↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/5

第三巻 母の恋文

第十一章 天井裏の手紙


 九月の台風は、夜通し太子堂の瓦を叩いた。

 朝になって雨が上がると、二階の押し入れの天井に、茶色い染みが広がっていた。染みの真ん中から、ぽつり、ぽつりと水が落ちている。灯は洗面器を置き、ため息をついた。

「じいちゃん、二階、雨漏りしてる」

 階下から、祖父の返事はなかった。宮内が死んでから、祖父はますます口をきかなくなった。警察には三度呼ばれた。三度とも、夕方には帰ってきた。帰ってくると、何も言わずに釜場に入った。

 灯は懐中電灯を持ち、押し入れの天井板を一枚ずらした。


 天井裏は、埃と、古い木の匂いがした。

 梁の上を、灯は膝で這い進んだ。懐中電灯の光が、蜘蛛の巣と、黒ずんだ瓦の裏を照らす。雨の染み込んでいる場所はすぐに見つかった。瓦が一枚ずれて、隙間から空が細く見えていた。

 ビニールシートで隙間をふさごうとしたとき、懐中電灯の光が、梁の陰に何かを捉えた。

 四角いものだった。油紙に包まれ、麻紐で縛ってある。

 灯は手を伸ばして、それを引き寄せた。思ったより軽かった。油紙をほどくと、中から古い菓子の缶が出てきた。丸い缶で、蓋に色の褪せた花の絵が描いてある。灯が子どものころ、台所の棚にあったのと同じ缶だった。

 蓋は、錆びついて固かった。爪をかけて、ようやく開いた。

 中には、封筒の束が入っていた。

 水色のリボンで十字に縛られた、白い封筒の束。どれも切手が貼られていない。表には、細くて丁寧な字で、同じ宛名が書かれていた。

 ――有働修司様。

 灯は、懐中電灯を取り落としそうになった。

 封筒を裏返した。差出人の名前があった。

 ――柚木早苗。

 母の字だった。灯が小学生のころ、連絡帳に書いてもらった字。給食袋に縫いつけてもらった名札の字。忘れるはずがなかった。


 灯は缶を抱えて、押し入れから這い出した。

 畳の上に缶を置き、リボンをほどいた。封筒を数えた。三十二通あった。束の下に、写真が一枚と、別の封筒が一通入っていた。

 写真には、海が写っていた。

 どこかの浜辺だった。遠くに、島と、灯台のような塔が見える。若い母が、白いワンピースを着て、男の腕にしがみつくようにして笑っていた。男は日に焼けて、目つきが鋭く、けれど口もとは照れくさそうに笑っていた。

