第一巻 床下の桜
第一章 暖簾の内側
午前六時の釜場は、まだ夜の匂いがした。
柚木灯は軍手をはめ直し、積み上げた廃材の山から細い板を一枚ずつ抜き取った。解体現場から引き取ってくる古材には、どれも釘が残っている。釘抜きで一本ずつ起こし、足もとのバケツに放る。からん、と乾いた音が、コンクリートの壁に跳ね返った。
「灯、そっちはいい。焚きつけだけ寄こせ」
祖父の源造が、焚き口の前にしゃがんだまま言った。七十八になっても、斧を振る腕だけは衰えない。割られた角材が、源造の脇に薪の形で積み上がっていく。
灯は新聞紙を丸め、細い板を何本か添えて渡した。源造がそれを焚き口の奥へ押し込み、マッチを擦る。小さな火が紙を舐め、板の角に移り、やがて低い唸りのような音を立てはじめた。
この音を聞くと、灯は一日が始まったと思う。
世田谷区太子堂。三軒茶屋の駅から五分ほど歩き、商店街の裏手の路地をいくつも折れた先に、銭湯「柚の湯」はある。宮造りの瓦屋根に、色の褪せた唐破風。昭和三十年代に曾祖父が建てたと聞いている。男湯の壁には富士山、女湯の壁には三保の松原。ペンキ絵は十年前に描き直したきりで、富士の裾野は湯気で少し剥げかけていた。
「今日も来るのか、あの若いのは」
源造が火を見たまま言った。
「十時に伺いますって、昨日電話があった」
「出なくていい」
「出なかったら、玄関で待ってるよ。あの人、そういう人だから」
源造は返事をせず、太い薪を一本、火の中に置いた。
釜に火が回ると、灯は外へ出て路地を掃いた。
四月の朝の空気は、まだ少し冷たい。柚の湯の右隣には、木造二階建てのアパート「太子堂荘」が建っている。外階段の鉄は錆び、二階の物干しには何年も前の洗濯ばさみがぶら下がったままだ。去年の暮れに最後の住人が出ていき、今は窓という窓に白い貼り紙がある。
――解体工事のお知らせ。
――施工 蒼和不動産株式会社。
路地の入口には、仮囲いの白い壁が続いている。その向こうには、もう家がない。去年まで豆腐屋だった角地も、灯が小学生のころ通った駄菓子屋も、二軒並んでいた床屋も、今は砂利を敷いた更地になって、黄色い重機が一台、首を垂れて眠っている。
仮囲いには、大きな看板が掛かっていた。
――三軒茶屋中枢拠点再生計画。安全で、住み続けたい街へ。
完成予想図の中では、ガラス張りの高い建物の足もとに、芝生の広場と、ベビーカーを押す若い夫婦と、笑う子どもたちが描かれている。そこに柚の湯はない。
灯は看板から目をそらし、ほうきを動かした。
十時ちょうどに、玄関の引き戸が鳴った。
「おはようございます。蒼和不動産の久世です」
紺のスーツに、きちんと結んだ灰色のネクタイ。歳は灯と同じくらいだと、最初に会ったときに思った。短く刈った髪と、いつも少し困ったように下がっている眉。営業の人間にしては、声が小さい。
久世蓮がこの玄関に立つのは、これで三度目だった。
「祖父は奥にいます。でも、会わないと思います」
「承知しています。今日は、柚木さんにお渡ししたいものがあって」
蓮は鞄から薄い冊子を出した。移転先の候補、補償の算定、再建後の建物に銭湯を入居させる案。表紙には蒼和のロゴと、あの看板と同じ言葉が刷ってある。
灯は受け取らなかった。
「前にも言いましたけど、うちは売りません」
「はい」
「はい、って」
「お気持ちは変わらないと思っています。それでも、この地区が抱えている問題は、ご説明させてください」
蓮は玄関のたたきに立ったまま、靴を脱ごうとしなかった。上がれと言われていない家には上がらない人なのだ。
「この一帯は、都の指定する木造住宅密集地域です。道が狭く、消防車が入れない路地がいくつもある。大きな地震が来て火が出たら、ここは――」
「燃える」
灯が先に言った。
「知ってます。毎日、燃やしてますから。うちの釜で」
蓮は一瞬、言葉に詰まった。それから、ほんの少しだけ口もとをゆるめた。笑ったのか困ったのか、灯にはわからなかった。
「……そうでしたね。柚の湯さんは、薪で沸かしている」
「廃材です。壊された家の」
言ってから、灯は少し後悔した。皮肉のつもりだったのに、自分の声が思ったより沈んでいた。
そのとき、奥の暖簾が乱暴に割れた。
源造だった。
腕まくりをした肌に、煤がついている。源造は蓮を上から下まで眺め、差し出された名刺を見もせずに言った。
「帰れ」
「柚木さん、本日は――」
「帰れと言った」
蓮は一礼した。頭を下げたまま、言った。
「一つだけ、お伝えしなければならないことがあります。お隣の太子堂荘ですが、来週の月曜から解体に入ります。騒音と振動で、ご迷惑をおかけします」
源造の動きが止まった。
