第一章 風の港、はじまりの一歩【後編】
二体目は、さっきよりも早く決着がついた。
ユウリが突進を受け流す。
体勢が崩れたところに、シエリが踏み込む。
刃が入る。
浅い。
それでも、動きが止まる。
その一瞬に、ユウリの剣が重なる。
光が弾ける。
三体目。
同じようにはいかなかった。
突進の角度が違う。
ユウリが受ける位置を半歩ずらす。
勢いを逃がしきれず、靴が土を削る。
「下がれ!」
声が飛ぶ。
シエリは一歩引く。
その横を、一角兎がかすめる。
風圧だけで体が揺れる。
「今は来るな」
短い指示。
シエリは剣を構えたまま、踏み込みを止める。
ユウリが体勢を立て直す。
一角兎が振り向く。
「来い」
低く言う。
突進。
今度は正面で受ける。
盾が鳴る。
流す。
わずかに軌道が逸れる。
「今だ!」
シエリが動く。
踏み込む。
剣を振る。
今度は深く入る。
一角兎の動きが止まる。
ユウリが仕留める。
光が散る。
「……いける」
息の中で呟く。
体が、さっきより動いている。
四体目と五体目は、同時に現れた。
草が大きく揺れる。
二つの影。
「来るぞ、二体!」
ユウリの声。
左右。
距離は近い。
同時に来る。
その瞬間、心臓が強く跳ねた。
鼓動が一拍遅れて追いかけてくる。
息が浅くなる。
怖い——
でも、それだけじゃない。
身体の奥で、何かが高鳴る。
「固まるな、右を見ろ!」
声が飛ぶ。
右を見る。
一体目が跳ぶ。
突進。
避ける。
風が頬をかすめる。
剣を振る。
当たる。
浅い。
それでも、止まる。
「離れろ!」
ユウリの声。
その瞬間だった。
もう一体が、想定より速く踏み込んでくる。
「……っ」
間に合わない。
ユウリの位置が、わずかに遠い。
一瞬だけ、視界が白くなる。
逃げるか——
違う。
ここで逃げたら、終わる。
身体が先に動いていた。
一歩、前へ。
一角兎の軌道に、あえて入る。
「シエリ、下がれ!」
聞こえている。
でも、止まらない。
角が迫る。
距離が消える。
その瞬間——
ほんのわずか、軌道が見えた。
横にずらす。
掠める。
服が裂ける感触。
それでも止まらない。
踏み込む。
剣を振る。
深く入る。
一角兎の動きが止まる。
ユウリの剣が落ちる。
光が弾ける。
一瞬の静寂。
「……今の」
ユウリの声が低くなる。
いつもの軽さが消えていた。
シエリは息を吐く。
肺が焼けるように熱い。
それでも——
足は震えていなかった。
ユウリが一歩近づく。
「今のは、無茶だ」
短く、はっきりと言う。
「間に合わなかったら、どうするつもりだった」
視線がまっすぐ向く。
シエリは一瞬だけ言葉に詰まる。
それでも、目を逸らさない。
「……それでも、行くしかないと思った」
わずかな沈黙。
ユウリは小さく息を吐く。
「……次からは、俺を見ろ」
低く言う。
「一人で背負うな」
その一言だけだった。
少しだけ間を置いて。
「……でも」
視線がわずかに緩む。
「悪くなかった」
胸の奥が、じわりと熱くなる。
最後の一体。
正面から来る。
さっきと同じ。
違うのは、自分だ。
逃げない。
見る。
感じる。
「……今」
踏み込む。
剣を振る。
深く入る。
ユウリが仕留める。
光が弾ける。
風が戻る。
「……終わった」
今度は、はっきりと分かった。
角を回収する。
一本、また一本。
手に重みが増えていく。
「これで五本か」
ユウリが角を拾い、シエリへ渡す。
「依頼達成だ」
その手から角を受け取った瞬間、シエリは実感した。
自分は本当に、冒険者として戦ったのだ。
日が傾き始めていた。
エルシートへ戻るには少し時間がかかる。疲労もある。ユウリは空の色を見て、無理に帰るより野営した方が安全だと判断した。
二人は見晴らしのいい場所を選び、小さな焚き火を作った。
ユウリは慣れた手つきで石を並べ、風向きを見て火を起こす。シエリは枯れ枝を集めながら、その手際の良さに感心していた。
やがて火が灯る。
ぱちぱちと枝が爆ぜ、橙色の光が二人の顔を照らした。
夜の草原は、昼とは別の場所のようだった。
草の海は暗く沈み、風の音だけが大きくなる。遠くで小さな獣が鳴き、どこかで羽虫がかすかに震えている。
シエリは膝を抱え、火を見つめた。
炎は形を変え続けている。伸びて、縮んで、揺れて、また立ち上がる。
「疲れたか?」
ユウリが干し肉を差し出した。
「うん。でも、嫌な疲れじゃない」
シエリは火を見たまま小さく笑った。
焚き火が、小さく揺れる。
夜が静かに降りてくる。
「……私、なりたいんだ」
シエリが言う。
「ちゃんと戦える冒険者に」
