第五巻 暖簾をおろす日
第二十一章 記事
篠崎恭一は、雪の夜のうちに逮捕された。
現住建造物等放火の疑い。路地の角に投げ捨てられた赤いポリタンクから、篠崎の指紋が出た。目撃者は三人いた。蓮と、湊と、千景だ。
三月の初め、篠崎は再逮捕された。宮内松蔵の殺害の疑いだった。荒らされた茶箪笥の引き出しの裏に、拭き残された指の跡があった。それが、篠崎のものと一致した。
取り調べで、篠崎は多くを語らなかったという。ただ一つだけ、捜査員に繰り返したことがあった、と千景は警察の知り合いから聞いた。
――俺は、あの夜、車の中で待っていただけだ。有働さんは、来なかった。
三十年前の十一月二十八日の未明。二十四歳の篠崎は、柚の湯の裏の路地の先で、白いセダンの運転席に座って、有働を待っていた。火の手が上がるのを待っていた。だが、火は上がらなかった。有働は、二度と戻ってこなかった。
篠崎は、三十年、待ち続けていたのかもしれない、と千景は思った。あの夜の続きを。
◇
二月の終わり、千景は烏山川緑道のベンチで、湊と会った。
まだ寒かった。桜の枝は、固いつぼみをつけたまま、灰色の空に伸びていた。
「昨日、父と源造さんが、警察に行きました」
湊は言った。
「三十年前のことを、全部話しました。誰が、何をしたのか。二人とも、罪には問われないそうです。死体遺棄の時効は、とっくに過ぎてるし、有働さんを死なせた早苗さんは、もう亡くなっているから」
「……そうですか」
「警察の人が言ってました。法律では、もう、どうすることもできませんって。父は、それでいいって言いました。どうすることもできないから、自分で背負うんだって」
湊は、ベンチの背にもたれた。
「真柴さん。記事を書くとき、父のことも書いてください。名前も、出してかまいません」
「先生」
「父が、そう言ったんです。中途半端に書かれたら、町の人がまた、誰が何をしたのか探り合うことになる。それは、松さんが一番嫌がったことだって」
湊は千景を見た。
「僕も、そう思います。だから、全部書いてください」
千景は、膝の上で手帳を握りしめた。
静岡で書いた記事のことを思い出した。全部本当のことだった。けれど、本当のことの一部だけだった。だから、一人の男が町を追われた。
今度は、全部を書く。全部を書いて、それでも誰かが傷つくのなら、それは千景が背負う。
「わかりました」
千景は言った。
「書きます。先生のお父さんのことも、柚木さんのおじいさんのことも、宮内さんのことも。……それから、柚木さんのお母さんのことも」
「灯には」
「まだ、訊けていません。お母さんの名前を出していいか。柚木さんが、有働さんの娘だということも」
湊は、緑道の先を見た。柚の湯の、黒く煤けた煙突が、家々の屋根の向こうに見えていた。
「灯は、たぶん、自分で決めます」
「そうですね」
千景は笑った。湊も、少しだけ笑った。
「先生は、本当に柚木さんのことをよくわかってますね」
「……わかってても、どうにもならないことはあります」
湊は、それだけ言った。
千景は、その横顔を見ていた。わかっていても、どうにもならないこと。この人は、それを知っている。私も、知っている。
二人は、しばらく黙ってベンチに座っていた。つぼみの固い桜の枝が、風に小さく揺れていた。
◇
その夜、千景は編集部で記事を書きはじめた。
誰もいないフロアで、蛍光灯の下で、千景はキーボードを叩いた。
三十年前の秋、一人の地上げ屋と、一人の銭湯の娘が恋をした。地上げ屋の雇い主は、町を火事で更地にしようとしていた。娘は、それを止めようとした。止めた結果、男は死んだ。町の三人の男たちが、男を床下に埋めた。三十年、黙っていた。黙ることで、娘と、娘のお腹の子と、町を守ろうとした。
三十年後、同じ会社が、同じ町を壊しに来た。床下から、男が出てきた。三十年黙っていた男の一人が、話そうとした。そして、殺された。殺したのは、三十年前、火をつける夜に、車の中で待っていた男だった。
