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第二巻 口を閉ざす町

第六章 約束


 梅雨に入ると、太子堂の路地はいつも湿っていた。

 千景の記事が出てから、ひと月が過ぎた。『週刊時報』は二週続けて続報を打ち、どちらもよく売れた。デスクの黒木は機嫌がよかった。

「次は、犯人だな」

 編集部の窓際で、黒木は煙草の代わりにガムを噛みながら言った。

「銭湯の爺さん。警察に呼ばれたんだろう。昔、被害者と揉めてた。隣の部屋の鍵も持ってた。絵になる」

「証拠は何もありません」

「証拠は警察の仕事だ。うちは疑問を書く。『沈黙する老店主』。いい見出しだと思わないか」

 千景は答えなかった。

 いい見出しだとは思った。三年前の自分なら、すぐに書いていただろう。けれど、番台に座っていた女の疲れた目を思い出すと、指が動かなかった。

「もう少し調べさせてください。爺さんを書くのは、それからでも遅くない」

「遅いんだよ、真柴。他が書く前に書くのが、うちの仕事だ」

 黒木はガムを紙に吐き出し、ごみ箱に投げた。

「二週間だ。それで何も出なかったら、爺さんで行く」


 千景は太子堂に通った。

 商店街の古い店を一軒ずつ回り、三十年前の話を聞いた。八百屋は覚えていないと言い、豆腐屋はもう店を畳んでいた。床屋の老主人は、地上げ屋の黒い車のことはよく覚えていたが、柚の湯のことになると急に口が重くなった。

 この町は、何かを隠している。

 一人ひとりは小さなことしか知らない。けれど、その小さなことを、誰もが少しずつ黙っている。黙ることが、この町の礼儀のようだった。

 雨の午後、千景は元町内会長の宮内松蔵の家を訪ねた。

 古い二階家の玄関で、宮内は杖をついて千景を見下ろした。

「週刊誌か」

「真柴と申します。三十年前の、この町のことを伺いたくて」

「話すことはねえ」

 戸が閉まりかけた。千景は名刺を差し出した。

「また来ます」

「来なくていい」

 戸は閉まった。


 三日後、千景はもう一度宮内の家を訪ねた。

 今度は、宮内のほうから戸を開けた。千景が呼び鈴を押す前だった。縁側の窓から、路地を来る千景が見えていたのだろう。

「上がれ。濡れるだろう」

 茶の間には、古い仏壇と、年代物の茶箪笥があった。仏壇の写真の中で、白髪の女が笑っていた。宮内は千景に座布団を勧め、自分で茶を淹れた。手が少し震えていた。

「あんた、柚の湯の爺さんを書くつもりか」

 いきなり訊かれて、千景は言葉に詰まった。

「……デスクは、書けと言っています」

「あんたは」

「書きたくありません。証拠がないので」

 宮内は湯呑みを置き、千景の顔をじっと見た。

「証拠があれば、書くのか」

「書きます。それが本当なら」

 宮内は黙った。雨の音だけが、縁側のガラスを叩いていた。

 やがて、宮内は低い声で言った。

「源さんは、やってねえよ」

「なぜ、そう言い切れるんですか」

「俺は、知ってるからだ」

 千景は息を止めた。

「何を、ですか」

 宮内は答えず、仏壇の写真を見た。

「三十年、黙ってきた。墓まで持っていくつもりだった。だがな、あの骨が出てきて、源さんが警察に呼ばれて、あんたらが書いて……このまま黙ってたら、源さんが一人で背負うことになる。それだけは、させられねえ」