 灯は、その男を知らなかった。

 別の封筒は、ほかのものより新しかった。紙がまだ白く、角も擦り切れていない。表には、母の字で、こう書かれていた。

 ――灯へ。

 裏には、日付があった。二〇〇五年十一月。母が死ぬ、ひと月前だった。

 封は、糊でしっかりと閉じられていた。

 灯は、その封筒を手に取った。指先が冷たかった。開ければ、何かが終わる気がした。何かが始まる気もした。どちらなのか、わからなかった。

 灯は、その封筒を缶の底に戻した。

 まだ、開けられない。


 代わりに、束のいちばん上の封筒を取った。日付の順に並んでいるようだった。消印はないが、裏に母の字で「一九九六年五月」とあった。

 灯は、便箋を広げた。


  修司さんへ

  この前は、バケツの水をかけてごめんなさい。

  あなたが父と大声で喧嘩しているのを見て、つい、かっとなってしまいました。

  でも、次の日に、あなたがふつうのお客さんとして暖簾をくぐってきたときは、本当にびっくりしました。

  小銭を番台に置いて、「昨日はどうも」とだけ言って、男湯に入っていきましたね。

  父は気づいていませんでした。わたしは、笑いをこらえるのが大変でした。

  地上げ屋さんも、お風呂に入るんですね。

  当たり前のことなのに、なんだか、それがおかしくて。

  また来てください。今度は水はかけません。

                        早苗


 灯は、便箋を膝の上に置いた。

 地上げ屋。

 母が、地上げ屋に手紙を書いていた。父と喧嘩していた男に。この町を壊しに来た男に。

 灯は写真をもう一度見た。浜辺で笑う母と、目つきの鋭い男。

 有働修司。

 床下で、二十九年眠っていた男。

 灯は、自分の手が震えていることに気づいた。止めようとしても、止まらなかった。


 二通目、三通目と、灯は読み進めた。

 手紙は、少しずつ長くなっていった。

 六月。修司さんは、毎週火曜に来るようになった。番台で、二言三言、話をする。父のいない時間を選んでいるのが、わかる。

 七月。修司さんと、初めて外で会った。三軒茶屋の喫茶店で、修司さんはナポリタンを二皿食べた。地上げの仕事は嫌いだと言った。でも、それしか知らないとも言った。

 八月。修司さんの車で、海へ行った。江ノ島。修司さんは、海を見るのは子どものころ以来だと言った。帰りの車で、わたしは眠ってしまった。目が覚めたら、修司さんがずっとわたしの寝顔を見ていた、と言った。嘘だと思う。

 灯は、ところどころで手を止めた。

 読んでいるのは、自分の知らない母だった。番台で客と軽口を叩き、喫茶店でナポリタンを食べる男を見て笑い、海に行って車で眠ってしまう、二十三歳の女。病院の白いカーテンの向こうで細くなっていった母とは、まるで別の人のようだった。

 母は、恋をしていた。

 この町を壊しに来た男に。


 九通目まで読んだところで、階段を上ってくる足音がした。

 灯は慌てて手紙を缶に戻し、蓋を閉め、押し入れの布団のあいだに押し込んだ。

 襖が開いた。祖父だった。

「雨漏り、どうだった」

「……瓦が一枚ずれてた。シートでふさいだけど、ちゃんと直さないと」

「そうか」

 祖父は押し入れの天井を見上げた。ずらしたままの天井板の隙間が、黒く口を開けていた。

 祖父の目が、その隙間に止まった。ほんの一瞬だった。

「天井裏、何かあったか」

「……何もなかったよ。埃だけ」

 灯は嘘をついた。祖父に嘘をついたのは、生まれて初めてだった。

 祖父はしばらく天井を見ていた。それから、黙って襖を閉め、階段を下りていった。

 灯は押し入れの前に座り込んだ。

 布団のあいだで、缶が、かすかに鳴った気がした。



第十二章 社員名簿


 船橋の団地の階段は、九月になってもまだ暑かった。

 有働雅代は、四階の踊り場で千景を待っていた。両腕に、古い段ボール箱を抱えている。

「警察から、弟の荷物が戻ってきたんです。それと、押し入れの奥に、ずっとしまっていた箱が一つ。弟のアパートを引き払ったとき、大家さんから預かったものです。三十年、開けられなかった」

 雅代は箱を千景に差し出した。

「真柴さん。あなたに、一緒に見てほしいの。一人じゃ、怖くて」


 雅代の部屋の座卓に、箱の中身を並べた。

 古い腕時計。黒い手帳。ネクタイが三本。煙草の空き箱。そして、色の褪せた書類の束。

 書類の束の上に、一枚の紙が載っていた。

 ――有限会社有働企画 社員名簿(平成八年四月現在)。

 名前は五つしかなかった。社長の有働修司。経理の女性が一人。営業が三人。その三人目の名前に、千景の目が止まった。

 ――篠崎恭一(二十四)。

 どこかで見た名前のような気がした。けれど、思い出せなかった。

 書類の束をめくると、契約書の写しが出てきた。業務委託契約書。委託者の欄には、大きな社名と社印があった。

 ――蒼和不動産株式会社。

「……やっぱり」

 千景はつぶやいた。蒼和の下請け。三十年前も、この町を買い上げようとしていたのは、蒼和だったのだ。

「真柴さん、これ」

 雅代が、手帳のあいだから一枚の写真を抜き出した。

 白いセダンの前に、男が二人並んでいた。一人は有働修司。もう一人は、まだ少年のような顔をした細身の青年だった。安物の背広を着て、ぎこちなく笑っている。写真の裏に、ボールペンで書いてあった。

