第三巻 母の恋文
第十一章 天井裏の手紙
九月の台風は、夜通し太子堂の瓦を叩いた。
朝になって雨が上がると、二階の押し入れの天井に、茶色い染みが広がっていた。染みの真ん中から、ぽつり、ぽつりと水が落ちている。灯は洗面器を置き、ため息をついた。
「じいちゃん、二階、雨漏りしてる」
階下から、祖父の返事はなかった。宮内が死んでから、祖父はますます口をきかなくなった。警察には三度呼ばれた。三度とも、夕方には帰ってきた。帰ってくると、何も言わずに釜場に入った。
灯は懐中電灯を持ち、押し入れの天井板を一枚ずらした。
天井裏は、埃と、古い木の匂いがした。
梁の上を、灯は膝で這い進んだ。懐中電灯の光が、蜘蛛の巣と、黒ずんだ瓦の裏を照らす。雨の染み込んでいる場所はすぐに見つかった。瓦が一枚ずれて、隙間から空が細く見えていた。
ビニールシートで隙間をふさごうとしたとき、懐中電灯の光が、梁の陰に何かを捉えた。
四角いものだった。油紙に包まれ、麻紐で縛ってある。
灯は手を伸ばして、それを引き寄せた。思ったより軽かった。油紙をほどくと、中から古い菓子の缶が出てきた。丸い缶で、蓋に色の褪せた花の絵が描いてある。灯が子どものころ、台所の棚にあったのと同じ缶だった。
蓋は、錆びついて固かった。爪をかけて、ようやく開いた。
中には、封筒の束が入っていた。
水色のリボンで十字に縛られた、白い封筒の束。どれも切手が貼られていない。表には、細くて丁寧な字で、同じ宛名が書かれていた。
――有働修司様。
灯は、懐中電灯を取り落としそうになった。
封筒を裏返した。差出人の名前があった。
――柚木早苗。
母の字だった。灯が小学生のころ、連絡帳に書いてもらった字。給食袋に縫いつけてもらった名札の字。忘れるはずがなかった。
灯は缶を抱えて、押し入れから這い出した。
畳の上に缶を置き、リボンをほどいた。封筒を数えた。三十二通あった。束の下に、写真が一枚と、別の封筒が一通入っていた。
写真には、海が写っていた。
どこかの浜辺だった。遠くに、島と、灯台のような塔が見える。若い母が、白いワンピースを着て、男の腕にしがみつくようにして笑っていた。男は日に焼けて、目つきが鋭く、けれど口もとは照れくさそうに笑っていた。
灯は、その男を知らなかった。
別の封筒は、ほかのものより新しかった。紙がまだ白く、角も擦り切れていない。表には、母の字で、こう書かれていた。
――灯へ。
裏には、日付があった。二〇〇五年十一月。母が死ぬ、ひと月前だった。
封は、糊でしっかりと閉じられていた。
灯は、その封筒を手に取った。指先が冷たかった。開ければ、何かが終わる気がした。何かが始まる気もした。どちらなのか、わからなかった。
灯は、その封筒を缶の底に戻した。
まだ、開けられない。
代わりに、束のいちばん上の封筒を取った。日付の順に並んでいるようだった。消印はないが、裏に母の字で「一九九六年五月」とあった。
灯は、便箋を広げた。
修司さんへ
この前は、バケツの水をかけてごめんなさい。
あなたが父と大声で喧嘩しているのを見て、つい、かっとなってしまいました。
でも、次の日に、あなたがふつうのお客さんとして暖簾をくぐってきたときは、本当にびっくりしました。
小銭を番台に置いて、「昨日はどうも」とだけ言って、男湯に入っていきましたね。
父は気づいていませんでした。わたしは、笑いをこらえるのが大変でした。
地上げ屋さんも、お風呂に入るんですね。
当たり前のことなのに、なんだか、それがおかしくて。
また来てください。今度は水はかけません。
早苗
灯は、便箋を膝の上に置いた。
地上げ屋。
母が、地上げ屋に手紙を書いていた。父と喧嘩していた男に。この町を壊しに来た男に。
灯は写真をもう一度見た。浜辺で笑う母と、目つきの鋭い男。
有働修司。
床下で、二十九年眠っていた男。
灯は、自分の手が震えていることに気づいた。止めようとしても、止まらなかった。
二通目、三通目と、灯は読み進めた。
手紙は、少しずつ長くなっていった。