「宮内さん」

「話しておきたいことがある」

 宮内は千景に向き直った。目が、思いがけないほど澄んでいた。

「だが、今日じゃねえ。その前に、けじめをつけなきゃならねえ相手がいる。昔の仲間に、話を通しとかなきゃならねえ」

「昔の仲間」

「来週の土曜。朝の十時に、ここへ来てくれ。そのときに、全部話す。見せたいものもある」

 千景は手帳を開いた。指が少し震えた。

 ――七月五日(土) 午前十時 宮内宅。

「必ず来ます」

「ああ。……それとな、記者さん」

 宮内は立ち上がり、縁側の窓を少し開けた。湿った風が入ってきた。庭の向こうに、柚の湯の煙突が見えた。

「話を聞いたら、あんたはきっと迷う。書くか、書かねえか。そのときは、源さんの孫娘の顔を思い出してくれ。あの子は、何も知らねえんだ」


 宮内の家を出ると、雨は小降りになっていた。

 路地の角で、千景は傘を差した男とぶつかりそうになった。黒い往診鞄を提げている。

「あ」

「……あなたか」

 瀬能湊だった。湊は千景を見て、露骨に顔をしかめた。

「宮内さんの家から出てきましたね。あの人は心臓が弱いんです。あんまり興奮させないでください」

「興奮させてません。お茶をごちそうになっただけです」

「あの人がお茶を出すなんて」

 湊は少し驚いたようだった。それから、千景の顔を見て、眉を寄せた。

「何かあったんですか」

「いえ。……先生こそ、往診ですか」

「宮内さんの血圧を測りに。週に一度」

 千景は傘の柄を握り直した。この男に、今の話をしたらどうなるだろう。宮内は「昔の仲間」と言った。この町の医者は、三十年前もこの町の医者だった。

 千景は何も言わなかった。

「先生、コーヒー一杯、おごらせてくれませんか」

「なんで」

「いたずら電話の件、まだちゃんと謝ってないので」

 湊はしばらく千景を見ていた。それから、ため息をついた。

「往診が終わってからなら」

「待ってます」

 湊は宮内の家の門をくぐっていった。その背中を見送りながら、千景は手帳の日付をもう一度確かめた。

 七月五日。あと十日。

 雨が上がり、路地の水たまりに、薄い晴れ間が映っていた。



第七章 縁側の声


 七月に入ると、急に暑くなった。

 午後二時の太子堂は、路地の奥まで陽が差して、アスファルトが白く光っていた。湊は往診鞄を提げ、首筋の汗を拭きながら、宮内の家へ向かっていた。

 いつもより三十分早かった。前の患者が留守だったのだ。

 宮内の家の門をくぐると、縁側のガラス戸が開け放してあった。中から、声が聞こえた。

「――もう三十年だぞ、道彦」

 宮内の声だった。湊は足を止めた。

 道彦。父の名前だ。

「わかってる。わかってるよ、松さん」

 父の声だった。今日、父は膝が痛むと言って、午後は休んでいたはずだった。

「わかってねえ。源さんは警察に呼ばれた。週刊誌はあることないこと書く。このまま黙ってたら、源さん一人がかぶることになる。俺はもう八十二だ。墓まで持っていけると思ってたが、持っていけねえもんもある」