 ――篠崎と。太子堂にて。'96・9。

「この人も、会社の人だったのかしら。弟の部下だったのね。若いわね」

 雅代は写真を撫でた。

「修司は、この子のことを可愛がってたのかもしれない。親のいない子を拾ってきたって、一度、電話で言ってたことがあったわ」

 千景は写真を手帳に挟んだ。

 篠崎。どこかで見た名前だ。どこだったか。


 三軒茶屋の喫茶店で、千景は湊と向かい合っていた。

 通夜の日に連絡先を交換してから、二人は週に一度、ここで会うようになった。湊は往診の合間に、千景は取材の合間に。古い喫茶店で、奥の席はいつも空いていた。

「有働企画は、蒼和の下請けでした。この町を、三十年前も蒼和が買い上げようとしていた」

 千景は契約書の写しを見せた。湊は黙ってそれを読んだ。

「……宮内さんが、亡くなる前に言ってたことがあります」

 湊は、少し迷ってから口を開いた。

「三十年前、この町を燃やそうとしたやつらを責めろ、って」

 千景はカップを置いた。

「燃やす?」

「僕にも、意味はわかりません。父は、知ってると思う。でも、話してくれない」

 湊はコーヒーを一口飲んだ。苦そうな顔をした。

「父と宮内さんが言い争っているのを、聞いてしまったんです。宮内さんは全部話すと言って、父は止めていた。あの子の名前が出る、って」

「あの子」

「灯のことじゃない。灯は何も知らない、とも言ってたから」

 千景は手帳を開き、その言葉を書きつけた。あの子。燃やそうとした。三十年前。

「先生。どうして、私に話してくれたんですか」

 湊は窓の外を見た。商店街を、自転車の主婦が通り過ぎていった。

「宮内さんが死んだから」

 湊は言った。

「宮内さんは、話そうとして殺された。あの人の言葉を、僕が黙って抱えていたら、あの人は本当に何も言えなかったことになる。それは、嫌だった」


 しばらく、二人は黙っていた。

「真柴さんは、どうして記者になったんですか」

 不意に、湊が訊いた。

「急にどうしたんですか」

「僕ばかり話してるので」

 千景は笑おうとして、やめた。

「静岡の新聞社にいたころ、放火事件を追ってました。古い商店街で、三件続けて。警察が、近所に住んでた若い男を任意で呼んだ。私はその男のことを書きました。前科があること。近所と揉めていたこと。夜中にうろついていたこと。全部、本当のことでした」

 千景はカップの縁を指でなぞった。

「三か月後に、真犯人が捕まりました。別の人でした。その男は、もう商店街にいられなくなって、町を出ていった。私は謝りに行かなかった。書いたことは全部本当だったから。……それで、東京に出てきて、週刊誌に入りました。どうせ書くなら、もっと派手なものを書いてやろうって」

「柚木さんのおじいさんを、書かないのは」

「同じことを、二度したくないから」

 千景は顔を上げた。

「でも、デスクは書けと言ってます。宮内さんが殺されて、前の晩に言い争ってたのは柚木さんのおじいさんだって、もう他の週刊誌が書きはじめてる。うちが黙っていても、いずれ誰かが書きます。止められない」