六月。修司さんは、毎週火曜に来るようになった。番台で、二言三言、話をする。父のいない時間を選んでいるのが、わかる。
七月。修司さんと、初めて外で会った。三軒茶屋の喫茶店で、修司さんはナポリタンを二皿食べた。地上げの仕事は嫌いだと言った。でも、それしか知らないとも言った。
八月。修司さんの車で、海へ行った。江ノ島。修司さんは、海を見るのは子どものころ以来だと言った。帰りの車で、わたしは眠ってしまった。目が覚めたら、修司さんがずっとわたしの寝顔を見ていた、と言った。嘘だと思う。
灯は、ところどころで手を止めた。
読んでいるのは、自分の知らない母だった。番台で客と軽口を叩き、喫茶店でナポリタンを食べる男を見て笑い、海に行って車で眠ってしまう、二十三歳の女。病院の白いカーテンの向こうで細くなっていった母とは、まるで別の人のようだった。
母は、恋をしていた。
この町を壊しに来た男に。
九通目まで読んだところで、階段を上ってくる足音がした。
灯は慌てて手紙を缶に戻し、蓋を閉め、押し入れの布団のあいだに押し込んだ。
襖が開いた。祖父だった。
「雨漏り、どうだった」
「……瓦が一枚ずれてた。シートでふさいだけど、ちゃんと直さないと」
「そうか」
祖父は押し入れの天井を見上げた。ずらしたままの天井板の隙間が、黒く口を開けていた。
祖父の目が、その隙間に止まった。ほんの一瞬だった。
「天井裏、何かあったか」
「……何もなかったよ。埃だけ」
灯は嘘をついた。祖父に嘘をついたのは、生まれて初めてだった。
祖父はしばらく天井を見ていた。それから、黙って襖を閉め、階段を下りていった。
灯は押し入れの前に座り込んだ。
布団のあいだで、缶が、かすかに鳴った気がした。
第十二章 社員名簿
船橋の団地の階段は、九月になってもまだ暑かった。
有働雅代は、四階の踊り場で千景を待っていた。両腕に、古い段ボール箱を抱えている。
「警察から、弟の荷物が戻ってきたんです。それと、押し入れの奥に、ずっとしまっていた箱が一つ。弟のアパートを引き払ったとき、大家さんから預かったものです。三十年、開けられなかった」
雅代は箱を千景に差し出した。
「真柴さん。あなたに、一緒に見てほしいの。一人じゃ、怖くて」
雅代の部屋の座卓に、箱の中身を並べた。
古い腕時計。黒い手帳。ネクタイが三本。煙草の空き箱。そして、色の褪せた書類の束。
書類の束の上に、一枚の紙が載っていた。
――有限会社有働企画 社員名簿(平成八年四月現在)。
名前は五つしかなかった。社長の有働修司。経理の女性が一人。営業が三人。その三人目の名前に、千景の目が止まった。
――篠崎恭一(二十四)。
どこかで見た名前のような気がした。けれど、思い出せなかった。
書類の束をめくると、契約書の写しが出てきた。業務委託契約書。委託者の欄には、大きな社名と社印があった。
――蒼和不動産株式会社。
「……やっぱり」
千景はつぶやいた。蒼和の下請け。三十年前も、この町を買い上げようとしていたのは、蒼和だったのだ。
「真柴さん、これ」
雅代が、手帳のあいだから一枚の写真を抜き出した。
白いセダンの前に、男が二人並んでいた。一人は有働修司。もう一人は、まだ少年のような顔をした細身の青年だった。安物の背広を着て、ぎこちなく笑っている。写真の裏に、ボールペンで書いてあった。
――篠崎と。太子堂にて。'96・9。
「この人も、会社の人だったのかしら。弟の部下だったのね。若いわね」
雅代は写真を撫でた。
「修司は、この子のことを可愛がってたのかもしれない。親のいない子を拾ってきたって、一度、電話で言ってたことがあったわ」
千景は写真を手帳に挟んだ。
篠崎。どこかで見た名前だ。どこだったか。
三軒茶屋の喫茶店で、千景は湊と向かい合っていた。
通夜の日に連絡先を交換してから、二人は週に一度、ここで会うようになった。湊は往診の合間に、千景は取材の合間に。古い喫茶店で、奥の席はいつも空いていた。