ほんのわずかな間だった。灯でなければ気づかなかっただろう。祖父の肩が、何かに打たれたように強張った。
「……勝手にしろ」
源造はそれだけ言って、暖簾の奥へ消えた。
灯は蓮を路地まで送った。送るつもりはなかったのに、気づいたら一緒に歩いていた。
「すみません。祖父はああいう人で」
「いえ。怒られるのが仕事ですから」
蓮は仮囲いの前で立ち止まり、看板を見上げた。
「柚木さんは、この絵をどう思いますか」
「嘘っぽい」
「僕もそう思います」
灯は思わず蓮の顔を見た。
「でも、嘘っぽい絵でも、火事で人が死ぬよりはいいと思っている。……僕が子どものころ、近所の古い家が火事で焼けたんです。仲のよかった友だちの家でした。消防車が路地に入れなくて、ホースを何本もつないで、それでも間に合わなかった」
蓮の声は平らだった。何度も人に話してきた話なのだろうと、灯は思った。
「その子は?」
「無事でした。でも、その子の家も、両隣も、全部なくなって。その子はすぐに引っ越していきました。それきりです」
「それで、こういう仕事を」
「単純ですよね」
蓮は笑った。今度ははっきり笑った。
灯は何か言い返そうとして、言葉が見つからなかった。
「久世さんは」
「はい」
「この町で、何か失くしたこと、ありますか」
蓮はしばらく黙ってから、首を振った。
「僕の育った町は、多摩川の向こうの新しい団地でした。失くすようなものは、最初から何もなかった」
風が吹いて、仮囲いの上から桜の花びらが一枚、二人のあいだに落ちてきた。烏山川緑道の桜が、もう散りはじめている。
「また来ます」
「来ないでください」
「来ます」
蓮は頭を下げ、路地を出ていった。灯はその背中が角を曲がるまで、ほうきを持ったまま立っていた。
午後三時、暖簾を出す。
柚の湯の客は、ほとんどが近所の年寄りだ。再開発の話が出てから、常連は目に見えて減った。家を売って、多摩のほうや神奈川のほうへ越していった人が多い。それでも口開けには、必ず何人かが並んでいる。
その日いちばんに来たのは、宮内松蔵だった。
「よう、灯ちゃん」
「いらっしゃい、宮内さん」
宮内は八十二。長く町内会長を務め、灯が子どものころは祭りのたびに神輿の先頭で拍子木を打っていた。今はもう杖をついている。番台の灯に小銭を渡しながら、宮内は声を落とした。
「隣、壊すんだってな」
「来週から、って」
「そうか」
宮内は脱衣所に入らず、番台の脇に立ったまま、釜場へ続く奥の戸のほうを見た。
「源さんは」
「釜にいます。呼びましょうか」
「いや、いい」
宮内は首を振り、何か言いかけて、やめた。それから、いつもの冗談めいた口調に戻って、
「今日はぬるめにしといてくれよ。年寄りは心臓がもたねえ」
と笑い、脱衣所へ消えた。
しばらくして釜場の戸が開き、源造が顔を出した。湯加減を見に来たのだろう。脱衣所の籠に宮内の上着があるのを見て、源造は足を止めた。
湯から上がった宮内と源造は、脱衣所の柱の陰で何か話していた。番台からは、声までは聞こえなかった。ただ、宮内が帰り際に源造の肩に手を置き、源造がその手を振り払わなかったことだけを、灯は覚えている。
零時に暖簾を下ろし、浴槽の湯を抜き、タイルを洗い終えると、一時を回っていた。
灯は番台の裏の小さな棚から、写真立てを取った。
若い女が、柚の湯の玄関の前で笑っている。白いブラウスに、膝丈のスカート。肩までの髪を風に揺らして、撮っている誰かに何か言いかけたような顔をしている。
母の早苗だ。
灯が八つの年の冬に、母は病気で死んだ。覚えているのは、病院の白いカーテンと、細くなった指と、「灯は柚の湯の子だからね」という声だけだ。
父のことは、何も知らない。
小学生のころ、一度だけ母に訊いたことがある。お父さんはどこにいるの、と。母は少し考えてから、「遠くへ行った人」とだけ答えた。死んだのか生きているのか、それ以上は訊けなかった。母が亡くなったあと、祖父に同じことを訊くと、祖父は「知らねえ」と言った。それきりだった。
灯は写真を棚に戻した。
釜場の明かりが、まだついていた。
戸を開けると、源造が焚き口の前の丸椅子に座っていた。火はとうに落ちて、灰の奥にわずかな赤が残っているだけだ。
「じいちゃん、まだ起きてたの」
「ああ」
「隣のこと、気にしてる?」
源造は答えなかった。灰の中の赤を、じっと見ている。その横顔が、急に小さく見えた。
「うるさくなるね、来週から」
「……ああ」
「でも、仕方ないよ。隣はもう、蒼和のものだし」
源造は火かき棒で、灰を一度だけ崩した。赤い粒が散って、すぐに暗くなった。
「早く寝ろ、灯」
「じいちゃんも」
「俺はもう少しいる」
