端に書かれるほうが、父はつらいと思う」
千景は、湊の顔を見た。湊は、まっすぐ千景を見ていた。
この人は、どこまでも正しい人だ、と千景は思った。だから、好きになったのかもしれない。だから、どうにもならないのかもしれない。
店の外で、誰かがクリスマスの歌を調子外れに歌いながら、通り過ぎていった。
第十八章 血の証明
年が明けて、一月の第二日曜。灯は、船橋の団地の四階の扉の前に立っていた。
隣には、千景がいた。
「本当に、いいんですか」
千景が小声で訊いた。灯はうなずいた。
「春になったら、三人で。お母さんはそう書いてた。わたしは、三月に生まれた。……知らないままでいるほうが、こわい」
千景が呼び鈴を押した。
扉が開いた。小柄な、白髪まじりの女が立っていた。有働雅代。
雅代は千景に会釈をし、それから、灯の顔を見た。
雅代の手が、扉の把手から滑り落ちた。
「……修司」
雅代の唇から、その名前がこぼれた。
「ごめんなさい。ごめんなさいね。目もとが……弟に、そっくりで」
雅代は口もとを押さえた。目から、涙があふれていた。
鑑定は、民間の検査機関に頼んだ。
頬の内側を綿棒でこすって、封筒に入れて送るだけだった。灯と雅代の分。叔母と姪の関係があるかどうかを調べるのだという。結果が出るまでに、二週間かかると言われた。
その二週間、灯は何をしていたのか、あとになってもよく思い出せなかった。
番台に座り、湯を沸かし、タイルを洗った。祖父と、ほとんど口をきかずに飯を食べた。湊が湯に来ても、ベンチには出なかった。蓮から電話が来ても、出なかった。千景からの連絡にだけ、短く返事をした。
祖父は、灯が何かを抱えていることに気づいていた。気づいていて、何も訊かなかった。
二人は、互いに何かを隠したまま、同じ家で暮らしていた。三十年前から、この家はずっとそうだったのかもしれない、と灯は思った。
封筒が届いたのは、一月の終わりの、雪がちらついた朝だった。
灯は、二階の自分の部屋で封を切った。
専門的な言葉が並んでいた。数字と、表と、注釈。灯には、半分も意味がわからなかった。最後の一行だけが、太い字で書かれていた。
――両者が、叔母と姪の関係にある可能性は、極めて高いと判断されます。
灯は、紙を畳の上に置いた。
窓の外で、雪が舞っていた。柚の湯の煙突の上に、白いものがうっすらと積もりはじめていた。
有働修司。
床下で二十九年眠っていた男。この家に火をつけようとした男。母が愛した男。
わたしの、父。
灯は、自分の手を見た。この手のどこかに、あの男の血が流れている。目もとが、そっくりだと雅代は言った。目つきの悪い、と母は手紙に書いた。あなたに似て、目つきが悪くてもいい、と。
灯は笑った。声は出なかった。笑っているのか泣いているのか、自分でもわからなかった。
その夜、店を閉めたあと、灯は釜場へ下りた。
祖父は、いつものように焚き口の前の丸椅子に座っていた。灯は、もう一つの丸椅子を引き寄せて、祖父の隣に座った。膝の上に、鑑定の紙と、菓子の缶を置いた。
「じいちゃん。天井裏で、これを見つけたの。九月に」
祖父は、缶を見た。
祖父の顔から、血の気が引いていった。七十八年の皺の一本一本が、深くなったように見えた。
「お母さんの手紙。有働修司さんにあてた手紙。全部読んだ」
灯は、鑑定の紙を祖父に差し出した。
「有働さんのお姉さんと、DNAの鑑定をした。……有働さんは、わたしのお父さんだった」
祖父は、紙を受け取らなかった。焚き口の中の熾火を、じっと見ていた。
「じいちゃん。教えて」
灯の声が、震えた。
「お母さんが、殺したの?」
熾火が、小さくはぜた。
祖父は、長いあいだ黙っていた。灯は待った。釜の唸りが、遠い海鳴りのように聞こえていた。
やがて、祖父が口を開いた。
「……早苗は、町を守ったんだ」
かすれた声だった。
「十一月の、終わりの晩だった」
祖父は、熾火に向かって話しはじめた。灯の顔は、見なかった。