「話すなら、源さんに断ってからにしろ」

 父の声が、低くなった。

「源さんの気持ちも考えろ。あの子の名前が出るんだぞ。灯ちゃんだって、何も知らないんだ」

「だから、話すんだよ」

 宮内が言った。

「あの子のためにも、本当のことを言わなきゃならねえ。それに、悪いのは誰だ。あの夜、この町に火をつけようとしたのは誰だ。そいつらは三十年、のうのうと――」

 そこで、声が途切れた。

 湊が砂利を踏んだ音に、気づいたのだ。

 縁側に、父が出てきた。湊を見て、父の顔がこわばった。

「……湊か」

「往診。前の家が留守で、早く来た」

 湊は、できるだけ普通の声で言った。父は湊の目を見なかった。

「そうか。俺は松さんの顔を見に寄っただけだ」

 父は縁側から下りて、膝をかばいながら靴を履いた。湊の横を通るとき、父は小さく言った。

「血圧、高いぞ。ちゃんと測ってやれ」

 父は門を出ていった。振り返らなかった。


 宮内の血圧は、上が百八十を超えていた。

「宮内さん、横になってください。薬、ちゃんと飲んでますか」

「飲んでるよ。飲んでて、これだ」

 宮内は座布団を二つ折りにして枕にし、畳に横になった。天井を見上げる目が、ひどく疲れていた。

「若先生、聞いてたか」

 湊は聴診器を耳から外した。

「……少しだけ」

「そうか」

 宮内は目を閉じた。

「親父さんを、責めるなよ」

「何をですか」

「何もかもだ」

 宮内は目を閉じたまま、続けた。

「あの人は、医者として、人として、あの夜できることをした。正しかったかどうかは、わからねえ。だが、あの人は町を守ろうとした。源さんも、俺も、そうだった」

「あの夜って、いつのことですか」

 宮内は答えなかった。

「もし、俺に何かあったら」

「宮内さん」

「もしもの話だ。年寄りの戯言だと思って聞いてくれ。もし俺に何かあったら、親父さんを責めるな。源さんもだ。責めるなら――」

 宮内は目を開けた。

「三十年前、この町を燃やそうとしたやつらを責めろ」

 湊は、何も言えなかった。

 窓の外で、蝉が鳴きはじめた。宮内はまた目を閉じ、しばらくすると、浅い寝息を立てはじめた。湊は薬袋を茶箪笥の上に置き、扇風機の首を宮内のほうへ向けて、そっと家を出た。


 その夜、湊は父と夕飯を食べた。

 鯵の干物と、冷奴と、茄子の味噌汁。父の好きなものばかりだ。母が亡くなってから、夕飯は湊がつくるようになった。

 父は黙って箸を動かしていた。湊も黙っていた。テレビは消してあった。

 味噌汁を半分飲んだところで、湊は箸を置いた。

「父さん」

「なんだ」

「あの子って、誰のこと」

 父の箸が止まった。

「宮内さんの家で言ってた。あの子の名前が出るって。灯のことじゃないよね。灯ちゃんだって何も知らない、って言ってたから」

 父は干物の骨を、丁寧に皿の端に寄せた。時間をかけて、一本ずつ。

「湊」

「うん」

「人には、知らなくていいことがある」

「医者が言うことじゃないよ。患者には、本当のことを話せって、父さんがいつも言ってた」

「患者のことならな」

 父は湯呑みを取り、冷めた茶を一口飲んだ。

「これは、患者のことじゃない。町のことだ。町のことは、町の人間が話す。俺が勝手に話していいことじゃない」

「宮内さんは、話すつもりだよ」

「知ってる」

 父は湯呑みを置いた。

「だから、止めに行った。……止められなかったがな」

 父は立ち上がり、自分の食器を流しに運んだ。水の音がした。父の背中は、湊が子どものころに見上げていた背中より、ずっと小さかった。

「明日、松さんが柚の湯へ行くそうだ。源さんと二人で話をつけると言ってた。お前は首を突っ込むな」

「話をつけるって、何の」

「湊」

 父は振り返った。目が赤かった。

「頼む」

 湊は、それ以上何も訊けなかった。


 自分の部屋に戻って、湊は机の引き出しを開けた。

 中に、白い名刺が一枚入っていた。『週刊時報』記者、真柴千景。

 先週、雨上がりの喫茶店で、千景は湊にコーヒーをおごった。謝るつもりだと言いながら、千景はほとんど謝らなかった。代わりに、この町のことを訊いた。湊が子どものころの太子堂のこと、柚の湯のこと、灯のこと。湊は気づいたら、ずいぶん喋っていた。

 ――先生、柚木さんのこと、好きでしょう。

 帰り際に、千景はそう言って笑った。湊は否定しなかった。否定する言葉が、出てこなかった。

 湊は名刺を指でつまみ、しばらく眺めていた。

 三十年前、この町を燃やそうとしたやつら。

 宮内の声が、耳の奥で鳴っていた。

 湊は名刺を引き出しに戻した。まだだ、と思った。まだ、自分には何もわかっていない。わからないまま誰かに話せば、父を売ることになる。

 窓の外で、柚の湯の煙突から、細い煙が夜空へ伸びていた。



第八章 白い車


「宮内さんの土地を、急いでくれ」

 篠崎がそう言ったのは、七月の最初の月曜だった。

 現地事務所の地図の上で、篠崎の指が柚の湯の裏手をなぞった。細長い区画が一つ、赤く塗られている。宮内松蔵の家だ。

「柚の湯の裏を押さえれば、あの銭湯は三方を囲まれる。爺さんも観念するだろう。宮内さんは、これまで売る気配がなかったが、先月、娘さんのほうから連絡があった。親父を施設に入れたい、土地を処分したいと」