灯は戸を閉めかけて、振り返った。祖父は、隣のアパートとの境の壁を見ていた。壁の向こうには、太子堂荘の一階の部屋がある。誰も住んでいない、暗い部屋が。
その夜、灯は布団の中で、何度も壁の向こうの静けさに耳を澄ませた。
何も聞こえなかった。
それが、なぜか怖かった。
第二章 床下
月曜の朝、久世蓮は三軒茶屋の現地事務所で、部長の篠崎恭一と向かい合っていた。
事務所といっても、駅前の雑居ビルの三階を借りただけの部屋だ。壁一面に太子堂一帯の地図が貼られ、買収の済んだ区画が青、交渉中が黄、拒否が赤に塗り分けられている。この一年で、青は地図の半分を越えた。赤は、もう数えるほどしかない。
その一つが、柚の湯だった。
「柚木さんのところは、どうだ」
篠崎が地図の赤い点を指で叩いた。五十を過ぎても背筋の伸びた男で、白髪まじりの髪をいつもきれいに撫でつけている。入社したばかりの蓮を用地取得部に引き抜いたのが、この篠崎だった。
「三度伺いました。お孫さんとは話ができますが、ご主人は会ってもくれません」
「孫娘のほうは」
「……売るつもりはない、と」
篠崎は小さく笑った。
「最初はみんなそう言う。久世、焦らなくていい。あの銭湯の左右と裏は、もう押さえてある。今日から太子堂荘を壊す。隣が更地になれば、人は気持ちが変わるもんだ」
蓮は返事をしなかった。
隣が更地になれば。篠崎の言うことは、たいてい正しい。この一年、蓮はそれを何度も見てきた。最後まで反対していた家が、両隣が消えた翌月に判を押す。壊れていく町の中に一軒だけ残るのは、思っているよりずっと心細いのだ。
「柚の湯さえ落とせば、太子堂の一画はまとまる。中枢計画の要だ。頼むぞ」
篠崎は蓮の肩を軽く叩き、事務所を出ていった。
太子堂荘の前には、朝から重機が入っていた。
現場監督の田所は六十過ぎの職人で、日に焼けた首に白いタオルを巻いている。
「久世さん、隣の爺さんにはちゃんと言ってあるんだろうな」
「先週、お伝えしました」
「ならいい。こういう古いアパートは、壊すとき埃がすごいんだ。銭湯に灰がかかったら、文句言われるのはこっちだからな」
解体は、まず手作業から始まる。窓ガラスを外し、畳を上げ、建具を運び出す。重機で一気に崩すのは、そのあとだ。
蓮は現場の端に立ち、作業を見守った。立ち会うのも仕事のうちだが、本当は少し、柚の湯が気になっていた。
ふと見ると、柚の湯の前に源造が立っていた。
ほうきを持っている。掃除をしているふりをして、さっきから同じ場所を何度も掃いている。その目は、太子堂荘の一階の窓から離れなかった。
二階の窓が開き、灯が顔を出した。蓮と目が合った。灯はすぐに窓を閉めた。
昼過ぎ、一階の奥の部屋に作業が移った。
一〇三号室。間取り図によれば六畳一間に小さな台所がついた部屋で、柚の湯の釜場と壁一枚で接している。最後の住人が出ていくずっと前から空き部屋だったと、資料にはあった。
「床、はがすぞ」
田所の声に、若い作業員がバールを床板の隙間に差し込んだ。古い板が、悲鳴のような音を立てて浮き上がる。床下から、湿った土の匂いが立ちのぼった。
「なんだこりゃ。床下、えらく土が盛ってあるな」
作業員が首をかしげた。この時代の木造なら、床下には束石と土台があって、地面とのあいだに空間がある。だが一〇三号室の床下は、根太のすぐ下まで土で埋められていた。
「後で入れたんじゃないか。湿気対策かなんかで」
田所がそう言い、作業員がスコップで土を崩しはじめた。
三掬い目だった。
スコップの先が、何か柔らかいものに当たった。作業員が土を払うと、黒ずんだ布が出てきた。毛布のようだった。
「なんか埋まってますよ」
「ゴミだろ。昔はなんでも床下に放り込んだ」
作業員が布の端をつかんで引いた。布は簡単に裂け、中から、土にまみれた白いものがのぞいた。
最初、蓮にはそれが何かわからなかった。古い陶器のかけらか、何かの部材か。そう思った次の瞬間、作業員が尻もちをつき、叫んだ。
「骨だ!」
現場の音が、すべて止まった。
蓮は一歩、前に出た。土の中から突き出していたのは、まぎれもなく人の手の骨だった。まだ、指の形を残していた。
警察が来るまでに、二十分かかった。
蓮は作業をすべて止め、作業員を部屋の外に出し、田所と二人で入口に立った。手が震えていることに、しばらく気づかなかった。
携帯で篠崎に電話をかけた。
「部長、太子堂荘で――人の骨が出ました。床下からです」
電話の向こうで、篠崎が黙った。
長い沈黙だった。電波が切れたのかと思い、蓮はもう一度呼びかけた。
「部長?」
「……聞こえている」
篠崎の声は、いつもと変わらなかった。少なくとも、そう聞こえた。