「夜中の二時に、裏で物音がした。俺は寝てたが、目が覚めた。早苗の部屋が空っぽだった。下りてきたら、釜場の裏の戸が開いてて、外に、早苗と、あの男がいた」
祖父の手が、膝の上で握りしめられた。
「あの男は、灯油の缶を持ってた。裏に積んであった廃材の山に、もう半分撒いてあった。早苗は、あの男の腕にしがみついて、やめてくれと泣いてた。あの男も、泣いてた。やらなきゃ、お前もお腹の子も、会社のやつらに何をされるかわからない。そう言ってた」
「それで……」
「あの男が、ライターを出した」
祖父は目を閉じた。
「早苗は、釜場の火かき棒をつかんでた。あの男の手を、叩こうとしたんだと思う。ライターを落とさせようとして。それが、頭に当たった。あの男は倒れて、焚き口の石の角に、頭を打った」
祖父の声が、途切れた。
「俺が駆け寄ったときには、もう、息をしてなかった」
灯は、自分の口を両手で押さえていた。
「早苗は、あの男を抱いて、ずっと名前を呼んでた。修司さん、修司さん、って。俺は、早苗をあの男から引きはがした。それから――」
祖父は、ようやく灯を見た。目が、赤く濡れていた。
「埋めたのは、俺だ」
祖父は言った。
「隣の一〇三号室の鍵を、大家から預かってた。一人で運んで、一人で床をはがして、一人で埋めた。灯油の缶も、ライターも、全部埋めた。早苗には、何もなかったことにしろと言った。お前は何もしてない。あの男は、勝手にいなくなった。そう思って生きろ、と」
「じいちゃん」
「早苗は、そう生きようとした。お前を産んで、お前を育てて、笑って暮らそうとした。でも、あいつは、ずっと苦しんでた。病気になったのも、そのせいだと俺は思ってる」
祖父の目から、涙がこぼれた。灯は、祖父が泣くのを初めて見た。母の葬式でも、祖父は泣かなかった。
「すまねえ、灯。お前の父親を、床下に埋めたのは、俺だ。三十年、お前に黙ってた。黙ってることで、早苗を守ってるつもりだった。……もう、守ってやれねえ」
灯は、何も言えなかった。
立ち上がり、釜場を出た。階段を上がり、自分の部屋の襖を閉めた。布団に潜り込み、頭まで掛け布団をかぶった。
母が、父を殺した。
祖父が、父を埋めた。
わたしは、その上で二十八年、生きてきた。壁一枚向こうの床下に、父が眠っているのも知らずに。毎朝、釜場で火を焚きながら。父が火をつけようとした、その場所で。
枕もとで、携帯が震えた。蓮からだった。灯は出なかった。湊からも、メッセージが来た。灯は開かなかった。
窓の外で、雪が降り続いていた。
灯は、朝まで眠らなかった。泣きもしなかった。ただ、掛け布団の暗がりの中で、自分の目を、指でなぞっていた。
あなたに似て、目つきが悪くてもいい。
母の字が、まぶたの裏に浮かんでいた。
第十九章 父の告白
二月に入った最初の夜、父は診察室で湊を待っていた。
机の上に、古い往診鞄が置いてあった。春の夜、父が一人で開けていた、祖父の代の予備の鞄だった。
「源さんから、電話があった。灯ちゃんに、全部話したそうだ」
父は言った。
「だから、俺も話す。座れ、湊」
湊は、診察椅子に座った。いつもは患者が座る椅子だった。
「一九九六年の十一月二十八日。夜中の二時過ぎに、源さんから電話があった」
父は、往診鞄の留め金を指でなぞりながら話した。
「往診鞄を持って、すぐに来てくれと。声が普通じゃなかった。俺は走った。柚の湯の裏に回ったら、釜場の外に、あの男が倒れてた。有働修司だ。灯油の匂いがした。早苗ちゃんが、あの男のそばに座り込んでいた」
父は目を閉じた。
「脈を診た。瞳孔を見た。……もう、手の施しようがなかった。焚き口の石の角に、頭を打っていた」
「父さん」
「早苗ちゃんは、取り乱していた。あの男の名前を呼び続けて、離れようとしなかった。俺は、鞄から鎮静剤を出して、早苗ちゃんに打った。……あの子は、身ごもっていた。俺は、それを知っていた。ひと月前に、俺が診たんだ。お父さんにはまだ言わないでくださいと、頼まれた」
湊は、息をのんだ。
お医者さんには、まだ父に言わないでくれと頼みました。灯が読んでくれた手紙の一節を、湊は千景から聞いていた。