千景は、書いては消し、消しては書いた。
見出しは、何度も変えた。最後に残ったのは、短いものだった。
――三十年目の火。
夜明け近くに、黒木が出社してきた。千景の背後に立ち、画面を覗き込み、黙って最後まで読んだ。
「いい記事だ」
黒木は言った。
「お前が書いた中で、一番いい」
千景は、何も答えなかった。
いい記事だった。自分でもそう思った。それなのに、胸の中は空っぽだった。宮内は死んだ。有働も、早苗も死んだ。三十年前の夜に起きたことは、どんなにいい記事を書いても、元には戻らない。
記事には、まだ空白が一つあった。柚の湯の娘の名前。そして、その娘が誰の子なのか。
千景は、携帯を手に取った。灯の番号を出した。発信のボタンを押せずに、長いあいだ、画面を見ていた。
窓の外が、白みはじめていた。
千景は携帯を置いた。灯は、自分で決める。湊はそう言った。
待とう、と千景は思った。春になるまでは。
第二十二章 母の手紙
三月の初め、世田谷署の刑事が、柚の湯の焼け残った二階を訪ねてきた。
春に祖父を連れていった、年かさのほうの刑事だった。刑事は、煤の匂いの残る畳の上で、正座をして灯と祖父に向き合った。
「先日、柚木源造さんと瀬能道彦さんから伺ったお話について、ご報告に来ました」
刑事は、手帳を開かなかった。
「一九九六年十一月二十八日の件。有働修司さんの死亡については、亡くなった柚木早苗さんが関わったものと判断しました。ただ、早苗さんはすでに亡くなっているため、罪に問うことはできません。遺体を埋めた件についても、死体遺棄の時効は、とうに過ぎています」
刑事は、灯の顔を見た。
「法律の上では、この件で罪に問われる方は、どなたもいらっしゃいません」
祖父は、黙って頭を下げた。
灯は、刑事の言葉を、頭の中でもう一度繰り返した。罪に問われる方は、どなたもいない。
「あの」
灯は口を開いた。
「春に、祖父を疑ってましたよね」
刑事は、少し間を置いてから、うなずいた。
「疑っていました。申し訳ありませんでした」
「謝らなくていいです。祖父は、たしかに、隠してたから」
灯は、膝の上で手を握った。
「誰も裁かれないなら、わたしが背負います。お母さんがしたことも。じいちゃんたちが黙ってたことも。わたしは、その上で生きてきたから」
刑事は何も言わなかった。ただ、深く頭を下げて、帰っていった。
刑事が帰ったあとで、祖父が言った。
「灯。俺は、お前に一つ嘘をついた」
「知ってる」
灯は言った。
「埋めたのは、じいちゃん一人じゃなかった。宮内さんと、瀬能先生も一緒だった。湊から聞いた」
祖父は、目を見開いた。それから、ゆっくりと、肩を落とした。
「……道彦先生を、恨むか」
「恨まないよ」
灯は首を振った。
「先生は、お母さんを助けてくれた。お腹のわたしのことも、知ってて黙っててくれた。宮内さんは、じいちゃんを守るために話そうとして、殺された。……みんな、誰かを守ろうとしただけだよ。やり方が、正しくなかっただけで」
祖父は、灯の顔を見ていた。それから、ぽつりと言った。
「お前は、早苗に似てきたな」
「目つきは、お父さん似だって」
灯は笑った。祖父も、少しだけ笑った。焼け跡の匂いのする部屋で、二人が笑ったのは、あの雪の夜から初めてだった。
その夜、灯は、菓子の缶の底から、一通の封筒を取り出した。
――灯へ。
二〇〇五年十一月。母が死ぬ、ひと月前の日付。
天井裏でこの封筒を見つけてから、半年が経っていた。ずっと、開けられなかった。開けたら、何かが終わる気がした。何かが始まる気もした。
今なら、開けられると思った。
灯は、封を切った。便箋が三枚、入っていた。母の字は、ひどく細く、ところどころ震えていた。
灯へ
この手紙を、あなたがいつ読むのか、わたしにはわかりません。