「宮内さんご本人は」

「本人がどう言うかは知らん。だから、お前が行って話をまとめてこい。書類は全部そろえてある」

 篠崎は封筒を蓮に渡した。いつもと同じ、穏やかな顔だった。

 柚の湯の玄関で灯に「出ていって」と言われてから、二か月が経っていた。蓮はあれから、柚の湯に行っていない。篠崎は何も言わなかった。代わりに、ほかの区画の仕事を次々に回してきた。それが気遣いなのか、ただの段取りなのか、蓮にはわからなかった。


 宮内の家は、柚の湯の裏の、細い路地の突き当たりにあった。

 呼び鈴を押すと、しばらくして杖の音が近づいてきた。戸を開けた宮内は、蓮の顔を見て、少し目を細めた。

「蒼和の若いのか」

「久世と申します。娘さんから、ご連絡をいただきまして」

「娘が勝手に話したんだろう。俺は売らねえよ」

 戸が閉まりかけた。だが、宮内はふと手を止め、蓮の顔をもう一度見た。

「……お前さん、柚の湯の孫娘と話してたやつだな」

「はい」

「上がれ。暑いだろう」

 思いがけない言葉だった。


 茶の間で、宮内は麦茶を出してくれた。蓮が書類を広げると、宮内はろくに見もせずに脇へ押しやった。

「灯ちゃんと、喧嘩したそうだな」

「……喧嘩というか、僕が怒らせてしまって」

「あの子は、怒ると源さんにそっくりだ」

 宮内は笑った。それから、湯呑みを両手で包んだ。

「お前さんは、あの男とは違うな」

「あの男?」

「昔、この町に来てた地上げ屋だ。お前さんの会社の、下請けみたいなもんだった。目つきの悪い男でな。……だが、根っから悪いやつじゃなかった。それが、かえって始末が悪かった」