「警察には協力しろ。訊かれたことには答えればいい。ただ、余計なことは言うな。会社として何かを言うのは、俺が判断する」
「余計なことって、何ですか」
「推測だよ。誰がとか、いつのとか。そういうのは警察の仕事だ」
電話は切れた。
蓮は携帯を握ったまま、しばらく立ち尽くしていた。篠崎の言うことは正しい。正しいのに、何かが引っかかった。あの沈黙の長さが。
パトカーが二台、路地の入口に止まった。青いシートが張られ、黄色い規制線が太子堂荘を囲んだ。鑑識の作業服を着た人たちが、黙々と出入りする。
近所の年寄りが、路地のあちこちから顔を出していた。
柚の湯の玄関が開き、灯が出てきた。エプロンをつけたまま、規制線の前で足を止めた。その目が蓮を探し、見つけた。
「何があったんですか」
「……床下から、人の骨が」
灯の顔から、血の気が引いた。
灯は振り返った。玄関の前に、源造が立っていた。ほうきを持ったまま。
源造は、青いシートを見ていた。その顔は、灯よりもずっと白かった。唇がわずかに動いた。何か言ったようだったが、蓮には聞き取れなかった。
源造はゆっくりとほうきを壁に立てかけ、何も言わずに柚の湯の中へ入っていった。
灯がその背中を追った。
蓮は規制線の外に立ったまま、二人が消えた暗い玄関を見つめていた。
野次馬の輪のいちばん後ろに、杖をついた老人がいた。帽子を胸に当てて、じっと青いシートを見ている。目が合うと、老人はすっと視線を外し、路地の奥へ歩いていった。
あれは、たしか元の町内会長の――。
名前を思い出す前に、刑事に呼ばれた。
その夜、多摩川を渡った先のマンションに帰っても、蓮はなかなか眠れなかった。
目を閉じると、土の中から突き出した指の骨が浮かんだ。それから、源造の白い顔が。
あの老人は、何かを知っている。
そう思ってから、蓮は自分の考えに驚いた。推測は警察の仕事だ。篠崎はそう言った。
蓮は寝返りを打った。窓の外を、終電を過ぎたタクシーが一台、音もなく走り去っていった。
第三章 古い名刺
「三茶で白骨。再開発の現場だ。行ってこい」
『週刊時報』の編集部で、デスクの黒木がそう言ったのは、遺体発見の翌朝だった。
真柴千景は二十九歳。静岡の地方紙で五年、事件記者をやってから東京に出てきて、週刊誌に移って三年になる。芸能人の不倫を追いかけるのにも、政治家の秘書の後をつけるのにも慣れた。慣れたぶんだけ、何かがすり減った気もしている。
「再開発がらみって、どのくらいがらみですか」
「大手の蒼和がやってる『中枢計画』とかいうやつだ。壊したアパートの床下から骨。いいネタになるかどうかは、お前次第だ」
黒木は新聞をめくりながら、こちらを見もしなかった。
太子堂の路地は、思っていたより狭かった。
車一台がやっと通れるかどうかの道が、迷路のように折れ曲がっている。その先に、青いシートに囲まれた古いアパートがあり、隣に瓦屋根の銭湯があった。煙突が一本、春の空に突き立っている。
規制線の前には、まだ数人の野次馬がいた。テレビの中継車は、もう引き上げたあとだった。白骨が出たくらいでは、ワイドショーは一日しか騒がない。
千景は現場の脇の自販機で缶コーヒーを二本買い、仮設トイレの陰で煙草をふかしていた作業着の男に声をかけた。
「お疲れさまです。大変でしたね、昨日は」
男は胡散くさそうに千景を見た。首に白いタオル。現場監督だと、名乗られる前からわかった。
「記者か」
「ばれました?」
「その顔は記者だ」
千景は缶コーヒーを差し出した。男はしばらく迷ってから、受け取った。田所、と男は名乗った。
「何も言えねえぞ。警察に口止めされてる」
「何もって、何をですか」
「何もは何もだ」
田所はプルタブを開け、一口飲み、空を見上げた。
「……三十年は経ってるって、鑑識が言ってたな。骨の色で、だいたいわかるんだと」
「三十年」
「それと、金属の名刺入れが一緒に出た。錆びてたが、中の紙が何枚か読めた。ビニールの袋に入れてあったんだ。几帳面なやつだったんだろうな」
田所は缶を握りつぶした。
「名前、見ました?」
「……うどう、って書いてあった。有る無しの有に、働くの働。会社の名前もあったが、そこまでは覚えてねえ」
「有働」
千景は手帳に書きつけた。
「もう行け。俺は何も言ってねえからな」
夕方、千景は銭湯に入った。
取材の基本は、まず客になることだ。番台には、エプロン姿の若い女が座っていた。千景と同じくらいの歳だろう。髪を後ろで一つに結び、化粧はほとんどしていない。目が、ひどく疲れていた。
「大人一枚」
「五百五十円です」
女は小銭を受け取り、千景の顔をちらりと見た。それきり、何も言わなかった。