もしかしたら、ずっと読まないかもしれない。それでもいいと思って、書いています。
あなたのお父さんのことを、書きます。
あなたのお父さんは、有働修司という人です。
この町を壊しに来た人でした。地上げ屋という仕事をしていました。おじいちゃんと、毎日のように喧嘩をしていました。
でも、わたしが一番好きになった人です。
あの人は、ある晩、この町に火をつけようとしました。会社の人たちに、そうさせられたのです。
わたしは、それを止めました。
止めることしか、できなかった。
止めた結果、あの人は死にました。わたしが、死なせました。
おじいちゃんたちは、あの人を隠してくれました。わたしと、お腹のあなたを守るために。
わたしは、それに甘えて、九年間、生きてきました。
あなたを産んで、あなたを育てて、毎日、あなたの寝顔を見ながら、あの人に謝ってきました。
灯。
あなたは、柚の湯の子です。
でも、あの人の子でもあります。
どちらも、恥じないでください。
あの人は、悪いことをしようとしました。でも、あなたのことを知ったとき、子どものように泣いた人です。
わたしは、人を死なせました。でも、あなたのことを、世界で一番愛しています。
どちらも、本当のことです。
あなたの目は、あの人に似ています。目つきが悪いって、いつかあなたは気にするかもしれない。
でも、わたしはその目が、大好きです。
ごめんね、灯。
ありがとう、灯。
母より
灯は、便箋を胸に抱いた。
声を上げて泣いた。八つの冬から、一度も上げたことのない声だった。母の葬式でも、灯は泣かなかった。泣いたら、母がいなくなったことが本当になってしまう気がしたから。
今、ようやく、母がいなくなったことが本当になった。
そして、ようやく、母に会えた気がした。
翌朝、灯は千景に電話をかけた。
「真柴さん。記事のこと」
「……はい」
千景の声は、少し緊張していた。
「全部、書いてください。お母さんの名前も。わたしが、有働修司の娘だってことも」
「いいんですか」
「わたしの名前で、書いてください。柚木灯って」
灯は、窓の外を見た。焼け残った煙突の向こうに、春の空が広がっていた。
「誰も裁かれない罪だから、誰かが背負わなきゃいけない。お母さんは、九年、一人で背負った。じいちゃんたちは、三十年。……次は、わたしの番です」
電話の向こうで、千景が息をのむ音がした。それから、千景は言った。
「わかりました。……柚木さん」
「はい」
「あなたは、強いですね」
「強くないです」
灯は言った。
「目つきが、悪いだけです」
その週の日曜日、有働雅代が柚の湯を訪ねてきた。
焼け跡の前で、雅代は長いあいだ手を合わせていた。それから、灯に小さな包みを渡した。
「弟の腕時計。警察から戻ってきたの。あなたが持っていて」
古い、銀色の腕時計だった。ガラスに細かい傷があり、針は止まっていた。
「三十年、止まったままなの。修理に出そうかと思ったけど、やめたわ。あなたが決めて」
灯は、腕時計を手のひらに載せた。冷たくて、重かった。
「叔母さん、って呼んでもいいですか」
雅代の目が、たちまち潤んだ。
「……ええ。もちろん」
二人は、焼け跡の前で、しばらく黙って立っていた。三月の風が、路地を吹き抜けていった。どこかで、気の早い沈丁花が匂っていた。
第二十三章 看板
千景の記事が載った号は、三月の半ばの木曜に出た。
――三十年目の火 太子堂・白骨事件の真相。
見開き六頁。実名だった。有働修司。柚木早苗。柚木源造。宮内松蔵。瀬能道彦。篠崎恭一。そして、最後の頁に、柚木灯。
記事の終わりには、灯の言葉が載っていた。
――誰も裁かれない罪だから、誰かが背負わなきゃいけない。母は九年、祖父たちは三十年。次は、わたしの番です。
その週、瀬能医院の待合室は、いつもの半分しか埋まらなかった。