一度、息が止まる。
「シエリ」
「うん?」
「両親のこと、もう少し聞いてもいいか」
シエリは少しだけ指を止めた。
胸の奥に、いつもの痛みが触れる。
それでも、不思議と嫌ではなかった。
「父は、明るい人だった」
火を見ながら、言葉を探す。
「いつも笑ってて、失敗しても『次がある』って言う人。私が転んでも、泣く前に笑わせようとしてくるの」
ユウリは静かに聞いている。
「母は優しかったけど、厳しかった。父が無茶しようとするとすぐ怒って。でも、誰よりも父を信じてた」
口にするほど、記憶が鮮明になる。
父の笑い声。母の手の温もり。旅立つ日の背中。
「二人とも、帰ってくるって言ったの」
そこまで言った時、喉が詰まった。
言葉にした途端、その約束がまだ果たされていない現実が胸を締めつけた。
息がうまく吸えない。
シエリは唇を噛んだ。焚き火の光が揺れる。視界の端が少し滲む。
「帰ってくるって言ったのに、帰ってこなかった。でも、死んだって聞いたわけじゃない。だから私は、まだ」
声が震える。
「まだ、生きてるって思いたい」
言い終えた瞬間、胸の奥に押し込めていたものが溢れそうになった。
泣きたくない。
今日会ったばかりの人の前で泣くなんて。
そう思うのに、呼吸が浅くなる。
ユウリはすぐには何も言わなかった。
その沈黙が、シエリにはありがたかった。
慰めの言葉で蓋をされるより、ずっと。
やがて、ユウリが静かに言った。
「思っていいんじゃないか」
シエリは息を止めた。
「証拠がないなら、諦める理由にもならない。誰かに否定されても、シエリが信じたいなら、信じていいと思う」
その言葉は強くなかった。
励ますために飾られた言葉でもなかった。
ただ、まっすぐだった。
だからこそ、胸に深く入ってきた。
シエリは何か言おうとした。けれど、声が出なかった。
喉の奥が熱く、苦しい。
胸の奥で、固まっていた何かが少しだけほどける。
代わりに、両手で膝を抱く力が少し強くなった。
「ありがとう」
ようやく出た声は、掠れていた。
ユウリは火を見つめたまま、小さく頷いた。
「俺も、誰かにそう言ってほしかったのかもしれない」
「ユウリも?」
「ああ。」
ユウリは揺らめく焚き火を見つめながら何か考えてぽつりと語りだした。
「小さい頃見た夢のことだ。子どものころからずっと同じ声がする。助けてほしいと。誰に話しても、夢だと言われるだけだった」
「家族にも?」
ユウリは少し考えたあと、柔らかく笑った。
「心配はされた。でも否定はされなかった。だから外に出られたんだと思う」
その笑みには、家族への信頼があった。けれど同時に、どこか寂しさもあった。
シエリはその横顔を見つめた。
普段は明るく、誰とでも自然に話せる人。けれど、その奥に触れられない場所がある。
火に照らされた青い瞳が、どこか遠くを見ている。
その遠さが、ほんの少し胸に残った。
「その声の人を、助けたいんだね」
「ああ。顔も名前も分からない。でも、放っておけない」
シエリは火の向こうのユウリを見た。
昼間、盾を構えて前に立った姿を思い出す。
この人は、そういう人なのだ。
知らない誰かの声でも、聞こえてしまったら無視できない。
「ユウリらしいね」
「今日会ったばかりで、もう俺らしさが分かるのか?」
「少しだけ」
シエリがそう言うと、ユウリは楽しそうに笑った。
その笑い声は軽く、夜の草原の冷たさを少し和らげた。
風が吹く。
その時だった。
シエリはふと、顔を上げた。
草原の向こう。
岩陰のあたり。
何かがいる。
見られている。
そんな感覚が、背筋を撫でた。
「ユウリ」
声を潜める。
ユウリの表情が変わった。
「どうした?」
「あっち。誰かいる気がする」
ユウリはすぐに剣へ手をかけ、立ち上がった。
焚き火の光から一歩外へ出ると、その輪郭が夜に沈む。青い目が鋭く岩陰を見据えた。
しばらく、何も動かなかった。
草が揺れる。風が吹く。火が鳴る。
それだけ。
「魔物かもしれない。今夜は火を絶やさないようにしよう」
「うん」
ユウリは腰を下ろしたが、剣から手を離さなかった。
シエリも剣を握りしめる。
さっきまでの温かい空気が、少しだけ遠ざかっていた。
夜の草原は深い。
風の音が、耳の奥へ入り込んでくる。
その中に。
微かな声が混じった。
——て。
シエリは息を止めた。
「今」
ユウリがこちらを見る。
「どうした?」
シエリは答えられない。
耳を澄ます。
風が吹く。
火が揺れる。
しかし何も聞こえてこない。
ただそこには静かな風の音だけが響いていた。