 蓮は息をのんだ。床下の骨。有働修司。宮内は、その男を知っている。

「宮内さんは、その人を」

「知ってたよ。この町の人間は、みんな知ってた」

 宮内は蓮の質問を遮るように、書類の一枚を指でつまんだ。担当者の欄に、篠崎の名前と、直通の電話番号が刷られていた。

「この篠崎ってのは、お前さんの上司か」

「はい。用地取得部の部長です」

「いくつだ」

「五十三、だったと思います」

「どこの出だ。最初から蒼和にいたのか」

 蓮は首をかしげた。妙なことを訊く、と思った。

「たしか、中途で入ったと聞いています。若いころは、別の会社にいたとか」

 宮内の顔から、表情が消えた。

 湯呑みを持つ手が、止まっていた。宮内は長いあいだ、篠崎の名前を見つめていた。蝉の声だけが、縁側から流れ込んできた。

「宮内さん?」

「……そうか」

 宮内は、ようやく顔を上げた。笑っていた。けれど、その笑顔は、ひどく固かった。

「この紙、一枚もらっていいか」

「どうぞ。控えですから」

 宮内は篠崎の名前が刷られた紙を、丁寧に四つに折り、胸のポケットにしまった。

「土地のことは、考えておく。今日はもう帰れ。お前さんは悪くない。……だが、上司はよく選べよ、若いの」


 帰り道、蓮は柚の湯の前を通った。

 夕方の四時、暖簾はもう出ていた。玄関の脇で、灯が打ち水をしていた。柄杓で撒いた水が、熱い石畳の上で、すぐに白く乾いていく。

 灯が顔を上げた。蓮と目が合った。

 蓮は足を止めた。何を言えばいいのか、わからなかった。二度と来ないでと言われたのだ。

 灯は柄杓を桶に戻した。そして、小さな声で言った。

「……こんにちは」

「こんにちは」

 それだけだった。灯はすぐに目をそらし、桶を持って玄関の中に入っていった。

 蓮は、しばらくその場に立っていた。

 こんにちは。たった五文字だった。それでも、二か月ぶりに、灯が蓮に向けて口をきいたのだ。


 七月四日の金曜日、篠崎は夕方の六時に事務所を出た。

「今日は直帰する。久世、お前も早く帰れよ。週末くらい休め」

 篠崎はそう言って、社用車の鍵を指に引っかけて出ていった。白いセダンだ。現地事務所に一台だけ置いてある車で、主に篠崎が使っている。

 蓮は帰らなかった。

 気になることがあった。宮内の言った「あの男」。この町に来ていた、蒼和の下請けの地上げ屋。会社の古い記録を調べれば、何かわかるかもしれない。だが、本社の資料室に入るには、正当な理由がいる。蓮は月曜の会議の資料をつくるふりをして、過去の用地取得の記録の閲覧申請を書いた。対象期間の欄に、一九九五年から一九九七年と書き込んだ。