 湊は、何も言わなかった。

 喫茶店の古い時計が、四時を打った。

「先生、もう往診の時間じゃないですか」

「……ああ」

 湊は立ち上がり、伝票を取った。

「今日は僕が」

「この前もそう言いました」

「この前は、あなたが勝手に払った」

 湊はレジへ向かった。その背中を見ながら、千景は思った。この人は、柚木灯のために、ここに来ている。私に会いに来ているのではない。

 わかっていることだった。わかっていて、なぜか少し、胸が痛んだ。

 千景は手帳を閉じた。挟んだ写真の角が、指に当たった。白いセダンの前で、ぎこちなく笑う青年。

 篠崎。

 どこで見たのだったか。



第十三章 烏山川緑道


 十月の最初の雨の夜、父は珍しく酒を飲んでいた。

 診察を終えた湊が茶の間に入ると、父はちゃぶ台の前で、湯呑みに冷や酒を注いでいた。つまみは、塩をふった枝豆だけだった。

「飲むなんて、珍しいね」

「たまにはな」

 父は湊にも湯呑みを出した。湊は向かいに座り、少しだけ注いでもらった。

 しばらく、二人で黙って飲んだ。窓の外で、雨が庭の紫陽花の枯れ葉を叩いていた。

「湊」

「うん」

「あの夜のことだがな」

 湊は湯呑みを置いた。父は湊を見ていなかった。湯呑みの中の酒を、じっと見ていた。

「一九九六年の、十一月の終わりだった。夜中の二時に、電話が鳴った。源さんからだった。往診鞄を持って、すぐに来てくれと」

 父の声は、ひどく静かだった。

「俺は、鞄を持って柚の湯へ走った。釜場の戸を開けたら――」

 そこで、父の声が止まった。

 湊は待った。雨の音だけが聞こえた。

 父は湯呑みを置き、両手で顔を覆った。

「……いや。まだだ」

「父さん」

「源さんが話すまでは、俺は話せん。あれは、源さんの家のことだ。俺が先に話したら、源さんは一生、俺を許さんだろう。それに――」

 父は手を下ろした。目が赤かった。

「お前に話したら、お前はもう、灯ちゃんの顔をまっすぐ見られなくなる」

 湊は、何も言えなかった。

 父は立ち上がり、ふらつく足で寝室へ向かった。襖の前で、父は振り返った。

「湊。灯ちゃんを、大事にしてやれ」

 襖が閉まった。


 次の夜、湊は柚の湯へ行った。

 湯から上がると、灯はいつものベンチにいなかった。番台に、源造が座っていた。湊を見て、源造はぶっきらぼうに顎で奥をしゃくった。

「灯なら、二階だ。上がってけ」

 階段を上ると、灯は自分の部屋の窓辺に座っていた。膝の上に、古い菓子の缶を抱えていた。

「湊」

「源造さんに、上がれって言われた」

「……じいちゃんが?」

 灯は少し驚いた顔をした。それから、缶を見下ろした。

「これ、天井裏で見つけたの。台風の次の日」

 灯は蓋を開けた。水色のリボンで縛られた手紙の束と、写真が一枚。灯は写真を湊に渡した。海辺で笑う、若い女と、目つきの鋭い男。

「お母さん。それと、有働修司っていう人」

 湊は写真を見つめた。早苗さんだった。湊の記憶にある早苗さんより、ずっと若く、ずっと明るい顔をしていた。

「お母さんが、この人に書いた手紙。三十二通。まだ半分しか読めてない」

 灯は缶の蓋を閉めた。

「お母さん、この人のことが好きだったんだよ。地上げ屋なのに。じいちゃんと喧嘩してた人なのに」

 湊は写真を灯に返した。手が、少し震えていた。

 あの子の名前が出るんだぞ。

 父の声だった。宮内の家の縁側で、父はそう言った。あの子。灯ではない誰か。

 早苗さんだ。

 湊は、ようやくわかった。三十年前の夜、何かが起きた。その中心に、早苗さんがいた。父と宮内と源造は、それを三十年、黙ってきた。

「湊? どうしたの、顔色悪いよ」

「……なんでもない」

 湊は嘘をついた。父と同じ嘘を。


「残りの手紙、一緒に読もうか」

 湊が言うと、灯は首を振った。

「湊には、頼めない」

「どうして」

「湊は、この町の人だから」

 灯は缶を抱きしめた。

「読んでいったら、町の誰かの名前が出てくるかもしれない。湊の知ってる人の。もしかしたら、湊の大事な人の。そうなったら、湊が困るでしょう。わたし、湊を困らせたくない」