そのお医者さんは、父だったのだ。
「早苗ちゃんを二階に寝かせて、下りてきたら、松さんが来ていた。源さんが、俺の次に電話をかけたんだ。町内会長として、どうするか決めてくれと」
父は、湊を見た。
「警察を呼ぶべきだった。わかっていた。あの男は、町に火をつけようとしていた。早苗ちゃんは、それを止めようとしただけだ。正直に話せば、情状は酌んでもらえたかもしれん。だが――」
「だが?」
「早苗ちゃんのお腹には、子どもがいた。父親は、自分の母親が殺した男だ。その子は、一生それを背負って生きることになる。それに、警察に話せば、蒼和の放火の計画も表に出る。蒼和は、全部あの男一人のせいにするだろう。町は、どうなる。大企業を相手に、年寄りばかりの町が、何ができる」
父は、往診鞄の留め金を、かちりと鳴らした。
「三人で、決めた。あの男は、いなくなったことにしよう、と。源さんが隣の部屋の鍵を持っていた。夜明けまでに、三人で運んで、床をはがして、埋めた。土は、裏の空き地から運んだ。灯油の缶も、ライターも、一緒に埋めた」
「三人で」
「そうだ。源さんと、松さんと、俺だ」
湊は、何も言えなかった。
父の手が、往診鞄の上で震えていた。三十年、命を救うために使ってきた手だった。その手で、父は人を埋めたのだ。
「源さんは、灯ちゃんに、一人で埋めたと話したそうだ」
父は言った。
「俺と松さんのことは、言わなかった。……源さんは、俺たちをかばったんだ。三十年前も、今も」
父は、顔を覆った。
「あの夜、もう一つあった。松さんが、あの男の上着のポケットから、紙を一枚見つけた。手書きのメモだった。日付と時間と、場所が書いてあった。十一月二十八日、午前二時、柚の湯の裏、と。それから、待機、という字と、名前が一つ」
「名前」
「誰の名前だったかは、知らん。俺は見ていない。松さんは、それを見て、これは取っておく、と言った。いつか、蒼和が町に何かしてきたら、これを突きつけてやる、と。松さんは、それを三十年持っていた」
湊の背中を、冷たいものが走った。
「宮内さんの家が荒らされてたのは」
「たぶん、それを探していたんだろう」
父は言った。
「松さんは、殺される前の日に、誰かに電話をかけたそうだな。源さんから聞いた。……松さんは、そのメモの名前の男に、電話をかけたんじゃないかと、俺は思っている」
湊は立ち上がった。
「父さん。警察に話そう」
父は、ゆっくりと顔を上げた。
「死体遺棄の時効は、三年だ。俺はもう、法律では裁かれん。源さんもだ。早苗ちゃんは、死んでいる。誰も、罪には問われない」
「だから、話さなくていいって言うの」
「いや」
父は首を振った。
「だからこそ、話さにゃならんのかもしれんと、思っている。誰にも裁かれない罪は、自分で背負うしかない。松さんは、それを背負いきれなくなって、話そうとした。そして殺された。……今度は、俺の番だ」
父は、往診鞄を湊のほうへ押しやった。
「源さんが警察に話すときに、俺も行く。お前は、ついて来なくていい」
「行くよ」
湊は、往診鞄を両手で持った。思っていたより、ずっと重かった。
「一緒に行く。父さんの息子だから」
父は、湊の顔を見た。何か言おうとして、言えずに、ただうなずいた。
その夜、湊は柚の湯へ行った。
雪が降っていた。路地には、もう足首まで積もっていた。暖簾は出ていなかった。灯が、この一週間、店を開けていないことを、湊は近所の患者から聞いていた。
玄関の戸を叩いた。返事はなかった。二階の窓に、明かりがついていた。
「灯。湊だ」
返事はなかった。
湊は、裏へ回った。釜場の裏口の前に、誰かが立っていた。傘も差さずに、肩に雪を積もらせて。
久世蓮だった。
「……あなたも、ですか」
「一週間、電話に出てくれなくて」
蓮は、白い息を吐いた。いつからここに立っているのか、髪も眉も、白く凍っていた。
二人は、並んで裏口の前に立った。どちらも、帰ろうとしなかった。
「灯は、源造さんから全部聞いたそうです」
湊が言った。
