第二章 風の街のにぎわいと影【前編】
朝の光が、草原をやわらかく照らしていた。
目を開けても、すぐには身体が動かなかった。
夜と朝のあいだ。
その境目に、まだ意識が取り残されているような感覚。
シエリはゆっくりと息を吸う。
冷たい空気が、胸の奥まで通る。
――生きてる。
その実感が、静かに落ちてくる。
身体を起こす。
手のひらに触れる草の冷たさ。
腕や足に残る、鈍い疲労。
昨日、確かに戦った証だった。
それでも。
動ける。
ちゃんと、自分の意思で身体が動く。
そのことが、じわりと胸に広がっていく。
思い出す。
踏み出した一歩。
刃が届いた感触。
怖かったはずなのに――
胸に残っているのは、“前に出た感覚”だった。
「起きたか」
声が落ちてくる。
顔を上げると、ユウリが立っていた。
すでに装備は整っている。
剣も盾も、静かにそこに収まっている。
「……おはよう」
「おはよう」
短いやり取り。
それだけで、空気が整う。
しばらく言葉はなかった。
風が草を揺らす音。
遠くで鳥が鳴く声。
それだけで、朝は十分だった。
シエリは立ち上がる。
軽く身体を伸ばす。
感覚を確かめるように。
(……大丈夫)
小さく頷く。
ユウリが歩き出す。
「戻るか」
「うん」
後を追う。
朝の草原は、夜とはまるで違っていた。
同じ場所なのに、空気が違う。
夜は張り詰めていた。
何かが潜んでいるような気配。
けれど今は――
すべてが開かれている。
昨日の戦いの跡は、ほとんど残っていなかった。
踏み荒らされた草も、風に撫でられて元に戻りつつある。
「……昨日の最後」
ユウリがぽつりと言う。
シエリはわずかに息を止める。
「無茶はするな」
短い言葉。
「……気をつける」
「分かってるならいい」
それで終わりだった。
けれど、その距離感が心地よかった。
歩き続ける。
やがて、街が見えてくる。
エルシート。
朝の光の中で、ゆっくりと動き始めている。
煙が上がり、人が行き交い、音が生まれる。
門をくぐる。
荷を下ろす音が響く。
呼び合う声が交差する。
どこかで鍋をかき混ぜる音がする。
通りは、すでに生きていた。
(……帰ってきた)
その実感が、胸に広がる。
ギルドへ向かう。
扉を押し開けると、冒険者たちの空気が流れ込んできた。
受付へ。
ミリアが顔を上げる。
「無事だったみたいね」
ユウリが袋を置く。
「五本、揃ってる」
ミリアはひとつずつ確認する。
丁寧な手つき。
「問題ありません」
「依頼完了です。お疲れさまでした」
その言葉が、まっすぐ胸に届く。
報酬を受け取る。
硬貨の重みが、現実を伝えてくる。
「初日でこれは上出来ね」
「……無茶はしなかった?」
「……ちょっとだけ」
「まあ、最初はそんなものよ」
それから、やわらかく。
「でも——ちゃんと戻ってきた」
「それが一番大事よ」
シエリは頷く。
「……ありがとうございました」
「またいつでも来なさい」
受付を離れる。
足音が木の床に響く。
扉の前で、足が止まる。
振り返る。
ざわめく空気。
並ぶ依頼書。
動き続ける人たち。
(……ここから、始まる)
息をひとつ吐く。
外へ出る。
通りの音が一気に広がる。
「腹減ってないか」
その声で、肩の力が抜けた。
「……減ってる」
「いい店知ってる」
少し歩く。
通りの喧騒から、少し外れた場所。
小さな食堂。
中に入ると、やわらかな空気が広がる。
席に座る。
木のメニュー板を手に取る。
「これ、外れない」
ユウリが指差す。
「それにする」
「じゃあ同じので」
ユウリが手を上げる。
「ふたつ、同じので」
短いやり取り。
それだけで通じている。
シエリはその様子を見ていた。
無駄がない。
自然な動き。
(……やっぱり)
落ち着いている。
料理が運ばれてくる。
香ばしい匂いが立ちのぼる。
一口。
(……おいしい)
味が、ゆっくりと広がる。
「うまいだろ」
「うん……すごく」
食べ終える。
皿はきれいに空になっていた。
温かさと満足感が、まだ身体の中に残っている。
「うまかったな」
「うん……すごく」
シエリは湯気の消えかけた皿を、もう一度だけ見た。
それから、ふっと息を吐く。
ユウリが先に立ち上がる。
椅子が、軽く音を立てた。
「行くか」
「うん」
シエリも席を立つ。
軽く服の裾を整えて、椅子を戻す。
店の中には、まだ朝の落ち着いた空気が流れていた。
厨房の奥からは、次の料理を仕込む音。
食器が触れ合う小さな音。
その中を抜けて、出口へ向かう。
そのとき、ふと気づく。
「……あ、お金」
慌てて、腰の袋に手を伸ばした。
その前に。
ユウリがさりげなく店主に硬貨を渡していた。
「えっ……」
「もう払っといた」
「え、でも……!」
「自分の分は、自分で……」
硬貨を取り出そうとする。
ユウリは軽く手を振る。
「いいって」
「でも……」
少しだけ迷う。
ユウリが笑う。
「初パーティ記念ってことで」
「……え?」
「最初くらい、いいだろ」
軽い調子。
押しつける感じはない。
シエリは一瞬だけ考えて――
「……ありがとう、ユウリ」
ユウリは肩をすくめる。
「おう、どういたしまして」
さらっとした返事。
「次、うまいもん見つけたら教えてくれ」
そう言って外へ出る。
シエリも後を追う。
通りに出る。
音が戻る。
「じゃあ、俺はここで」
「もう行くの?」
「ああ。ちょっと用があってな」
「……付き合ってくれて助かった」
「またタイミング合えば、一緒にやろうぜ」
「うん、ぜひ」
「じゃあな」
ユウリは歩き出す。
振り返らない。
その背中が、人の流れに溶けていく。
(……また、会える)
そう思えた。
シエリは息を吸う。
そして、街の中へと歩き出した。