 送信ボタンを押す指が、少し震えた。

 事務所を出たのは、夜の十一時近くだった。

 三軒茶屋の駅へ向かう途中、蓮は近道をして、太子堂の路地を抜けた。柚の湯の暖簾はもう下りていた。煙突から、最後の煙が細く出ていた。

 路地の角を曲がったところで、蓮は足を止めた。

 月極駐車場の暗がりに、白いセダンが一台、止まっていた。

 見覚えのある形だった。後ろのナンバーまでは、暗くて見えなかった。運転席には誰もいなかった。

 篠崎さんは、直帰すると言っていた。

 蓮は首を振った。白いセダンなど、東京にいくらでもある。疲れているのだ。

 蓮は駅へ向かって歩き出した。背中で、どこかの家の風鈴が鳴った。

 後になって、蓮はこの夜のことを、何度も思い出すことになる。

 あのとき、あの車のナンバーを、確かめていれば。



第九章 朝の薬袋


 七月四日の夕方、宮内は口開けと同時にやって来た。

「よう、灯ちゃん」

 いつもの声だった。けれど、顔色が悪かった。番台で小銭を受け取りながら、灯は宮内の手が冷たいことに気づいた。外はまだ三十度を超えているのに。

「宮内さん、具合悪いんじゃない? 今日はやめといたら」

「湯に入りに来たんじゃねえ。源さんはいるか」

「釜にいるけど」

 宮内は脱衣所を素通りして、奥の戸を開け、釜場へ入っていった。戸が閉まった。

 しばらくは、何も聞こえなかった。灯は番台で、常連の婆さんたちの下足札を数えていた。

 やがて、声が聞こえた。

 祖父の声だった。灯がこれまで聞いたこともないような、大きな声だった。

「――やめてくれ、松さん」

「やめねえ。もう決めたんだ」

 宮内の声も、普段とは違った。湯気の向こうの婆さんたちが、顔を見合わせた。灯は番台を下りて、釜場の戸の前に立った。

「明日の朝、記者が来る。全部話す。あの紙も見せる」

「早苗の名前を出すな」

「早苗ちゃんのことは言わねえよ。言うのは、あいつらのことだ。この町に火をつけようとした連中のことだ」

 灯は、息を止めた。

 母の名前だった。

「今日、電話してやったんだ。あの若造、まだ生きてやがった。いい背広着て、偉そうな声で。全部話すと言ってやったら、黙りやがった」

「松さん、それは――」

「これは、お前が持ってろ」

 紙の擦れる音がした。

「明日、記者をここへ連れてくる。そのとき、お前の手から渡せ。俺が持ってるより、そのほうがいい」

 しばらく、何も聞こえなかった。釜の火の唸りだけが、戸の向こうから低く響いていた。

「……わかった」

 祖父の声だった。かすれていた。

 戸が開いた。灯は慌てて一歩下がった。宮内が出てきて、灯の顔を見た。宮内は一瞬、何かを言いかけた。それから、いつもの顔で笑った。

「灯ちゃん、今日はやっぱり入っていくよ。ぬるめにしといてくれ」

 宮内は脱衣所へ入っていった。灯は振り返った。釜場の奥で、祖父が焚き口の前に座り、白い封筒を膝の上に置いていた。

 祖父は灯に気づくと、封筒を前掛けの下にしまった。


 その夜、宮内は湯から上がると、脱衣所の長椅子にしばらく座っていた。帰り際、灯に「ありがとうな」と言った。何に対する礼なのか、灯にはわからなかった。

 閉店後、脱衣所を片づけていて、灯は長椅子の上に薬袋が置き忘れられているのを見つけた。瀬能医院の名前が入った、白い紙袋だ。中には、血圧の薬が一週間分入っていた。


 翌朝、祖父は珍しく、朝飯の席で灯に話しかけた。

「灯。松さんに、薬を届けてやってくれ」

「うん。九時半くらいに行ってくる」

「それと」

 祖父は箸を置いた。

「……昨日は悪かったと、言っといてくれ」

 灯は祖父の顔を見た。祖父は目を伏せていた。

「自分で言えばいいのに」

「言えねえから、頼んでるんだ」

 祖父はそれだけ言って、また箸を取った。


 九時半、灯は薬袋を持って、柚の湯の裏の路地を歩いた。

 朝から陽射しが強かった。宮内の家の朝顔が、塀の上で紫の花を開いていた。灯は呼び鈴を押した。返事がなかった。もう一度押した。やはり、返事がない。

「宮内さん? 柚の湯の灯です。お薬、忘れてたから」

 戸に手をかけると、鍵がかかっていなかった。

 灯は戸を開けた。

 玄関の三和土に、宮内の杖が倒れていた。

 嫌な予感がした。灯は靴を脱ぎ、廊下を上がった。茶の間の襖が半分開いていた。

「宮内さん――」

 茶の間は、ひどく荒らされていた。茶箪笥の引き出しがすべて抜かれ、中身が畳の上に散らばっている。仏壇の扉も開けられ、位牌が倒れていた。

 その真ん中に、宮内が倒れていた。

 うつぶせだった。白い寝間着の襟が、黒く染まっていた。畳にも、乾いた黒い染みが広がっていた。

 灯は悲鳴を上げなかった。声が出なかった。

 膝が震えた。灯は柱につかまり、ポケットから携帯を出した。指が思うように動かなかった。一一九を押し、それから、医院の番号を押した。

「湊、宮内さんが」

 それしか言えなかった。


 湊は三分で来た。白衣のまま、往診鞄を抱えて走ってきた。

 湊は宮内のそばにしゃがみ、首筋に指を当て、瞼を開け、しばらく黙っていた。それから、ゆっくりと首を振った。

「……だめだ。もう、何時間も経ってる」

 湊は灯の肩を抱いて、茶の間から連れ出した。灯は湊の白衣にしがみついた。手が冷たかった。

 救急車と、パトカーが来た。路地が青い制服で埋まった。

 十時ちょうどに、路地の入口に一人の女が現れた。週刊誌の記者、真柴千景だった。千景はパトカーと規制線を見て、その場で立ち止まった。手に持っていた手帳が、地面に落ちた。