 湊は、息が止まりそうになった。

 灯は、何も知らない。何も知らないのに、正しい場所に立っていた。


「少し、歩かない?」

 湊が言った。灯はうなずいた。

 二人は柚の湯を出て、烏山川緑道へ向かった。雨は上がっていた。暗渠の上の細い遊歩道に、濡れた桜の葉が一面に落ちていた。街灯の光が、水たまりの中で揺れていた。

 子どものころ、二人はこの道でよく遊んだ。灯が転んで膝を擦りむいたとき、湊は父の往診鞄から絆創膏を盗んできて、貼ってやった。灯は泣きながら笑った。八歳の湊は、そのとき、自分は医者になるのだと決めた。

「灯」

 湊は足を止めた。灯も止まった。

「ずっと、言えなかったことがある」

「……うん」

「好きだった。ずっと。八歳のときから」

 灯は湊を見上げた。街灯の光が、灯の目の中で揺れていた。

「早苗さんの葬式で、灯の手を握ったときから、ずっと。灯の手が冷たかったから、ずっと温めていようと思った。子どもの決心だった。でも、変わらなかった。二十年経っても、一度も」

 灯は、何も言わなかった。

 風が吹いて、桜の葉が二人のあいだを転がっていった。

「……ごめん」

 灯の声は、小さかった。

「今は、何も考えられない。お母さんのことも、宮内さんのことも、じいちゃんのことも。頭の中がいっぱいで。湊のこと、ちゃんと考えたいのに、考えられない」

「答えは、いらない」

 湊は言った。自分でも驚くほど、穏やかな声だった。

「ただ、知っていてほしかった。灯がどんなに困っても、俺はここにいる。この町にいる。それだけ」

 灯の目から、涙がこぼれた。灯は湊の胸に額を押しつけた。湊は、灯の背中にそっと手を置いた。抱きしめはしなかった。抱きしめたら、灯がどこかへ行ってしまう気がした。

 灯は、しばらくそのまま泣いていた。

 やがて顔を上げ、袖で目をこすった。

「ありがとう、湊」

 灯は笑った。泣きながら。あの日、膝を擦りむいたときと同じ顔で。

 湊は、その顔を一生忘れないだろうと思った。

 それが、自分に向けられた最後の笑顔になるかもしれないことも、どこかでわかっていた。



第十四章 二人で読む


 十月の半ば、夜の十一時過ぎに、蓮の携帯が鳴った。

 知らない番号だった。出ると、少しの沈黙のあとで、声がした。

「……柚木です。柚の湯の」

 蓮は、ベッドから跳ね起きた。

「柚木さん。どうしたんですか、こんな時間に」

「ごめんなさい。名刺の番号、ずっと捨てられなくて」

 灯の声は、かすれていた。

「読んでほしいものがあるの。一人じゃ、読めない」

「僕が、ですか」

「あなたが、この町の人じゃないから」

 灯は言った。

「この町の人には、頼めない。誰の名前が出てくるか、わからないから。……あなたなら、知らない人の話として、聞いてくれるでしょう」

 蓮はもう、上着をつかんでいた。

「三十分で行きます」


 柚の湯の暖簾は、もう下りていた。

 裏口の戸を叩くと、灯が開けた。寝間着の上にカーディガンを羽織り、髪を下ろしていた。蓮は、灯が髪を下ろしているのを初めて見た。

「じいちゃん、もう寝てるから。静かに」

 灯は蓮を釜場へ通した。

 焚き口の火は、まだ落ちきっていなかった。灰の奥で、熾火が赤く呼吸していた。灯は丸椅子を二つ並べ、その一つに座った。膝の上に、古い菓子の缶があった。

「お母さんの手紙。三十年前の。相手は、有働修司」