「有働企画は、蒼和の下請けでした。この町を、三十年前も蒼和が買い上げようとしていた」
千景は契約書の写しを見せた。湊は黙ってそれを読んだ。
「……宮内さんが、亡くなる前に言ってたことがあります」
湊は、少し迷ってから口を開いた。
「三十年前、この町を燃やそうとしたやつらを責めろ、って」
千景はカップを置いた。
「燃やす?」
「僕にも、意味はわかりません。父は、知ってると思う。でも、話してくれない」
湊はコーヒーを一口飲んだ。苦そうな顔をした。
「父と宮内さんが言い争っているのを、聞いてしまったんです。宮内さんは全部話すと言って、父は止めていた。あの子の名前が出る、って」
「あの子」
「灯のことじゃない。灯は何も知らない、とも言ってたから」
千景は手帳を開き、その言葉を書きつけた。あの子。燃やそうとした。三十年前。
「先生。どうして、私に話してくれたんですか」
湊は窓の外を見た。商店街を、自転車の主婦が通り過ぎていった。
「宮内さんが死んだから」
湊は言った。
「宮内さんは、話そうとして殺された。あの人の言葉を、僕が黙って抱えていたら、あの人は本当に何も言えなかったことになる。それは、嫌だった」
しばらく、二人は黙っていた。
「真柴さんは、どうして記者になったんですか」
不意に、湊が訊いた。
「急にどうしたんですか」
「僕ばかり話してるので」
千景は笑おうとして、やめた。
「静岡の新聞社にいたころ、放火事件を追ってました。古い商店街で、三件続けて。警察が、近所に住んでた若い男を任意で呼んだ。私はその男のことを書きました。前科があること。近所と揉めていたこと。夜中にうろついていたこと。全部、本当のことでした」
千景はカップの縁を指でなぞった。
「三か月後に、真犯人が捕まりました。別の人でした。その男は、もう商店街にいられなくなって、町を出ていった。私は謝りに行かなかった。書いたことは全部本当だったから。……それで、東京に出てきて、週刊誌に入りました。どうせ書くなら、もっと派手なものを書いてやろうって」
「柚木さんのおじいさんを、書かないのは」
「同じことを、二度したくないから」
千景は顔を上げた。
「でも、デスクは書けと言ってます。宮内さんが殺されて、前の晩に言い争ってたのは柚木さんのおじいさんだって、もう他の週刊誌が書きはじめてる。うちが黙っていても、いずれ誰かが書きます。止められない」
湊は、何も言わなかった。
喫茶店の古い時計が、四時を打った。
「先生、もう往診の時間じゃないですか」
「……ああ」
湊は立ち上がり、伝票を取った。
「今日は僕が」
「この前もそう言いました」
「この前は、あなたが勝手に払った」
湊はレジへ向かった。その背中を見ながら、千景は思った。この人は、柚木灯のために、ここに来ている。私に会いに来ているのではない。
わかっていることだった。わかっていて、なぜか少し、胸が痛んだ。
千景は手帳を閉じた。挟んだ写真の角が、指に当たった。白いセダンの前で、ぎこちなく笑う青年。
篠崎。
どこで見たのだったか。
第十三章 烏山川緑道
十月の最初の雨の夜、父は珍しく酒を飲んでいた。
診察を終えた湊が茶の間に入ると、父はちゃぶ台の前で、湯呑みに冷や酒を注いでいた。つまみは、塩をふった枝豆だけだった。
「飲むなんて、珍しいね」
「たまにはな」
父は湊にも湯呑みを出した。湊は向かいに座り、少しだけ注いでもらった。
しばらく、二人で黙って飲んだ。窓の外で、雨が庭の紫陽花の枯れ葉を叩いていた。
「湊」
「うん」
「あの夜のことだがな」
湊は湯呑みを置いた。父は湊を見ていなかった。湯呑みの中の酒を、じっと見ていた。
「一九九六年の、十一月の終わりだった。夜中の二時に、電話が鳴った。源さんからだった。往診鞄を持って、すぐに来てくれと」
父の声は、ひどく静かだった。
「俺は、鞄を持って柚の湯へ走った。釜場の戸を開けたら――」
そこで、父の声が止まった。
湊は待った。雨の音だけが聞こえた。
父は湯呑みを置き、両手で顔を覆った。
「……いや。まだだ」