女湯には、年寄りが三人いた。千景は湯船の端に身を沈め、壁の三保の松原を眺めながら、耳を澄ませた。話題は、もちろん隣の骨のことだった。
「怖いねえ、まさか隣の床下にだよ」
「誰なんだろうね」
「三十年って言ったら、ほら、あのころじゃない。地上げの」
「ああ、いたいた。黒い車で来て、怒鳴ってた人たち」
千景は湯の中で身を乗り出した。
「地上げって、この辺にも来てたんですか」
年寄りたちは一斉に千景を見た。見慣れない顔に、警戒の色が浮かぶ。千景はすぐに笑顔をつくった。
「すみません、私、最近この近くに越してきたばかりで。昔のこと、全然知らなくて」
嘘は、この仕事の道具だ。
年寄りたちは顔を見合わせ、やがて一人が口を開いた。
「バブルが弾けたあとも、しつこく来てたのよ。この辺の土地をまとめて買うって。うちにも来た。夜中に電話がかかってきたり、玄関に生ゴミを置かれたり」
「ひどい」
「それがね、ある日ぱったり来なくなったの。社長さんがいなくなったって、噂になって」
「いなくなった?」
「夜逃げしたんだって、みんな言ってたけど」
年寄りの一人が、急に口をつぐんだ。番台のほうを見たのだ。
仕切りの向こうの番台で、さっきの女が、じっとこちらを見ていた。
風呂から上がると、千景は番台の女に声をかけた。
「いいお湯でした。薪で沸かしてるんですか」
「……廃材です」
「柚の湯さんって、古いんですよね。ご家族で?」
「祖父と、私で」
「お隣、大変でしたね」
女の表情が、すっと閉じた。
「記者の方ですよね」
千景は笑った。今日二度目だ。
「そんなに顔に出てます?」
「さっき、女湯で聞き込みしてたでしょう。うちのお客さん、怖がってます。もう来ないでください」
「わかりました。でも、一つだけ」
千景は名刺を番台に置いた。
「もし何か、話したくなったら。あなたのおじいさんを悪く書くつもりはありません」
女は名刺を見なかった。千景はそれ以上粘らず、暖簾をくぐって外に出た。名刺は、たぶん捨てられるだろう。それでいい。置いてくることに意味がある。
振り返ると、煙突から白い煙が細く立ちのぼっていた。
翌日、千景は国会図書館にこもった。
一九九五年から九七年までの新聞の縮刷版と、都内の地域面。「有働」という名前と、「失踪」「行方不明」「不動産」を組み合わせて、一日じゅう頁をめくった。
夕方になって、ようやく見つけた。
一九九六年十二月。全国紙の都内版の片隅に、十行ほどの記事があった。
――世田谷区で不動産会社を経営する有働修司さん(三五)が、十一月下旬から行方がわからなくなっている。家族が警察に届けを出した。有働さんは同区内で土地の買収業務に携わっていた。
会社の名前は「有働企画」。届けを出したのは、千葉県船橋市に住む姉、とあった。
千景は記事を複写し、法務局で有働企画の古い登記簿を取った。会社は一九九八年に解散していた。役員欄には有働修司の名前と、知らない名前がいくつか並んでいた。社員も何人かいたのだろう。社長が消えて、会社も消えた。それだけのことだ。
三十年近く、誰にも探されなかった男。
その男が、銭湯の隣の床下で眠っていた。
船橋の古い団地で、有働雅代は千景を部屋に上げてくれた。六十五歳だという。弟によく似ていると、自分で言って笑った。笑うと、目尻に深い皺が寄った。
「警察からも、昨日電話がありました。歯の治療の記録があるかって。たぶん、そうなんだと思います」
雅代は仏壇の脇から、一枚の写真を出した。白いワイシャツの袖をまくった、日に焼けた男が、海を背に立っていた。目つきは鋭いが、口もとは笑っている。
「乱暴な仕事をしてたのは知ってます。人に恨まれる仕事でした。でも、あの子は私には優しかった」
「いなくなる前、何か変わった様子はありませんでしたか」
雅代は写真を見つめたまま、しばらく黙った。
「一度だけ、電話がありました。いなくなる二週間くらい前。夜遅くに」
「どんな話を」
「好きな人ができたって」
千景は顔を上げた。
「その人と、町を出るつもりだって。仕事もやめるって。あの子がそんなことを言うのは初めてで、私、からかったんです。どこの誰って。でも、教えてくれなかった」
雅代は写真を胸に抱いた。
「あの子は逃げたんじゃないって、ずっと思ってました。好きな人と一緒になるって言った人が、黙っていなくなるはずがないって」
帰りの電車で、千景は手帳を開いた。
有働修司。三十五歳。土地の買収屋。一九九六年十一月下旬に失踪。好きな人がいた。その人と、町を出るつもりだった。
その人は、誰だったのか。
千景はペンの先で、手帳の余白に小さく書いた。
――太子堂の女?