 千景は灯を見た。湊を見た。それから、宮内の家の開いた戸を見た。

「……約束、してたんです。十時に」

 千景の声は、誰に向けたものでもなかった。


 灯は、刑事に話を聞かれた。

 ゆうべ宮内が柚の湯に来たこと。祖父と釜場で話していたこと。大きな声が聞こえたこと。灯は、嘘をつかなかった。つけなかった。

「言い争っていた、ということですね」

「……話をしていただけです」

「大きな声で」

「祖父は、もともと声が大きいんです」

 刑事は手帳に何かを書きつけた。その目が、灯の言葉をまったく信じていないことを、灯は知っていた。


 昼過ぎ、灯はようやく柚の湯に戻った。

 祖父は釜場にいた。焚き口の前の丸椅子に座り、膝の上で何かを握っていた。白い封筒だった。

「じいちゃん」

 祖父は顔を上げた。灯の顔を見て、すべてを悟ったようだった。宮内のことは、もう近所の誰かから聞いていたのだろう。

「松さんは」

「……亡くなってた。誰かに、殴られて」

 祖父は目を閉じた。長いあいだ、何も言わなかった。

「じいちゃん。ゆうべ、宮内さんと何を話してたの。お母さんの名前が出てた。火をつけようとした連中って、誰のこと。その封筒は、何」

 祖父は封筒を前掛けの下に押し込んだ。

「お前は知らなくていい」

「知らなくていいことなんて、もうないよ」

 灯の声が震えた。

「宮内さん、死んじゃったんだよ。警察は、じいちゃんを疑ってる。わたしが、言い争ってたって話したから。わたしのせいで――」

「灯」

 祖父は立ち上がり、灯の頭に手を置いた。大きな、煤の匂いのする手だった。

「お前は、何も悪くねえ」

 祖父の手が、震えていた。

「悪いのは、俺だ。三十年前から、ずっとな」

 祖父は灯の横を通り過ぎ、釜場を出ていった。灯は一人、火の落ちた焚き口の前に立っていた。

 灰の中に、まだ小さな赤が残っていた。



第十章 夏の終わりの約束


 宮内松蔵の通夜は、七月の半ば、太子堂の古い寺で営まれた。

 警察が遺体を返すまでに、十日かかった。死因は頭を強く打たれたこと。凶器は見つかっていない。部屋を荒らした者は、何かを探していたらしい。それが何なのかは、誰にもわからなかった。

 本堂の前には、町の年寄りが長い列をつくっていた。再開発で町を出ていった人たちも、喪服を着て戻ってきていた。


 ◇


 蓮は、篠崎と並んで焼香の列に立っていた。

 会社として弔意を示す、と篠崎は言った。宮内さんは、土地の交渉をしていた相手だ。顔を出さないのは礼を欠く。

 篠崎は、事務所の白い社用車で寺に乗りつけた。助手席から降りながら、蓮は七月四日の夜のことを思い出していた。月極駐車場の暗がりに止まっていた、白いセダン。

 あれは、この車だったのだろうか。

 焼香台の前で、篠崎は深く、長く頭を下げた。手を合わせる篠崎の横顔を、蓮は盗み見た。いつもの穏やかな顔だった。目を閉じ、唇がかすかに動いていた。何を祈っているのか、蓮にはわからなかった。