「父さん」
「源さんが話すまでは、俺は話せん。あれは、源さんの家のことだ。俺が先に話したら、源さんは一生、俺を許さんだろう。それに――」
父は手を下ろした。目が赤かった。
「お前に話したら、お前はもう、灯ちゃんの顔をまっすぐ見られなくなる」
湊は、何も言えなかった。
父は立ち上がり、ふらつく足で寝室へ向かった。襖の前で、父は振り返った。
「湊。灯ちゃんを、大事にしてやれ」
襖が閉まった。
次の夜、湊は柚の湯へ行った。
湯から上がると、灯はいつものベンチにいなかった。番台に、源造が座っていた。湊を見て、源造はぶっきらぼうに顎で奥をしゃくった。
「灯なら、二階だ。上がってけ」
階段を上ると、灯は自分の部屋の窓辺に座っていた。膝の上に、古い菓子の缶を抱えていた。
「湊」
「源造さんに、上がれって言われた」
「……じいちゃんが?」
灯は少し驚いた顔をした。それから、缶を見下ろした。
「これ、天井裏で見つけたの。台風の次の日」
灯は蓋を開けた。水色のリボンで縛られた手紙の束と、写真が一枚。灯は写真を湊に渡した。海辺で笑う、若い女と、目つきの鋭い男。
「お母さん。それと、有働修司っていう人」
湊は写真を見つめた。早苗さんだった。湊の記憶にある早苗さんより、ずっと若く、ずっと明るい顔をしていた。
「お母さんが、この人に書いた手紙。三十二通。まだ半分しか読めてない」
灯は缶の蓋を閉めた。
「お母さん、この人のことが好きだったんだよ。地上げ屋なのに。じいちゃんと喧嘩してた人なのに」
湊は写真を灯に返した。手が、少し震えていた。
あの子の名前が出るんだぞ。
父の声だった。宮内の家の縁側で、父はそう言った。あの子。灯ではない誰か。
早苗さんだ。
湊は、ようやくわかった。三十年前の夜、何かが起きた。その中心に、早苗さんがいた。父と宮内と源造は、それを三十年、黙ってきた。
「湊? どうしたの、顔色悪いよ」
「……なんでもない」
湊は嘘をついた。父と同じ嘘を。
「残りの手紙、一緒に読もうか」
湊が言うと、灯は首を振った。
「湊には、頼めない」
「どうして」
「湊は、この町の人だから」
灯は缶を抱きしめた。
「読んでいったら、町の誰かの名前が出てくるかもしれない。湊の知ってる人の。もしかしたら、湊の大事な人の。そうなったら、湊が困るでしょう。わたし、湊を困らせたくない」
湊は、息が止まりそうになった。
灯は、何も知らない。何も知らないのに、正しい場所に立っていた。
「少し、歩かない?」
湊が言った。灯はうなずいた。
二人は柚の湯を出て、烏山川緑道へ向かった。雨は上がっていた。暗渠の上の細い遊歩道に、濡れた桜の葉が一面に落ちていた。街灯の光が、水たまりの中で揺れていた。
子どものころ、二人はこの道でよく遊んだ。灯が転んで膝を擦りむいたとき、湊は父の往診鞄から絆創膏を盗んできて、貼ってやった。灯は泣きながら笑った。八歳の湊は、そのとき、自分は医者になるのだと決めた。
「灯」
湊は足を止めた。灯も止まった。
「ずっと、言えなかったことがある」
「……うん」
「好きだった。ずっと。八歳のときから」
灯は湊を見上げた。街灯の光が、灯の目の中で揺れていた。
「早苗さんの葬式で、灯の手を握ったときから、ずっと。灯の手が冷たかったから、ずっと温めていようと思った。子どもの決心だった。でも、変わらなかった。二十年経っても、一度も」
灯は、何も言わなかった。
風が吹いて、桜の葉が二人のあいだを転がっていった。
「……ごめん」
灯の声は、小さかった。
「今は、何も考えられない。お母さんのことも、宮内さんのことも、じいちゃんのことも。頭の中がいっぱいで。湊のこと、ちゃんと考えたいのに、考えられない」
「答えは、いらない」
湊は言った。自分でも驚くほど、穏やかな声だった。
「ただ、知っていてほしかった。灯がどんなに困っても、俺はここにいる。この町にいる。それだけ」
灯の目から、涙がこぼれた。灯は湊の胸に額を押しつけた。湊は、灯の背中にそっと手を置いた。抱きしめはしなかった。抱きしめたら、灯がどこかへ行ってしまう気がした。