窓の外を、夜の東京が流れていった。いいネタになるかどうかはお前次第だ、と黒木は言った。千景は手帳を閉じた。久しぶりに、胸の奥が熱くなっていた。
第四章 往診鞄
瀬能医院の午前の診察は、九時に始まって十二時半に終わる。
瀬能湊が大学病院を辞めてこの医院に戻ったのは、去年の秋だった。父の道彦が六十五になり、膝を悪くして往診がきつくなった。誰かが継がなければ、町の医者がまた一つ消える。湊にはそれが嫌だった。それだけの理由で、学生のころから十年いた大学を出た。
待合室の患者は、ほとんどが年寄りだ。血圧の薬、膝の痛み、眠れない夜。再開発で引っ越していく人が増えて、カルテの束は毎月少しずつ薄くなる。
「先生、聞いた? 隣の骨」
診察椅子に座るなり、八百屋の元おかみが身を乗り出した。
「聞きましたよ。血圧、少し高いですね」
「そりゃ上がるわよ。怖くて夜も眠れないんだから」
昨日から、患者という患者がその話をしていた。午前中には、週刊誌の記者だという女が受付に来て、三十年前のこの辺りのことを知りたいと言った。父が奥から出てきて、黙って首を振り、追い返した。
昼休み、住まいの茶の間で、湊は父と二人で冷や麦をすすっていた。母が亡くなってから、昼は父が茹でるのが決まりになっている。
テレビでは、昼のニュースが流れていた。
――世田谷区太子堂の解体工事現場から、白骨化した遺体が見つかった事件で、警察は、遺体が三十年ほど前に埋められたとみて、身元の確認を進めています――
画面に、青いシートに囲まれた太子堂荘と、その隣の柚の湯の煙突が映った。
父の箸が止まった。
湊は父の顔を見た。父はテレビを見ていなかった。手もとの器を、見るともなく見ていた。顔から、色が抜けていた。
「父さん?」
父は答えず、リモコンを取ってテレビを消した。
「……飯どきに、そんなもん流すな」
誰にともなく言って、父は残りの冷や麦をかきこんだ。立ち上がるとき、膝をかばってテーブルに手をついた。その手が、少し震えていた。
湊は何も訊かなかった。訊けなかった。
午後は往診に出た。
黒い往診鞄は、祖父の代から使っているものだ。革はひび割れ、留め金は何度も直してある。父がずっと提げていた鞄を、今は湊が提げている。
最後の往診先は、宮内松蔵の家だった。
元町内会長の宮内は八十二歳で、血圧が高く、心臓も少し弱っている。古い二階家に一人で暮らし、娘が週に一度、様子を見に来る。
「若先生か。親父さんは」
「膝が痛むって。今日は僕です」
湊は血圧を測り、胸の音を聴いた。いつもより脈が速かった。
「宮内さん、ちゃんと眠れてますか」
「眠れるわけねえだろう。隣であんなことがあって」
宮内は縁側の外を見た。庭の向こうに、柚の湯の煙突が見える。
「若先生」
「はい」
「親父さん、何か言ってたか」
湊は聴診器を外す手を止めた。
「何かって」
「いや……何でもねえ」
宮内は首を振った。それから、急に湊の手首をつかんだ。思いがけない強さだった。
「親父さんを、大事にしてやれよ。あの人はいい医者だ。町のために、いろんなものを背負ってきた人だ」
「宮内さん?」
宮内は手を離し、いつもの顔に戻った。
「薬、いつもの出しといてくれ」
帰り道、湊は往診鞄を提げて、烏山川緑道を歩いた。桜はもう葉桜になりかけていた。宮内の手の感触が、まだ手首に残っていた。
夜、湊は柚の湯へ行った。
子どものころから、湊の風呂はここだった。家の風呂が壊れていた時期に通いはじめ、直ってからもやめなかった。広い湯船で足を伸ばすのが好きだったし、番台に灯がいるのが好きだった。後のほうの理由は、誰にも言ったことがない。
湯から上がると、灯が外のベンチに座っていた。閉店の三十分前、客足が途絶える時間だ。
「湊」
「お疲れ」
湊は自販機でコーヒー牛乳を二本買い、一本を灯に渡した。ここで並んでコーヒー牛乳を飲むのは、中学のころからの習慣だった。
「大丈夫か。昨日から、警察とか記者とか」
「記者、来たよ。女の人。女湯で聞き込みしてた」
「そいつ、うちにも来た。三十年前のこの辺のことを知りたいって。父さんが追い返したけど」
「真柴さん、って人?」
「たぶん」
灯はコーヒー牛乳の瓶を両手で包み、膝の上に置いた。
「じいちゃん、昨日から、ほとんど口きかないの。ご飯も食べない。釜場に座ってばっかり」
「年寄りには、きついよ。隣であんなことがあったら」
「それだけじゃない気がする」
灯は、ぽつりと言った。湊は灯の横顔を見た。街灯の光が、灯の頬を白く縁取っていた。
「……あの不動産屋の人、また来た?」
湊が訊くと、灯は少し間を置いてうなずいた。
「今朝。警察のことで迷惑かけてるって、謝りに来た。会社の人なのに」
「謝りに来たって、どうせ買いに来たんだろう」
「そうなんだけど」
灯は笑った。困ったように。
「なんか、嫌いになれないんだよね。あの人」
湊はコーヒー牛乳を飲み干した。甘さが、喉に引っかかった。
「灯は、昔からそうだよ。誰のことも嫌いになれない」