 焼香を終えて振り返ると、列の後ろに源造がいた。黒い紋付を着て、灯に付き添われていた。

 篠崎は源造の前を通り過ぎるとき、軽く会釈をした。源造は、篠崎を見なかった。宮内の遺影だけを見ていた。

 灯が、蓮に気づいた。

 灯の目は、泣き腫らして赤かった。蓮は小さく頭を下げた。灯は、ほんのわずかに、うなずき返した。


 ◇


 寺の門の外で、千景は湊を待っていた。

 湊は父と一緒に焼香を済ませ、一人で出てきた。黒いネクタイを緩めながら、千景に気づいて足を止めた。

「来てたんですか」

「約束してたので」

 千景は寺の塀を見上げた。

「十時に、全部話すって言ってくれたんです。見せたいものもあるって。……その前の晩に、殺された」

 湊は黙っていた。

「偶然だと思いますか」

「思いません」

 湊はすぐに答えた。自分でも驚くほど、はっきりと。

「宮内さんは、何かを話そうとしてた。それを知ってる誰かが、止めた」

「警察は、柚木源造さんを疑ってます。前の晩に言い争ってたから」

「源造さんじゃない」

「どうして言い切れるんですか」

 湊は答えなかった。父の声が、耳の奥で鳴った。――お前は首を突っ込むな。

 千景は湊の顔をじっと見ていた。

「瀬能先生。一緒に調べてくれませんか」

「僕は医者です。探偵じゃない」

「わかってます。でも、この町の人は、私には何も話さない。先生には話す。先生は、この町の人だから」

「僕に、町の人を売れと」

「違います」

 千景は首を振った。

「町の人を守ってほしいんです。このままだと、柚木さんの家はずっと疑われたままです。宮内さんを殺した人間は、のうのうと生きていく。それでいいんですか」

 湊は長いあいだ、寺の門を見ていた。焼香を終えた人たちが、次々に出てくる。その中に、灯の姿があった。灯は祖父の腕を支えながら、ゆっくりと石段を下りてきた。

「……灯の家を、ずっと疑われたままにはしたくない」

 湊は言った。

「それだけです。それ以外のことは、約束できない」

「それで十分です」

 千景は携帯を差し出した。湊は少しためらってから、自分の携帯を出した。二人は連絡先を交換した。

「先生、意外と押しに弱いですね」

「……あなたは、意外と押しが強いですね」

「知ってます」

 千景は笑った。宮内の家の前で手帳を落としたときから、千景が笑うのを見るのは初めてだった。


 ◇


 通夜が終わると、日はすっかり暮れていた。

 灯は祖父を先に帰し、一人で寺の裏の墓地を歩いていた。宮内の家の墓は、まだ新しい花でいっぱいだった。

「柚木さん」

 声に振り返ると、蓮が立っていた。喪服の上着を腕にかけていた。

「……久世さん。会社の人は、帰ったんじゃないの」

「部長は帰りました。僕は、少し話したくて」

 灯は墓の前にしゃがみ、線香の灰を指で払った。

「話すことなんて、ないよ」

「宮内さんに会いました。亡くなる前の週に。土地のことで」

 灯は手を止めた。

「宮内さんは、昔この町に来ていた地上げ屋のことを知っていました。僕の会社の、下請けだったと。……僕は、知らなかった。自分の会社が、昔この町に何をしたのか」

 蓮は灯の隣にしゃがんだ。

「会社の古い記録を、見せてもらえることになりました。三十年前の、この町の用地取得の記録です。何が出てくるかはわかりません。でも、知りたいんです」

「どうして、そこまで」

「あなたに、守るって壊すことなのかって訊かれて、答えられなかったから」

 蓮は灯を見た。

「答えられるようになりたいんです。たとえ、答えが、僕にとって都合の悪いものでも」

 灯は、しばらく蓮の顔を見ていた。それから、線香の煙のほうへ目をそらした。

「……ありがとう」

 小さな声だった。

「でも、うちは売らないからね」

「知ってます」

 蓮は笑った。灯も、少しだけ笑った。宮内が死んでから、初めて笑った。


 墓地の入口の暗がりで、湊は二人を見ていた。

 灯を家まで送ろうと思って、探しに来たのだった。墓の前にしゃがむ二人の背中が、街灯の明かりの中に浮かんでいた。灯が笑った。湊のいない場所で。

 湊は踵を返した。

 石段の下で待っていると、しばらくして灯が一人で下りてきた。

「湊。待っててくれたの」

「送るよ。夜道、危ないから」

 二人は並んで歩いた。夏の夜の路地には、まだ昼の熱が残っていた。どこかの家から、テレビの野球中継の音が漏れていた。

「灯」

「なに」

 湊は口を開いた。言いたいことがあった。八歳の冬から、ずっと言えなかったことが。

「……いや、なんでもない」

「変なの」

 灯は笑った。柚の湯の煙突が、路地の先に見えてきた。


 ◇


 八月の終わり、蓮は本社の資料室にいた。

 閲覧の許可が下りるまで、ひと月半かかった。地下の窓のない部屋で、蓮は段ボール箱を一つずつ開けていった。一九九五年、一九九六年、一九九七年。太子堂二丁目の用地取得記録。

 下請けの欄に、その名前はあった。

 ――有限会社 有働企画。

 毎月の支払いの記録が、一九九六年の十月まで続いていた。十一月の欄だけが、空白だった。

 そのページの余白に、鉛筆で走り書きがあった。

 ――太子堂二丁目 特別対策(十一月末実施予定)→ 中止。担当者所在不明のため。

 特別対策。

 蓮は、その四文字を長いあいだ見つめていた。用地取得の仕事を三年やってきたが、そんな言葉は一度も見たことがなかった。

 蓮は次の箱を開けた。一九九七年の人事記録だった。中途採用者の一覧に、見覚えのある名前があった。

 ――篠崎恭一(二十五歳) 用地取得部配属。

 前職の欄には、「不動産関連」とだけ書かれていた。

 資料室の古い蛍光灯が、小さく音を立てて瞬いた。


(第二巻 口を閉ざす町 了)

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