来なくなった患者がいた。電話で、かかりつけを変えたいと言ってきた家もあった。町の医者が、人を埋めた。三十年前のことでも、それを許せない人がいるのは当然だった。
けれど、来た患者もいた。
八百屋の元おかみは、診察椅子に座るなり、湊の手を両手で握った。
「先生、よく話してくれたね。道彦先生に、ありがとうって伝えといて」
「……血圧、測りますね」
「あたしはね、あの晩のこと、うっすら覚えてるのよ。夜中に、裏の路地で誰かが走ってた。三十年、誰にも言わなかった。言っちゃいけない気がしてね。この町の人は、みんなそうだったのよ。みんな、少しずつ黙ってたの」
元おかみは、湊の手を離さなかった。
「だからね、先生。道彦先生だけが悪いんじゃないの。みんなで、黙ってたの」
湊は、何も言えずにうなずいた。
三月の終わりの日曜日、父は医院の玄関の前に脚立を立てた。
「父さん、何してるの」
「看板を、おろす」
古い木の看板だった。祖父の代からのもので、墨の字がところどころ薄くなっている。
――瀬能医院 院長 瀬能道彦。
「膝も悪い。目も悪くなった。それに、人を埋めた医者に、町の人の命は預けられん」
父は、脚立に足をかけた。湊は、父の腕をつかんだ。
「危ないよ。僕がやる」
湊は脚立に上り、看板を留めている金具を外した。思ったより重かった。看板を抱えて下りると、父がそれを受け取った。父は看板を胸に抱いて、しばらく何も言わなかった。
「父さん」
「なんだ」
「その看板、明日、もう一回掛けるから」
父が、湊を見た。
「院長の名前のところだけ、書き直す。それ以外は、替えない。瀬能医院は瀬能医院だから」
「湊」
「父さんがしたことは、消えない。僕も、それを背負って、ここで医者をやる。この町で。……それが、父さんの息子だってことだと思う」
父の目から、涙がこぼれた。
父は看板を抱いたまま、何度もうなずいた。声は、出ていなかった。
その夜、千景から電話があった。
「先生。明日、町を出ます」
湊は、受話器を持ったまま、しばらく黙った。
「……どこへ」
「静岡に。昔、私が記事で町を追い出した人に、謝りに行きます。何年も遅れてしまいましたけど。それから、しばらく向こうで、この事件のことを本にまとめようと思って。週刊誌は、やめました」
「黒木さんは」
「怒ってました。でも、最後に、いい記事だったって、もう一回言ってくれました」
千景は笑った。少し、無理をした笑い方だった。
「三軒茶屋の駅、朝十時の電車です。……見送りなんて、来なくていいですから」
翌朝、湊は三軒茶屋の駅にいた。
世田谷線の小さなホームではなく、地下の田園都市線の改札の前だった。千景は大きなスーツケースを引いて、エスカレーターを下りてきた。湊を見て、千景は足を止めた。
「来なくていいって言ったのに」
「往診のついでです」
「往診鞄、持ってないじゃないですか」
「……忘れました」
千景は、吹き出した。それから、笑いながら、目もとを指で押さえた。
「先生、嘘が下手ですね」
「よく言われます」
二人は、改札の前で向き合った。朝の駅は、通勤の人で混んでいた。誰も、二人のことなど見ていなかった。
「記事、最後まで読みました」
湊は言った。
「父のことも、灯のことも、宮内さんのことも、全部。……ちゃんと、書いてくれて、ありがとうございました」
「書いただけです」
「書くのが、一番難しかったと思います」
千景は、スーツケースの持ち手を握りしめた。何か言いかけて、口を閉じた。それから、もう一度口を開いた。
「先生」
「はい」
「私、先生のこと、けっこう好きでしたよ」
軽い口調だった。冗談みたいに。けれど、千景の目は笑っていなかった。
湊は、千景を見た。
知っていた、と言えば嘘になる。けれど、まったく気づいていなかったと言っても、嘘になる気がした。雨上がりの喫茶店。クリスマスの前の晩の居酒屋。烏山川緑道のベンチ。この人はいつも、湊の話を聞いていた。湊が灯の話をするのを、黙って聞いていた。