「でも、源造さんは一つだけ嘘をついた。一人で埋めたと言った。本当は、三人だった。源造さんと、宮内さんと、僕の父です」
蓮が、湊の顔を見た。
「なんで、僕に」
「あなたが、全部話すと言ったから。都合の悪いことでも。……だから、僕も話します」
蓮は、しばらく黙っていた。それから、言った。
「宮内さんを殺したのは、たぶん、僕の上司です」
湊は、蓮を見た。
「三十年前、有働企画にいた。宮内さんが死んだ夜、会社の車で太子堂に来ていた。運行日誌の時刻が、書き換えられていました」
雪が、二人の肩に降り積もっていった。
「宮内さんが持っていたメモ」
湊は言った。
「放火の日時と、待機していた人間の名前が書いてあったそうです。宮内さんは、それを三十年持っていた。殺された夜、家が荒らされていたのは、それを探していたからだと、父は言ってました」
「……見つかったんですか」
「わかりません」
二人は、同時に、釜場の窓を見上げた。明かりは消えていた。
あのメモは、今、どこにあるのか。
篠崎は、それを探している。宮内の家になかったとしたら、次に探すのは――。
「瀬能さん」
「湊でいいです」
「……湊さん。今夜、ここにいてもいいですか」
「僕も、そのつもりでした」
二人は、雪の中に立ち続けた。二階の窓は、とうとう朝まで開かなかった。
第二十章 雪の夜の火
二月の二度目の大雪の夜、蓮は現地事務所に残っていた。
篠崎も、残っていた。
ガラスの仕切りの向こうで、篠崎は机に向かい、何かを書いていた。ときどき、手を止めて、窓の外の雪を見ていた。蓮が日誌の写真を撮ってから、二か月。篠崎は、あの夜のことを一度も口にしなかった。仕事の指示は、いつもどおり穏やかだった。それが、かえって蓮には怖かった。
夕方、篠崎は一度外へ出て、赤いポリタンクを提げて戻ってきた。
「ストーブの灯油が切れた。久世、寒かったろう」
篠崎は、事務所の石油ストーブに灯油を注ぎ足した。それから、残りの入ったポリタンクを、社用車の鍵と一緒に、自分の机の脇に置いた。
一週間前、千景は蒼和の広報部に質問状を送っていた。篠崎恭一部長が、一九九六年に有働企画に在籍していた事実について。会社としての見解を、二月二十日までに。広報からの回答は、まだなかった。篠崎の机に、その質問状が届いていないはずがなかった。
夜中の一時を回ったころ、篠崎が立ち上がった。
「久世、まだいたのか。もう帰れ。雪で電車が止まるぞ」
篠崎は、コートを着た。社用車の鍵を取った。そして、机の脇の赤いポリタンクを、自然な手つきで提げた。
「部長、それ」
「家のストーブの分だ。ついでに持って帰る」
篠崎は、蓮に背を向けて、事務所を出ていった。
蓮は、しばらく動けなかった。窓から下を見た。白いセダンが、雪の中をゆっくりと走り出していくのが見えた。駅とは、逆の方向へ。太子堂の方角へ。
蓮は、携帯をつかんだ。湊と、千景に、同じ文を打った。
――部長が灯油を持って太子堂へ向かった。柚の湯へ行ってください。
送信して、蓮は階段を駆け下りた。
◇
灯は、焦げ臭さで目を覚ました。
枕もとの時計は、二時を少し過ぎていた。最初は、夢だと思った。父が火をつけようとしていた夜の夢を、灯はこの一週間、何度も見ていた。
だが、匂いは消えなかった。
灯は跳ね起きて、窓を開けた。雪の夜空が、下のほうから赤く照らされていた。釜場の裏だ。裏に積んである廃材の山が、燃えていた。炎が、釜場の板壁を舐めるように這い上がっていた。
「じいちゃん!」
灯は階段を駆け下りた。一階の廊下には、もう薄い煙が流れていた。祖父の部屋の襖を開けた。祖父は、布団の上に起き上がっていた。
「灯、外へ出ろ」
「じいちゃんも!」
祖父は、灯の言葉を聞かずに、廊下へ出た。番台のほうへ。煙の濃くなっていくほうへ。
「じいちゃん、どこ行くの!」
「松さんから、預かったもんがある」
祖父は、番台の引き出しを開けた。白い封筒をつかみ、寝間着の懐に押し込んだ。