 蓮は、息をのんだ。

「床下の……」

「うん」

 灯は缶の蓋を開けた。水色のリボンの束から、半分ほどがよけてあった。もう読んだ分なのだろう。

「ここから先が、怖くて読めない。一緒に読んで」


 熾火の明かりで、二人は手紙を読んだ。

 灯が便箋を開き、声に出して読んだ。ときどき声が詰まると、蓮が続きを読んだ。

 九月の手紙には、修司が会社をやめるつもりだと書いてあった。この冬の仕事を最後にする。そうしたら、二人でこの町を出よう。修司はそう言った、と。

 十月の初めの手紙は、短かった。


  修司さんから、わたしの手紙を全部返されました。

  「預かっててくれ。町を出る日に、一緒に持っていく」

  そう書いた紙が、束の上に挟んでありました。

  あなたの字は、本当に下手ですね。

  でも、うれしかった。


 束のあいだから、一枚の小さな紙が出てきた。罫線のないメモ用紙に、乱暴な字で、たしかにそう書いてあった。灯はその紙を、長いあいだ指でなぞっていた。

「下手な字」

 灯は、笑おうとした。笑えなかった。


 十月の終わりの手紙を、蓮が読んだ。


  修司さんは、ときどき怖い顔をします。

  会社が、何か恐ろしいことを考えているのだそうです。

  わたしが訊いても、修司さんは教えてくれません。

  「壊すことでしか、守れないものもある」

  修司さんは、そう言いました。

  わたしには、意味がわかりませんでした。


 蓮は、便箋を持つ手が止まったことに気づいた。

 壊すことでしか、守れないものもある。

 それは、蓮自身が何度も口にしてきた言葉だった。灯にも、言った。燃える前に壊せば、誰も死なない。三十年前、同じ言葉を、同じ会社の仕事をしていた男が言っていた。

「久世さん?」

「……すみません。続けます」


 十一月の初めの手紙を、灯が読んだ。

 読みはじめて、すぐに、灯の声が止まった。


  修司さんへ

  春になったら、三人で暮らしましょう。

  あなたは驚くと思います。わたしも、驚きました。

  お医者さんには、まだ父に言わないでくれと頼みました。

  父には、町を出るときに、ちゃんと話します。

  男の子でも、女の子でもいい。

  あなたに似て、目つきが悪くてもいい。


 灯は、便箋を膝の上に落とした。

「三人」

 灯がつぶやいた。

「春になったら、三人」

 灯は、一九九七年の春に生まれた。

 灯の手が震えはじめた。肩が、背中が、全身が震えた。灯は両手で顔を覆った。声は出なかった。声も出せないまま、灯は泣いていた。

 蓮は、何も言えなかった。

 何を言えばいいのか、わからなかった。この人の父親は、床下で二十九年眠っていた。この人の母親は、その男を愛していた。そして、その男は、蓮の会社の仕事をしていた。

 蓮は、灯の肩に手を伸ばした。触れていいのかどうか、わからなかった。

 灯が、その手をつかんだ。

 強い力だった。溺れる人が、何かにしがみつくような。蓮は丸椅子から下り、灯の前に膝をつき、灯の体を抱きしめた。灯は蓮の肩に顔をうずめ、声を殺して泣いた。

 熾火が、小さくはぜた。


 どれくらい、そうしていたのかわからない。

 灯が顔を上げた。目が腫れていた。頬に、涙の跡が光っていた。

「ごめんなさい。シャツ、濡らしちゃった」

「いいんです」

 二人の顔は、近かった。