「……ありがとう」
湊は言った。それしか、言えなかった。
千景はうなずいた。それで十分だというように。
「柚木さんを、見守っててあげてください。先生は、この町にいる人だから」
「はい」
「それと、お酒、もう少し強くなってください。次に会うとき、つまらないので」
「次があるんですか」
「本ができたら、一番に送ります。感想、ちゃんと聞きに来ますから」
千景は改札を抜けた。振り返らなかった。エスカレーターに乗る前に、一度だけ、手を挙げた。
湊は、その手が見えなくなるまで、改札の前に立っていた。
地上に出ると、駅前の桜が、ちらほらと咲きはじめていた。
第二十四章 証言
三月の最後の週、蓮は検察庁の小さな部屋で、検事と向き合っていた。
窓のない部屋だった。机の上に、蓮が持ってきたものが並んでいた。社用車の運行日誌の写真。資料室で撮った、一九九六年の用地取得記録の写真。余白の鉛筆の走り書き。特別対策(十一月末実施予定)→中止。担当者所在不明のため。
「この記録を見つけたのは、いつですか」
「去年の八月です」
「なぜ、そのときに警察に届けなかったのですか」
検事の声は、責めるでもなく、淡々としていた。蓮は、膝の上で手を握った。
「意味が、わからなかったからです。……いえ」
蓮は、首を振った。
「わかりたくなかったんだと思います。自分のいる会社が、昔、町を燃やそうとしていたなんて。自分を拾ってくれた上司が、それに関わっていたなんて」
検事は、ペンを止めた。
「篠崎被告は、取り調べの中で、あなたのことを一度だけ口にしています」
「……何と」
「あいつは、俺に似ていると思っていた、と」
蓮は、目を閉じた。
親のいない若者を、有働修司が拾った。火事で友だちの家を失った若者を、篠崎恭一が拾った。壊すことでしか守れないものもある。三十年前に有働が言い、篠崎が受け継ぎ、蓮が口にしてきた言葉。
「似ていたと思います」
蓮は、目を開けた。
「でも、僕は、あの夜、車の中で待っていませんでした。それだけが、違いです」
◇
蒼和不動産を辞めたのは、その翌日だった。
人事部の担当者は、引き止めなかった。会社は、すでに声明を出していた。一九九六年の件は、当時の下請け業者と一部の担当者が独断で計画したもので、会社としての関与はない。現在の再開発事業は、新たな責任者のもとで適正に継続する。
中枢計画という名前は、消えた。
新しい名前は、三軒茶屋太子堂地区まちづくり事業。完成予想図は、少しも変わっていなかった。ガラス張りの高い建物と、芝生の広場と、ベビーカーを押す若い夫婦。
最後の日、蓮は現地事務所の壁の地図を見上げた。青い区画は、もう地図のほとんどを埋めていた。赤く塗られていた柚の湯の区画だけが、今は灰色に塗られていた。
「保留」と、誰かが付箋を貼っていた。
◇
四月の初め、源造は、柚の湯の土地を手放すことに決めた。
売り先は、蒼和ではなかった。世田谷区だった。区は、太子堂の木造密集地域の中に、火事のときに逃げ込める広場をつくろうとしていた。柚の湯の焼け跡は、その場所にちょうどよかった。
源造は、区の担当者の前で、ぶっきらぼうに言ったという。
――壊すんじゃねえ。空けるんだ。火が来ても、逃げられる場所にな。
蓮は、それを灯から聞いた。
烏山川緑道の、桜の下で。
桜は、満開だった。
一年前、蓮が初めて柚の湯の玄関に立った日も、この緑道の桜は散りはじめていた。仮囲いの上から、花びらが一枚、二人のあいだに落ちてきた。あの日、灯はほうきを持っていた。
今日の灯は、何も持っていなかった。手首に、古い銀色の腕時計を巻いていた。止まったままの、有働修司の時計だった。
「わたしね、少し、町を出る」
灯は言った。