「湊のことは、ときどき嫌い」
「なんでだよ」
「そうやって、全部わかってるみたいな顔するから」
灯は立ち上がり、空き瓶を湊の手から取った。
「ありがと。もう閉めるね」
暖簾の奥に消える灯の背中を、湊は見送った。
八歳の冬、早苗さんの葬式で、湊は灯の手を握っていた。小さな手が、氷のように冷たかった。あのとき湊は、この手をずっと温めていようと思ったのだ。子どもの決心だった。けれど二十年経っても、その決心はどこにも行かずに、湊の中に残っている。
家に戻ると、診察室の明かりがついていた。
覗くと、父が机の前に座っていた。机の上に、古い往診鞄が開いている。湊が今使っているものより、さらに古い、祖父の代の予備の鞄だ。物置の奥にしまってあったはずのものだった。
父は鞄の中から色の褪せた紙の束を取り出し、一枚ずつ見ていた。古いカルテのようだった。
「父さん、何してるの」
父は振り返らなかった。
「片づけだ」
「こんな夜中に」
「眠れないんだよ」
父は紙の束を鞄に戻し、留め金を閉めた。それから、ようやく湊を見た。疲れた目だった。
「湊。記者が来ても、何も話すな」
「話すことなんて、何もないよ」
「そうだな」
父は鞄を抱えて立ち上がった。膝が鳴った。
「昔のことは、医者が話すもんじゃない。患者のことも、町のことも」
父は湊の横を通り過ぎ、廊下の暗がりに消えた。
湊は、空になった机を見つめた。宮内の言葉がよみがえった。――町のために、いろんなものを背負ってきた人だ。
何を背負ってきたのか。
湊はまだ、それを知りたくなかった。
第五章 春の疑い
『週刊時報』の木曜発売号に、千景の記事が載った。
――太子堂の白骨は、二十九年前に消えた「地上げ屋」か 再開発の床下に眠っていた男
見開き二頁。有働修司の名前は伏せ、「土地買収会社の社長A氏」とした。姉の雅代の話、地上げに苦しんだ住民の声、そして、遺体が見つかったアパートの隣に、最後まで立ち退きを拒む銭湯があること。銭湯の名前も伏せた。それでも、太子堂の人間が読めば、どこのことかはすぐにわかる。
記事が出た翌週、警察は遺体の身元を発表した。歯の治療記録が一致した。有働修司。当時三十五歳。
千景の記事は、当たった。
◇
刑事が柚の湯に来たのは、身元の発表から三日後の午前だった。
灯が釜場の掃除をしていると、玄関で声がした。背広の男が二人。一人は五十がらみで、もう一人は灯と同じくらいの若さだった。
「世田谷署の者です。柚木源造さんは、ご在宅ですか」
源造は釜場から出てきた。手を拭きもせずに、刑事たちの前に立った。
年かさの刑事が、手帳を開いた。
「一九九六年の秋、この一帯で土地の買収をしていた有働修司さんと、柚木さんのあいだで、たびたびもめごとがあったと聞いています。近所の方の話では、有働さんがこちらに怒鳴り込んできたことも、柚木さんが有働さんの胸ぐらをつかんだこともあった、と」
灯は息をのんだ。そんな話は、一度も聞いたことがなかった。
「覚えてねえな」
「有働さんがいなくなった十一月の下旬、何か変わったことはありませんでしたか。隣の太子堂荘の一〇三号室は、当時から空き部屋でした。その部屋の鍵を、柚木さんが大家さんから預かっていたという話もあるんですが」
「知らねえ」
「少し、署のほうでお話を伺えませんか。任意です」
源造は黙って、前掛けを外した。
「じいちゃん」
灯が袖をつかむと、源造はその手を、ゆっくりと外した。
「店、開けとけ。三時には戻る」
源造は刑事たちと一緒に、路地へ出ていった。その背中が、灯にはひどく小さく見えた。
◇
同じ日の昼、蓮は現地事務所で篠崎に呼ばれた。
「柚木さんが、警察に呼ばれたそうだな」
篠崎は窓際に立ち、路地の方角を見下ろしていた。
「……どうしてご存じなんですか」
「この町のことは、全部耳に入る。それが俺たちの仕事だ」
篠崎は振り返った。いつもの穏やかな顔だった。
「久世。言い方は悪いが、これは好機だ」
「好機」
「あの爺さんは、もう長くは粘れない。警察に疑われ、週刊誌に書かれ、客は減る。孫娘ひとりで背負うには重すぎる。今こちらから手を差し伸べれば、向こうは楽になれる」
篠崎は机の上の封筒を、蓮のほうへ滑らせた。
「新しい条件だ。補償額を一割上げた。移転先も、駅に近いところを用意できる。今日中に持っていけ」
蓮は封筒を見つめた。
「部長。柚木さんは、まだ何も――」
「わかってる。疑われているだけだ。だからこそ、だよ」
篠崎は蓮の肩に手を置いた。重い手だった。
「お前は優しい。それはお前のいいところだ。だが、優しさで町は守れない。火事が来たら、優しさは燃えるだけだ」
蓮がこの会社に入ったとき、篠崎は子どものころの火事の話を、黙って最後まで聞いてくれた。お前のような人間が、この仕事をやるべきだ。そう言ってくれたのも、篠崎だった。
蓮は封筒を取った。
◇
夕方、蓮が柚の湯の玄関に立つと、灯はちょうど暖簾を出したところだった。
源造は、まだ戻っていなかった。