灯は、しばらくそのまま泣いていた。
やがて顔を上げ、袖で目をこすった。
「ありがとう、湊」
灯は笑った。泣きながら。あの日、膝を擦りむいたときと同じ顔で。
湊は、その顔を一生忘れないだろうと思った。
それが、自分に向けられた最後の笑顔になるかもしれないことも、どこかでわかっていた。
第十四章 二人で読む
十月の半ば、夜の十一時過ぎに、蓮の携帯が鳴った。
知らない番号だった。出ると、少しの沈黙のあとで、声がした。
「……柚木です。柚の湯の」
蓮は、ベッドから跳ね起きた。
「柚木さん。どうしたんですか、こんな時間に」
「ごめんなさい。名刺の番号、ずっと捨てられなくて」
灯の声は、かすれていた。
「読んでほしいものがあるの。一人じゃ、読めない」
「僕が、ですか」
「あなたが、この町の人じゃないから」
灯は言った。
「この町の人には、頼めない。誰の名前が出てくるか、わからないから。……あなたなら、知らない人の話として、聞いてくれるでしょう」
蓮はもう、上着をつかんでいた。
「三十分で行きます」
柚の湯の暖簾は、もう下りていた。
裏口の戸を叩くと、灯が開けた。寝間着の上にカーディガンを羽織り、髪を下ろしていた。蓮は、灯が髪を下ろしているのを初めて見た。
「じいちゃん、もう寝てるから。静かに」
灯は蓮を釜場へ通した。
焚き口の火は、まだ落ちきっていなかった。灰の奥で、熾火が赤く呼吸していた。灯は丸椅子を二つ並べ、その一つに座った。膝の上に、古い菓子の缶があった。
「お母さんの手紙。三十年前の。相手は、有働修司」
蓮は、息をのんだ。
「床下の……」
「うん」
灯は缶の蓋を開けた。水色のリボンの束から、半分ほどがよけてあった。もう読んだ分なのだろう。
「ここから先が、怖くて読めない。一緒に読んで」
熾火の明かりで、二人は手紙を読んだ。
灯が便箋を開き、声に出して読んだ。ときどき声が詰まると、蓮が続きを読んだ。
九月の手紙には、修司が会社をやめるつもりだと書いてあった。この冬の仕事を最後にする。そうしたら、二人でこの町を出よう。修司はそう言った、と。
十月の初めの手紙は、短かった。
修司さんから、わたしの手紙を全部返されました。
「預かっててくれ。町を出る日に、一緒に持っていく」
そう書いた紙が、束の上に挟んでありました。
あなたの字は、本当に下手ですね。
でも、うれしかった。
束のあいだから、一枚の小さな紙が出てきた。罫線のないメモ用紙に、乱暴な字で、たしかにそう書いてあった。灯はその紙を、長いあいだ指でなぞっていた。
「下手な字」
灯は、笑おうとした。笑えなかった。
十月の終わりの手紙を、蓮が読んだ。
修司さんは、ときどき怖い顔をします。
会社が、何か恐ろしいことを考えているのだそうです。
わたしが訊いても、修司さんは教えてくれません。
「壊すことでしか、守れないものもある」
修司さんは、そう言いました。
わたしには、意味がわかりませんでした。
蓮は、便箋を持つ手が止まったことに気づいた。
壊すことでしか、守れないものもある。
それは、蓮自身が何度も口にしてきた言葉だった。灯にも、言った。燃える前に壊せば、誰も死なない。三十年前、同じ言葉を、同じ会社の仕事をしていた男が言っていた。
「久世さん?」
「……すみません。続けます」
十一月の初めの手紙を、灯が読んだ。
読みはじめて、すぐに、灯の声が止まった。
修司さんへ
春になったら、三人で暮らしましょう。
あなたは驚くと思います。わたしも、驚きました。
お医者さんには、まだ父に言わないでくれと頼みました。
父には、町を出るときに、ちゃんと話します。
男の子でも、女の子でもいい。
あなたに似て、目つきが悪くてもいい。
灯は、便箋を膝の上に落とした。
「三人」
灯がつぶやいた。
「春になったら、三人」
灯は、一九九七年の春に生まれた。
灯の手が震えはじめた。肩が、背中が、全身が震えた。灯は両手で顔を覆った。声は出なかった。声も出せないまま、灯は泣いていた。
