第二章 風の街のにぎわいと影【中編】
ユウリの背中が人混みに溶けていく。
その姿が見えなくなっても、シエリはすぐには動かなかった。
通りのざわめきが、戻ってくる。
呼び声と笑い声。荷車のきしむ音。遠くで金属が触れ合う音。
同じ場所のはずなのに、さっきまでとは違って感じる。
ひとりになった――その実感が、遅れて胸に落ちた。
(……行こう)
息をひとつ吐く。
今度は、自分の足で歩く番だ。
通りへ踏み出す。
朝の市場は、すっかり目を覚ましていた。
水を打つ音。値段を張る声。客を呼ぶ声。
それらが重なり合って、街そのものが動いている。
「安いよ! 今朝獲れたばっかだ!」
勢いのある声に、足が止まる。
魚屋だった。
木の台に並べられた魚が、朝の光を受けてきらりと光る。
水を浴びた体はつややかで、今にも跳ねそうだ。
「お、嬢ちゃん。見るか?」
四十代くらいの男が笑う。
日に焼けた肌に、太い腕。
海の匂いが似合う人だった。
シエリは、そのまま店先へと近づく。
「こいつは刺身で食うとうまいぞ」
ひょい、と一匹を持ち上げる。
「今朝上がったばっかりだ。脂が乗っててな」
「刺身……」
自然と、その言葉を繰り返していた。
頭の中に、薄く切られた魚の身が浮かぶ。
つややかに光って、やわらかく揺れる。
口に入れたら――
きゅる、と。
「……っ」
思わず口元を押さえる。
「ははっ、いい音だな!」
店主が豪快に笑った。
「す、すみません……!」
「気にすんなって。腹は正直だ」
「焼くのもいいけどな、やっぱりそのままだな」
その言葉は、妙に現実味があった。
(……食べてみたい)
はっきりと、そう思う。
今はまだ無理でも。
(いつか、ちゃんと)
「また来な。いいの取っとく」
「ありがとうございます! また来ます!」
軽く頭を下げて、その場を離れる。
胸の奥が、ぱっと弾んだ。
通りを進む。
今度は、色が視界に飛び込んでくる。
果物屋だった。
赤、黄色、深い緑。
山のように積まれた果物が、光を受けてつややかに輝いている。
「あら、気になるの?」
明るい声がかかる。
振り向くと、六十代くらいの女性が笑っていた。
小柄だけど背筋がしゃんとしている。
動きも軽くて、活発そうな人だ。
「それ、リィゴっていうのよ」
「リィゴ……」
「このあたりの特産品ね」
ひょい、と持ち上げる。
「港の近くで育つ果物でね、水がいいから甘くなるの」
「皮も薄いし、そのままかじって大丈夫よ」
ぽん、と手のひらに乗せられる。
「ほら、食べてみなさい」
一瞬だけ迷って、そのまま一口。
――じゅわっ。
果汁があふれる。
(……すごい)
みずみずしい甘さが、口いっぱいに広がる。
噛むほどに、甘みが重なっていく。
「どう?」
シエリは目を輝かせたまま、こくこくと何度も頷く。
甘さを味わって――
ごくん、と飲み込む。
「……すごくおいしいです!」
「でしょ?」
「朝に食べるとね、体もちゃんと起きるのよ」
「確かに……」
「初めて来たの?」
「はい。ちゃんと回るのは今日が初めてで」
「あら、いい時に来たわね」
「リィゴは覚えておきなさい。迷ったらこれで間違いないから」
「ありがとうございます! また来ます!」
「ええ、いつでもおいで」
店を離れる。
口の中には、まだ甘さが残っていた。
(……いいな、この街)
歩く。
人の流れに乗る。
ぶつかりそうになって、避けて、また進む。
そのリズムに、身体がなじんでいく。
ふと、袖に目がいく。
残っている汚れ。
(……そういえば)
軽く触れる。
落ちきらない跡。
(このままじゃ、ちょっとな)
顔を上げる。
防具屋の看板が目に入る。
扉を押す。
中に入ると、革と布の匂いがやわらかく広がる。
外の喧騒が遠のく。
「いらっしゃい」
三十代くらいの女性が顔を上げる。
「見ていく?」
「はい。初心者向けの装備ってありますか?」
「あるよ」
「昨日あたり始めた感じ?」
「はい」
「やっぱりね」
「こっち」
並んだ装備の前へ。
「これはメープの毛。軽くて暖かい」
「こっちは長毛牛。少し重いけど、その分しっかりしてる」
「で、これ。一角兎の毛皮。軽くて動きやすい」
手に取る。
軽い。
思っていたより、ずっと。
シエリは三つを見比べる。
暖かさ。
丈夫さ。
軽さ。
そして、昨日の戦い。
踏み込んだ瞬間。
風を切るように動いた一歩。
(……あの感覚)
もう一度、確かめたい。
あの軽さを、自分のものにしたい。
ふと、タグに視線を落とす。
メープは六十メル。
長毛牛は八十メル。
一角兎は三十メル。
(……これなら)
「……これ、ください」
一角兎の防具を指す。
「いいと思うよ」
「動ける方が楽だからね」
代金を払う。
新しい装備を受け取る。
軽い。
でも、確かな存在感がある。
(……ちゃんと、進んでる)
「サイズ合わなかったら直すから、持ってきな」
「ありがとうございます!」
「いつでもどうぞ」
店を出る。
通りの音が戻ってくる。
声、音、風。
風が、頬をかすめた。
街の中を流れる風。
シエリは歩く。
その流れに乗るように。
自分の足で、前へ。