釜場の戸の隙間から、炎が噴き出した。脱衣所の天井に、黒い煙が渦を巻いた。祖父が咳き込み、膝をついた。灯は祖父の腕をつかんで、玄関のほうへ引きずった。
玄関の戸は、外から雪に押されて、なかなか開かなかった。
◇
蓮が太子堂の路地に飛び込んだとき、柚の湯の裏から、赤い光が立ちのぼっていた。
路地の角に、白いセダンが止まっていた。その脇に、男が一人、立っていた。手に、空になった赤いポリタンクを提げて。燃え上がる柚の湯を、じっと見上げていた。
「部長!」
篠崎が振り返った。炎に照らされた顔は、蓮の知っている篠崎ではなかった。三十年前の写真の、ぎこちなく笑う青年でもなかった。何もない顔だった。
篠崎はポリタンクを投げ捨て、車に乗り込もうとした。
蓮は、篠崎を追わなかった。
柚の湯の玄関へ走った。戸を引いた。開かなかった。中から、灯の声がした。祖父を呼ぶ声と、咳き込む声。
蓮は、玄関の脇の消火器をつかみ、戸のガラスに叩きつけた。二度、三度。ガラスが砕けた。手を突っ込み、内側の鍵を外した。戸を蹴り開けた。
煙が、どっと噴き出してきた。
玄関の三和土に、灯が祖父を抱えて倒れ込んでいた。蓮は源造の体を肩に担ぎ、灯の腕をつかんで、外へ引きずり出した。雪の上に、三人で転がった。
「灯さん、大丈夫ですか」
灯は咳き込みながら、うなずいた。それから、はっと顔を上げた。
「缶が」
「え?」
「お母さんの手紙。二階に置いてきた」
灯は立ち上がろうとした。蓮は、灯の腕をつかんだ。
「だめです」
「離して! あれしかないの、お母さんとお父さんのものは、あれしか――」
蓮は灯の腕を離した。灯が玄関へ向かうより先に、蓮は煙の中へ飛び込んでいた。
◇
湊が着いたとき、蓮は二階の窓から、菓子の缶を雪の上に投げ落としたところだった。
千景は、路地の入口で一一九に電話をかけていた。湊は、雪の上に倒れている源造に駆け寄った。往診鞄を開け、脈を取り、胸に耳を当てた。煙を吸っていた。手に、軽い火傷があった。だが、息はしっかりしていた。
「源造さん、聞こえますか。湊です」
「……ああ。先生の、倅か」
源造は、うっすらと目を開けた。
玄関から、蓮が転がり出てきた。髪の先が焦げ、顔が煤で黒くなっていた。蓮は雪の上に膝をつき、激しく咳き込んだ。灯が、その背中にしがみついた。
消防車のサイレンが近づいてきた。だが、路地の入口で止まった。太子堂の路地は、消防車が入れないほど狭いのだ。消防士たちがホースを抱えて走ってきた。一本では足りなかった。二本、三本とつないで、ようやく水が届いた。
蓮は、その光景を見ていた。子どものころの火事と、同じ光景だった。
だが、今度は間に合った。
◇
火が消えたのは、明け方だった。
釜場と、男湯の半分が焼け落ちていた。煙突は、黒く煤けて、それでもまだ立っていた。女湯の壁の三保の松原は、焼け残っていた。
路地の向こうで、篠崎の白いセダンが、パトカーに囲まれていた。千景の通報で、警察が駆けつけたのだ。篠崎は抵抗しなかった。車の中で、ハンドルに両手を置いたまま、座っていたという。
救急車の担架の上で、源造は灯を呼んだ。
「灯」
源造は、寝間着の懐から、白い封筒を出した。端が少し焦げていた。
「松さんが、殺される前の晩に、俺に預けたもんだ。……命と引き換えに、残したもんだ」
灯は封筒を受け取り、中の紙を広げた。
黄ばんだ、小さなメモ用紙だった。几帳面な、細い字で書いてあった。
――十一月二十八日(木) 午前二時 柚の湯裏より。
――点火 有働。見張り・車にて待機 篠崎。
――完了後、三軒茶屋駅前にて合流。
篠崎、という字の上に、灯の指が止まった。
灯は、雪の上に膝をついていた蓮を見た。蓮も、灯を見た。その目には、もう何の迷いもなかった。
灯は、メモを封筒に戻した。それから、雪の上に落ちていた菓子の缶を拾い上げ、胸に抱いた。缶は、少しへこんでいた。けれど、蓋はしっかりと閉じたままだった。
灯は、蓮の隣に座り込んだ。蓮の肩に、頭を預けた。
雪が、まだ降っていた。焼け残った煙突の上に、静かに積もっていった。
(第四巻 冬の証明 了)