蓮は、何も言えなかった。
何を言えばいいのか、わからなかった。この人の父親は、床下で二十九年眠っていた。この人の母親は、その男を愛していた。そして、その男は、蓮の会社の仕事をしていた。
蓮は、灯の肩に手を伸ばした。触れていいのかどうか、わからなかった。
灯が、その手をつかんだ。
強い力だった。溺れる人が、何かにしがみつくような。蓮は丸椅子から下り、灯の前に膝をつき、灯の体を抱きしめた。灯は蓮の肩に顔をうずめ、声を殺して泣いた。
熾火が、小さくはぜた。
どれくらい、そうしていたのかわからない。
灯が顔を上げた。目が腫れていた。頬に、涙の跡が光っていた。
「ごめんなさい。シャツ、濡らしちゃった」
「いいんです」
二人の顔は、近かった。
灯の目が、蓮の目を見ていた。蓮は、その目から逃げられなかった。逃げたくなかった。
どちらからともなく、唇が触れた。
短い、震えるような口づけだった。灯の唇は、涙で塩辛かった。
離れたあとで、灯は蓮の胸に額を押しつけた。
「……あなたは、壊す側の人なのに」
「はい」
「なんで、あなたなんだろう」
「わかりません」
蓮は灯の髪に手を置いた。
「僕も、わかりません。でも、今は、ここにいたい」
夜明けまで、二人は釜場にいた。
蓮は、資料室で見つけたものを灯に話した。有働企画への支払いが、一九九六年の十月で途切れていたこと。余白に残っていた鉛筆の走り書き。
――特別対策(十一月末実施予定)→中止。担当者所在不明のため。
「特別対策って、何」
「わかりません。三年この仕事をしてきて、一度も見たことのない言葉です」
灯は、膝の上の缶を見下ろした。
「宮内さんが、死ぬ前の日に言ってた。この町に火をつけようとした連中のこと、全部話すって」
蓮は、灯の顔を見た。灯も、蓮を見た。
熾火が、すっかり灰になっていた。釜場の小さな窓が、白みはじめていた。
「残りは、あと三通」
灯が言った。
「明日、一人で読む。もう、大丈夫だから」
灯は、缶の蓋を閉めた。
蓮は裏口から外へ出た。夜明け前の路地は、ひんやりと冷たかった。振り返ると、釜場の窓に、灯の影が映っていた。
蓮は、自分の手のひらを見た。灯の涙で、まだ少し湿っていた。
壊すことでしか、守れないものもある。
その言葉を、蓮はもう二度と口にできないと思った。
第十五章 燃やすつもり
夜明けの路地で、湊は足を止めた。
眠れなかったのだ。烏山川緑道で灯に想いを告げてから、三日。湊は毎晩、天井を見て朝を待った。この日もそうだった。五時を回ったところで諦めて、上着を羽織り、外へ出た。足は、自然と柚の湯へ向かっていた。
柚の湯の裏口の戸が開いた。
男が一人、出てきた。紺の背広の上着を腕にかけ、白いシャツの肩が濡れたように皺になっていた。男は戸を静かに閉め、振り返って、釜場の窓を見上げた。
久世蓮だった。
蓮は、路地の先に立つ湊に気づいた。二人は、しばらく黙って向かい合った。
「……瀬能さん」
「こんな時間に、何してたんですか」
湊の声は、自分でも驚くほど低かった。
「柚木さんに呼ばれて。読みたいものがあると」
「手紙ですか」
蓮の目が、わずかに動いた。湊は、それで十分だった。
灯は、湊には頼めないと言った。湊は、この町の人だから。だから、この男を呼んだのだ。この町の人間ではない男を。この町を壊しに来た男を。
湊は、蓮の前まで歩いた。
「あなたは、自分の会社が、この町に何をしたのか知ってるんですか」
「知ろうとしています」
「知ろうとしてる?」
湊は、蓮のシャツの襟をつかんでいた。いつつかんだのか、自分でもわからなかった。
「三十年前、この町を燃やそうとしたやつらがいた。宮内さんはそう言って死んだ。あなたの会社の下請けが、この町に来ていた。あなたは、その会社の人間だ。その手で、灯に触ったのか」
蓮は、湊の手を振りほどかなかった。
「触りました」
まっすぐな目だった。