 灯の目が、蓮の目を見ていた。蓮は、その目から逃げられなかった。逃げたくなかった。

 どちらからともなく、唇が触れた。

 短い、震えるような口づけだった。灯の唇は、涙で塩辛かった。

 離れたあとで、灯は蓮の胸に額を押しつけた。

「……あなたは、壊す側の人なのに」

「はい」

「なんで、あなたなんだろう」

「わかりません」

 蓮は灯の髪に手を置いた。

「僕も、わかりません。でも、今は、ここにいたい」


 夜明けまで、二人は釜場にいた。

 蓮は、資料室で見つけたものを灯に話した。有働企画への支払いが、一九九六年の十月で途切れていたこと。余白に残っていた鉛筆の走り書き。

 ――特別対策(十一月末実施予定)→中止。担当者所在不明のため。

「特別対策って、何」

「わかりません。三年この仕事をしてきて、一度も見たことのない言葉です」

 灯は、膝の上の缶を見下ろした。

「宮内さんが、死ぬ前の日に言ってた。この町に火をつけようとした連中のこと、全部話すって」

 蓮は、灯の顔を見た。灯も、蓮を見た。

 熾火が、すっかり灰になっていた。釜場の小さな窓が、白みはじめていた。

「残りは、あと三通」

 灯が言った。

「明日、一人で読む。もう、大丈夫だから」

 灯は、缶の蓋を閉めた。

 蓮は裏口から外へ出た。夜明け前の路地は、ひんやりと冷たかった。振り返ると、釜場の窓に、灯の影が映っていた。

 蓮は、自分の手のひらを見た。灯の涙で、まだ少し湿っていた。

 壊すことでしか、守れないものもある。

 その言葉を、蓮はもう二度と口にできないと思った。



第十五章 燃やすつもり


 夜明けの路地で、湊は足を止めた。

 眠れなかったのだ。烏山川緑道で灯に想いを告げてから、三日。湊は毎晩、天井を見て朝を待った。この日もそうだった。五時を回ったところで諦めて、上着を羽織り、外へ出た。足は、自然と柚の湯へ向かっていた。

 柚の湯の裏口の戸が開いた。

 男が一人、出てきた。紺の背広の上着を腕にかけ、白いシャツの肩が濡れたように皺になっていた。男は戸を静かに閉め、振り返って、釜場の窓を見上げた。

 久世蓮だった。

 蓮は、路地の先に立つ湊に気づいた。二人は、しばらく黙って向かい合った。

「……瀬能さん」

「こんな時間に、何してたんですか」

 湊の声は、自分でも驚くほど低かった。

「柚木さんに呼ばれて。読みたいものがあると」

「手紙ですか」

 蓮の目が、わずかに動いた。湊は、それで十分だった。

 灯は、湊には頼めないと言った。湊は、この町の人だから。だから、この男を呼んだのだ。この町の人間ではない男を。この町を壊しに来た男を。

 湊は、蓮の前まで歩いた。

「あなたは、自分の会社が、この町に何をしたのか知ってるんですか」

「知ろうとしています」

「知ろうとしてる?」

 湊は、蓮のシャツの襟をつかんでいた。いつつかんだのか、自分でもわからなかった。

「三十年前、この町を燃やそうとしたやつらがいた。宮内さんはそう言って死んだ。あなたの会社の下請けが、この町に来ていた。あなたは、その会社の人間だ。その手で、灯に触ったのか」

 蓮は、湊の手を振りほどかなかった。

「触りました」

 まっすぐな目だった。

「僕は、自分の会社が何をしたのか、まだ全部はわかりません。わかったら、全部、柚木さんに話します。それが、僕にとってどんなに都合の悪いことでも。……瀬能さんにも、話します」