「船橋の叔母さんのところの近くに、古い銭湯があるの。そこで、一年、働かせてもらうことになった。薪で沸かしてる、うちと同じくらい古いところ。ちゃんと、一から覚えたいの。釜のことも、湯のことも。じいちゃんに教わったことだけじゃなくて」
「一年」
「うん。それから、江ノ島に行ってみる。お母さんとお父さんが行った海。写真と同じ場所に、立ってみたい」
灯は、桜を見上げた。花びらが、灯の髪に一枚落ちた。
「いつか、どこかで、もう一回、柚の湯を開けたい。この町じゃなくてもいい。小さくてもいい。暖簾は、焼け残ったから」
蓮は、灯の髪から花びらをつまみ取った。
「僕は、区役所の試験を受けます」
灯が、蓮を見た。
「まちづくりの部署に、木造密集地域の対策をやっている課があるんです。壊さずに、燃えにくくする方法を探してる人たちがいる。路地を広げる代わりに、消火栓を増やしたり、古い家に燃えにくい壁を入れたり。……壊さずに守る方法を、僕も探してみたい」
「受かるの?」
「わかりません。でも、受けます」
灯は笑った。一年前、仮囲いの前で、蓮が初めて灯の笑う顔を見たときと、同じ顔だった。
「ねえ」
「はい」
「一年、待っててくれる?」
蓮は、灯の手を取った。手首の時計が、蓮の指に冷たく触れた。
「待ちます」
「長いよ」
「三十年待った人も、いたので」
灯は、ふっと吹き出した。それから、蓮の胸に額を押しつけた。
「……その冗談、笑えない」
「すみません」
「でも、ちょっと笑った」
灯は顔を上げた。蓮は、灯にそっと口づけた。一年前の釜場の夜とは違って、涙の味はしなかった。花びらが、二人の肩に降り積もっていった。
緑道の先で、焼け残った煙突が、春の空に黒く立っていた。
第二十五章 暖簾をおろす日
柚の湯の最後の営業日は、四月の第三土曜日に決まった。
釜場は焼け落ちていた。湯を沸かす方法がなかった。それでも、最後の一日だけ開けたいと灯が言うと、思いがけないところから手が挙がった。
「仮設のボイラーなら、うちの会社で手配できる」
現場監督の田所だった。一年前、太子堂荘の床下をはがした男だ。
「骨を掘り出しちまったのは、俺たちだ。あれで、あんたらの暮らしを全部ひっくり返した。最後くらい、湯を沸かさせてくれ」
田所は、若い作業員たちを連れてきて、焼け跡の釜場の跡に、小さな仮設のボイラーを据えつけた。燃料は、廃材だった。太子堂のあちこちで壊された家の、古い柱や板だった。
蓮も、作業着を借りて、廃材を運んだ。
◇
午後三時、灯は暖簾を出した。
焼け残った女湯だけを使い、男と女で時間を分けることにした。それでも、玄関の前には、開店の一時間前から列ができていた。
八百屋の元おかみがいた。床屋の老主人がいた。再開発で町を出ていった年寄りたちが、喪服ではなく、普段着で戻ってきていた。湯桶と手ぬぐいを抱えて、子どものように並んでいた。
番台には、祖父が座った。
煤の跡が残る番台に、祖父はいつものようにふんぞり返り、いつものように小銭を受け取り、いつものように「釣りはねえぞ」と言った。客は、いつものように笑った。
「源さん、今日はぬるめにしといてくれよ」
誰かが言った。宮内の口癖だった。祖父は一瞬、手を止めた。それから、ぶっきらぼうに答えた。
「松さんの分まで、熱くしといてやる」
脱衣所で、誰かが小さく泣いていた。
夕方、湊が父と一緒に来た。
道彦は、番台の前で深く頭を下げた。祖父は、黙って二人分の小銭を受け取った。それから、道彦の肩を一度だけ叩いた。三十年前の夜から、二人がそうするのは初めてだった。
湊は、男湯の時間に湯に浸かった。焼け残った女湯の、三保の松原の絵を見上げながら。子どものころ、男湯の富士山を見て育った。富士山は、もう焼けてしまった。
湯から上がると、玄関の外に、見覚えのある女が立っていた。
首から、古いカメラを提げていた。
「……真柴さん」
「本の、最後の写真が必要だったので」