「何の用ですか」
灯の声は、これまで聞いたことがないほど冷たかった。
「警察の件、聞きました。それで……」
蓮は封筒を差し出しかけて、手を止めた。灯の目が、封筒に落ちた。
「それで、条件を上げに来たんですか」
「……会社としては、柚木さんのご負担を少しでも――」
「祖父が警察に連れていかれた日に」
灯の声が震えた。
「祖父を疑ってるんでしょう。みんなと一緒に。人殺しの銭湯なら、売るしかないって。そう思ってるんでしょう」
「疑ってません」
「じゃあ、それは何」
灯は封筒を指さした。
蓮は答えられなかった。
「祖父を疑うなら、出ていって」
灯は言った。
「二度と、ここに来ないで」
蓮は封筒を握りしめた。紙がくしゃりと鳴った。
「僕は、あなたたちを守りたいと思って、この仕事を――」
「守るって」
灯が遮った。目が赤かった。
「守るって、壊すことなの?」
蓮は、何も言えなかった。
そのとき、路地の角から足音がした。白衣の上にジャンパーを羽織った男が、往診鞄を提げて立っていた。
「灯」
男は灯の名前を呼び、蓮と灯のあいだに、さりげなく体を入れた。
「源造さん、戻ったよ。今、通りの角でタクシーを降りた。大丈夫そうだった」
灯の肩から、力が抜けた。灯は男の腕をつかみ、そのまま路地へ駆けていった。
男は振り返り、蓮を見た。静かな目だった。
「瀬能です。この先の医院の」
「蒼和不動産の、久世です」
「知ってます」
男はそれだけ言って、灯のあとを追った。
蓮は封筒を握ったまま、柚の湯の玄関に一人で立っていた。暖簾が、春の夕方の風に揺れていた。
◇
千景が湊をつかまえたのは、その夜、医院の裏口だった。
「瀬能先生。週刊時報の真柴です」
湊は眉をひそめた。
「父なら、話しませんよ」
「今日は、あなたに会いに来ました」
千景は裏口の前のブロック塀にもたれた。
「柚木さんのおじいさん、三時間で帰されたそうですね。証拠は何もない。でも、警察は諦めてません。私も」
「あなたの記事のせいで、灯――柚木さんの家に、いたずら電話が来てるんです」
「知ってます」
千景は目を伏せた。
「書いたことに、嘘はありません。でも、書いたことで誰かが傷つくのも、わかってます。だから、ちゃんと最後まで調べたい。誰がやったのか、なんでやったのか。中途半端なところで止めたら、あの家はずっと疑われたままです」
湊は千景を見た。昨日まで、ただの厄介な記者だと思っていた。今、目の前にいる女は、少し違って見えた。
「僕に、何をしろと」
「この町のことを教えてください。三十年前の。あなたのお父さんが話さないことを、町の誰かが覚えているはずです」
「……医者は、患者のことは話しません」
「患者のことじゃなくて、町のことです」
千景は名刺を差し出した。
湊はしばらくそれを見ていた。それから、受け取った。受け取ったことに、自分でも驚いていた。
「気が向いたら」
「待ってます」
千景は軽く頭を下げ、夜の路地へ消えていった。
湊は名刺を白衣のポケットにしまった。父の言葉を思い出した。記者が来ても、何も話すな。
ポケットの中で、名刺の角が指に当たった。
◇
夜十時、蓮は太子堂荘の跡に立っていた。
警察の調べが終わり、現場はようやく規制が解けた。重機はまだ動いていない。一〇三号室のあったあたりは、土がえぐられたまま、黒い穴になっていた。
黄色い規制線の切れ端が、仮囲いの金網に引っかかって、風に揺れていた。そこに、どこからか散ってきた桜の花びらが、何枚も張りついていた。
守るって、壊すことなの?
灯の声が、耳から離れなかった。
蓮はこれまで、壊すことが守ることだと信じてきた。燃える前に壊せば、誰も死なない。それは今も間違っていないと思う。
けれど、と蓮は思った。
この穴に三十年眠っていた男も、たぶん、壊すことが正しいと信じていたのだ。
蓮は仮囲いの金網に手をかけた。冷たかった。
入社して初めて、蓮は自分の仕事を、怖いと思った。
◇
その夜遅く、灯は物音で目を覚ました。
階下の釜場に、明かりがついていた。
灯は寝間着のまま階段を下り、釜場の戸の隙間から中を覗いた。
源造が、焚き口の前に座っていた。営業はとっくに終わっているのに、火が入っていた。祖父は廃材を一本ずつ、ゆっくりと火にくべていた。炎が、祖父の皺だらけの顔を赤く照らしていた。
警察から戻ってから、祖父は一言も口をきいていなかった。灯が何を訊いても、首を振るだけだった。
祖父の唇が、動いた。
灯は息を止めて、耳を澄ませた。
「……早苗」
祖父は、母の名前を呼んでいた。
「早苗。すまねえ。……もう、守ってやれねえかもしれねえ」
炎がはぜ、火の粉が一つ、暗い天井へ舞い上がって消えた。
灯は戸の陰で、自分の口を両手で押さえていた。
母が死んで、もう二十年になる。
その母を、祖父は今、何から守ろうとしているのか。
壁の向こうには、もう太子堂荘はない。黒い穴が、夜の中に口を開けているだけだった。
(第一巻 床下の桜 了)