「僕は、自分の会社が何をしたのか、まだ全部はわかりません。わかったら、全部、柚木さんに話します。それが、僕にとってどんなに都合の悪いことでも。……瀬能さんにも、話します」
湊の手から、力が抜けた。
蓮は、皺になった襟を直しもせずに、頭を下げた。
「失礼します」
蓮は路地を出ていった。湊は、柚の湯の煙突を見上げた。夜明けの空に、煙は出ていなかった。
◇
その夜、灯は一人で、残りの三通を読んだ。
十一月の半ばの手紙。修司さんが、だんだん無口になっていく。会社の人と、毎晩遅くまで話している。わたしの顔を見ると、無理に笑う。
十一月の二十日の手紙。修司さんに、お腹のことを話した。修司さんは、泣いた。大の大人が、子どものように。
最後の一通は、手紙ではなかった。
便箋ではなく、大学ノートを破ったような紙だった。宛名も、署名もなかった。母の字が、ひどく乱れていた。
十一月二十七日
あの人たちは、この町を燃やすつもりだ。
立ち退かない家をまとめて、火事で更地にする。
今夜、修司さんがやらされる。
柚の湯の裏から。
修司さんは、やらないと言った。でも、やらなければ、修司さんが壊される。会社の上の人たちに。
わたしは、止める。
わたしが、止めなきゃ。
紙は、そこで終わっていた。
灯は、その紙を膝の上に置いたまま、長いあいだ動けなかった。
柚の湯の裏から。
この家に、火をつけようとしていた。父になるはずだった男が。母の愛した男が。
そして、その夜。日付が変わった十一月二十八日の未明に、有働修司は姿を消した。床下で、二十九年眠ることになった。
灯は携帯を取り出した。番号を押す指が震えた。祖父には言えない。湊には頼めない。蓮は、会社の人間だ。
灯は財布の中から、くしゃくしゃになった名刺を取り出した。春に番台に置かれて、捨てようとして、捨てられなかった名刺。
――『週刊時報』記者 真柴千景。
◇
千景が柚の湯の裏口に着いたのは、夜の十二時を回ったころだった。
灯は、二階の自分の部屋に千景を通した。缶を差し出し、最後の紙を見せた。千景は黙って読んだ。二度、読んだ。
「……柚の湯の裏から」
千景は声に出した。
「三十年前、この町を燃やす計画があった。最初に火をつける場所が、ここだった」
灯はうなずいた。
「なんで、わたしに見せてくれたんですか」
「あなたが、じいちゃんを書かなかったから」
灯は言った。
「他の週刊誌は、じいちゃんが宮内さんを殺したみたいに書いた。あなたのところだけ、書かなかった。だから」
千景は、紙を灯に返した。手が少し震えていた。
「柚木さん。あなたのお母さんのことも、書くことになるかもしれません。この紙の意味がわかったら」
「わかってる」
灯は紙を缶にしまった。
「本当のことが知りたい。それが、どんなことでも」
千景は、灯の顔を見た。春に番台で見た、疲れた目ではなかった。何かを決めた人の目だった。
「有働修司さんの会社には、社員が四人いました。名簿が残っています。そのうちの誰かが、この計画を知っていたはずです。……調べます」
◇
柚の湯を出たのは、夜中の二時だった。
千景はタクシーで編集部に戻った。誰もいないフロアの蛍光灯をつけ、自分の机の引き出しを開けた。春から集めてきた、太子堂の資料がぎっしり詰まっている。
その中に、四月に取った資料があった。蒼和不動産が住民に配った、中枢計画の説明会のパンフレットだ。表紙には、看板と同じ完成予想図。最後のページに、担当部署の名前が並んでいた。
千景は、そのページを開いた。
――三軒茶屋中枢拠点再生計画 事業推進責任者 用地取得部長 篠崎恭一。
千景は、手帳に挟んでいた写真を取り出した。
白いセダンの前で、ぎこちなく笑う細身の青年。裏に、ボールペンの字。
――篠崎と。太子堂にて。'96・9。
蛍光灯が、低く唸っていた。
千景は、パンフレットと写真を並べて、机の上に置いた。
三十年前、この町を燃やそうとした会社の、名もない若い社員。
三十年後、同じ町を壊そうとしている会社の、計画の責任者。
同じ名前だった。
(第三巻 母の恋文 了)