千景は、柚の湯の暖簾にカメラを向けた。シャッターを一度だけ切った。
「静岡は」
「謝ってきました。許してはもらえなかったけど、話は聞いてもらえました」
千景は、カメラを下ろした。
「先生、お酒、少しは強くなりました?」
「……まだです」
「でしょうね」
千景は笑った。湊も笑った。二人は、暖簾の前に並んで、しばらく黙って立っていた。それで十分だった。
◇
夜の十二時、最後の客が帰った。
灯は、浴槽の湯を抜いた。タイルを、一枚ずつ丁寧に洗った。三保の松原の絵に、ありがとう、と小さく言った。
玄関に出ると、祖父が番台を下りて待っていた。湊と、道彦と、千景と、田所と、蓮がいた。暖簾は、夜風に揺れていた。紺地に、白く染め抜いた「ゆ」の字。焼けずに残った、母の代からの暖簾だった。
「灯」
祖父が言った。
「お前が、おろせ」
灯は、竿に手を伸ばした。
この暖簾を、灯は何千回、出して、おろしてきたのだろう。子どものころは、母の背中越しに見ていた。母が死んでからは、祖父の背中越しに。十八になってからは、毎日、自分の手で。
灯は、竿を外した。
暖簾が、灯の腕の中に落ちてきた。思ったより軽かった。古い木綿の、湯気と煤の匂いがした。
「……ありがとうございました」
灯は、誰にともなく頭を下げた。
顔を上げると、みんなが、灯を見ていた。誰も、何も言わなかった。言わなくても、わかっていた。
祖父が、灯の頭に手を置いた。大きな、煤の匂いのする手だった。
「持ってけ。お前の暖簾だ」
◇
一年が過ぎた。
二〇二七年の春。世田谷線の小さな車両を三軒茶屋で降りて、灯は太子堂の路地を歩いていた。
路地は、少し変わっていた。いくつかの古い家が消え、新しい家が建っていた。燃えにくい壁の、白い家だった。路地の角に、真新しい消火栓が立っていた。
柚の湯のあった場所には、仮囲いが立っていた。白い板に、区の看板が掛かっていた。
――太子堂防災広場(仮称) 整備工事中。
仮囲いの前に、男が一人、立っていた。紺の背広ではなかった。区役所の名札を首から提げ、作業着の上着を着ていた。
「……久世さん」
「おかえりなさい」
蓮は、一年前と同じ、少し困ったような顔で笑った。
「区役所、受かったの」
「なんとか。今は、この広場の担当です。……自分から、手を挙げました」
灯は、仮囲いの隙間から中を覗いた。焼け跡は、きれいに均されていた。真ん中に、まだ細い若木が一本、植えられていた。
「桜?」
「はい。烏山川緑道の桜の、接ぎ木です。広場ができたら、ここで花見ができるように」
灯は、しばらく若木を見ていた。
それから、肩にかけた鞄を開けた。中から、きちんと畳んだ紺の木綿を取り出した。「ゆ」の字が、白く染め抜かれていた。
「船橋の銭湯のおじいさんがね、この春で引退するの。後継ぎがいないから、閉めるつもりだったって。……それで、わたしにやってみないかって」
蓮が、灯を見た。
「名前は、柚の湯でいいって。暖簾も、これを掛けていいって。じいちゃんも、番台に座る気満々なの。叔母さんの家の近くだから、毎日、湯に入りに来るって」
「通います」
蓮は、すぐに言った。
「船橋まで。毎日は無理でも、週末ごとに」
「区役所の人が、船橋の銭湯に通うの?」
「通います」
灯は笑った。笑いながら、目もとを手の甲で押さえた。
手首で、銀色の腕時計が、小さく光っていた。
「時計、直したの」
灯は、手首を蓮の前に差し出した。
ガラスの細かい傷は、そのままだった。けれど、秒針が、静かに動いていた。三十年止まっていた時計が、今の時を刻んでいた。
「動いてる」
「うん。動いてる」
灯は、蓮の手を取った。
仮囲いの向こうで、若い桜の枝が、春の風に揺れていた。まだ、花は三つしか咲いていなかった。
それでも、たしかに、咲いていた。
(第五巻 暖簾をおろす日 了)
『中枢恋争』 完