 湊の手から、力が抜けた。

 蓮は、皺になった襟を直しもせずに、頭を下げた。

「失礼します」

 蓮は路地を出ていった。湊は、柚の湯の煙突を見上げた。夜明けの空に、煙は出ていなかった。


 ◇


 その夜、灯は一人で、残りの三通を読んだ。

 十一月の半ばの手紙。修司さんが、だんだん無口になっていく。会社の人と、毎晩遅くまで話している。わたしの顔を見ると、無理に笑う。

 十一月の二十日の手紙。修司さんに、お腹のことを話した。修司さんは、泣いた。大の大人が、子どものように。

 最後の一通は、手紙ではなかった。

 便箋ではなく、大学ノートを破ったような紙だった。宛名も、署名もなかった。母の字が、ひどく乱れていた。


  十一月二十七日

  あの人たちは、この町を燃やすつもりだ。

  立ち退かない家をまとめて、火事で更地にする。

  今夜、修司さんがやらされる。

  柚の湯の裏から。

  修司さんは、やらないと言った。でも、やらなければ、修司さんが壊される。会社の上の人たちに。

  わたしは、止める。

  わたしが、止めなきゃ。


 紙は、そこで終わっていた。

 灯は、その紙を膝の上に置いたまま、長いあいだ動けなかった。

 柚の湯の裏から。

 この家に、火をつけようとしていた。父になるはずだった男が。母の愛した男が。

 そして、その夜。日付が変わった十一月二十八日の未明に、有働修司は姿を消した。床下で、二十九年眠ることになった。

 灯は携帯を取り出した。番号を押す指が震えた。祖父には言えない。湊には頼めない。蓮は、会社の人間だ。

 灯は財布の中から、くしゃくしゃになった名刺を取り出した。春に番台に置かれて、捨てようとして、捨てられなかった名刺。

 ――『週刊時報』記者 真柴千景。


 ◇


 千景が柚の湯の裏口に着いたのは、夜の十二時を回ったころだった。

 灯は、二階の自分の部屋に千景を通した。缶を差し出し、最後の紙を見せた。千景は黙って読んだ。二度、読んだ。

「……柚の湯の裏から」

 千景は声に出した。

「三十年前、この町を燃やす計画があった。最初に火をつける場所が、ここだった」

 灯はうなずいた。

「なんで、わたしに見せてくれたんですか」

「あなたが、じいちゃんを書かなかったから」

 灯は言った。

「他の週刊誌は、じいちゃんが宮内さんを殺したみたいに書いた。あなたのところだけ、書かなかった。だから」

 千景は、紙を灯に返した。手が少し震えていた。

「柚木さん。あなたのお母さんのことも、書くことになるかもしれません。この紙の意味がわかったら」

「わかってる」

 灯は紙を缶にしまった。

「本当のことが知りたい。それが、どんなことでも」

 千景は、灯の顔を見た。春に番台で見た、疲れた目ではなかった。何かを決めた人の目だった。

「有働修司さんの会社には、社員が四人いました。名簿が残っています。そのうちの誰かが、この計画を知っていたはずです。……調べます」


 ◇


 柚の湯を出たのは、夜中の二時だった。

 千景はタクシーで編集部に戻った。誰もいないフロアの蛍光灯をつけ、自分の机の引き出しを開けた。春から集めてきた、太子堂の資料がぎっしり詰まっている。

 その中に、四月に取った資料があった。蒼和不動産が住民に配った、中枢計画の説明会のパンフレットだ。表紙には、看板と同じ完成予想図。最後のページに、担当部署の名前が並んでいた。

 千景は、そのページを開いた。

 ――三軒茶屋中枢拠点再生計画 事業推進責任者 用地取得部長 篠崎恭一。

 千景は、手帳に挟んでいた写真を取り出した。

 白いセダンの前で、ぎこちなく笑う細身の青年。裏に、ボールペンの字。

 ――篠崎と。太子堂にて。'96・9。

 蛍光灯が、低く唸っていた。

 千景は、パンフレットと写真を並べて、机の上に置いた。

 三十年前、この町を燃やそうとした会社の、名もない若い社員。

 三十年後、同じ町を壊そうとしている会社の、計画の責任者。

 同じ名前だった。


(第三巻 母の恋文 了)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。