3話
「ちょっとシズエさん、本当に大丈夫なの!? 私、生まれてこの方、包丁で切ったことあるのなんて大根と魚と、たまに自分の指くらいよ!?」
「立川第3ダンジョン」の第1層――昭和の商店街を思わせる、妙に手入れの行き届いた石畳の路地裏で、田中のぶ子(67歳)は悲鳴に近い声を上げていた。
両手で握りしめているのは、ダンジョンに入る直前に『スーパーふじの』で買ったばかりの、なんてことのないステンレス製のキッチン用トング。
そして、反対の手には『ふじの』のロゴが大きくプリントされた頑丈なレジ袋。中には先ほど特売でゲットした98円の大根と、100円の卵パックが入っている。
「大丈夫だって言ってるでしょ、のぶちゃん。肩の力を抜きなさいって。息子の反抗期を思い出してごらんなさいよ。あの時の苛立ちに比べたら、ダンジョンの魔物なんて可愛いもんよ」
隣を歩く佐藤シズエ(65歳)は、まるで夕方の散歩でもしているかのように平然としていた。右腕には買い物かご、右手には自宅から持参した研ぎ澄まされた『関の孫六』のペティナイフ。その立ち姿には、長年の家事で培われた絶対的な安定感があった。
「そんなこと言ったって……あら嫌だ、冷たい空気が足元に……」
のぶ子が身をすくめた、その時だった。
ペチャ、ペチャ……と、不気味で湿り気のある音が路地の角から響いてきた。
現れたのは、体長1メートルほどの緑色のドロドロとした物体――スライムだ。若手冒険者が剣を振るって戦う初級モンスターだが、迫り来るその巨体は、未経験ののぶ子にとって十分すぎるほど恐怖の対象だった。
「ひやああぁぁぁっ!? 来たわ! シズエさん、来たわよ!」
のぶ子は咄嗟にシズエの背中に隠れようとした。しかし、スライムは容赦なく、ぬめっとした体を躍ら
せてのぶ子めがけて跳んできた。
「あら嫌だ! 服についたら落ちないじゃないのっ!」
のぶ子の脳内で、恐怖よりも先に「洗濯の面倒くささ」が弾けた。
高級なウールのセーターを着てこなくて本当によかった。だが、今のセーターだって、先月のバーゲンで買ったお気に入りの一着なのだ。こんな得体の知れない緑色の液体で汚されてたまるか!
「えいっ、あっち行きなさいよ!」
パシィンッ!
のぶ子が半狂乱で振るったステンレス製トングが、空中を飛来するスライムの側面にクリーンヒットした。
金属の高い音が響き、スライムの体がぐにゃりと歪む。
「あら……?」
意外にも、手応えは柔らかかった。もっとカチカチで恐ろしいバケモノかと思っていたが、触感としては、干しすぎて硬くなった羽毛布団か、あるいは使い古したクッションのようだ。
「のぶちゃん、ナイス! そのまま核を叩くのよ! 赤く光ってる中心のやつ!」
「えっ、中心!? これかしら!?」
スライムが地面に着地し、態勢を立て直そうと脈動する。
のぶ子は、シズエの指示通りにスライムの中心で妖しく明滅する赤くて丸い「核」を捉えた。
その瞬間、のぶ子の頭の中に、ある光景がフラッシュバックした。
――小春日和の絶好の洗濯日和。ベランダの手すりに干した、ズッシリと重い羽毛布団。竹製の布団叩きを両手で構え、勢いよく振り下ろすあの瞬間。
(そうよ……これ、布団叩きと同じじゃない!)
「ホコリと一緒に消えなさいッ!!」
パパーンッ!
のぶ子は両手でトングを構え、まるでベランダのダニやホコリを撃退するかのような完璧なフォームで、スライムの核めがけてトングの先端を叩き込んだ!
プチッ、という軽い弾けるような手応え。
次の瞬間、スライムは緑色の泡となって空気中に霧散した。
「……できた。私、倒しちゃった……?」
呆然と立ち尽くすのぶ子の足元に、トン、と小さな音がして小瓶が転がり出た。
透明なガラス瓶の中に溜まっているのは、透き通った黄金色の美しい液体。
【ドロップアイテム:極上出汁の素(スライムの核)】
「見事よ、のぶちゃん! 初陣で一発撃破なんて、筋が良いわ!」
シズエがパンパンと手を叩いて称賛する。
のぶ子は息を整えながら、足元の小瓶を拾い上げた。蓋を少しずらすと、芳醇な鰹と昆布の香りが鼻腔をくすぐる。
「まあ……! なにこれ、本当に良い香り……! これが昨日の言ってたお出汁ね!?」
「そうよ! これでお味噌汁を作ったら、絶対に美味しいんだから」
のぶ子の顔から恐怖が完全に消え去った。代わりに浮かんだのは、長年主婦として家庭を支えてきた熟練者特有の「欲」と「自信」だった。
「シズエさん……これ、もっと倒したら、もっとお出汁が手に入るの?」
「当然よ。このダンジョン、スライムは腐るほど出るんだから」
「ふふふ……いいわね。なんだか乗ってきたわ。日頃のストレスも発散できるし、一石二鳥じゃない!」
のぶ子はトングをカチカチと2回鳴らし、ニヤリと笑った。
かつて息子が反抗期で部屋の壁に穴を開けた時のこと。夫が休日にゴロゴロして掃除の邪魔だった時のこと。長年溜め込んできた主婦の日常の鬱憤が、今や最高の「火力」へと変換されていた。
「ちょっと、のぶちゃん速い指示出しね!」
数分後、ダンジョンの通路はのぶ子の独壇場と化していた。
「ほらっ、2匹目来たわよ! 洗濯機に放り込む前の予洗いよッ!」
パパーンッ!
「3匹目! 網戸の掃除をサボったバツよッ!」
パシーンッ!
「4匹目! 夫の加齢臭のついた枕カバーの分ッ!」
パパパパーンッ!
のぶ子の振り下ろすトングは、もはや迷いの一切ない「プロの布団叩き」そのものだった。
スライムが飛びかかってこようが、ぬめっと忍び寄ってこようが関係ない。長年の家事で鍛え上げられた手首のスナップと、正確無比な間合いの捉え方。スライムが攻撃動作に入る前に、完璧なタイミングで核をジャストミートさせていく。
パチ、プチッ、ポトン。
軽快な音とともに、のぶ子の足元には『極上出汁の素』が次々と転がっていった。
「うふふ、うふふふふ! た~のし~い! これ、ジムに通うよりずっと良い運動になるわ! 肩こりも吹き飛びそう!」
のぶ子は完全に開眼していた。トングを振るう姿には一切の無駄がなく、もはや職人の域に達している。
一方、それを見守っていたシズエの心に、小さな火が灯っていた。
(あらあら……のぶちゃんたら、すっかりコツを掴んじゃって。でも……)
シズエは自分の買い物かごの中を見た。のぶ子のレジ袋には、すでに5本もの『極上出汁の素』が収められている。対して、今日のシズエはまだゼロだ。
(いくら友達とはいえ、主婦歴35年の私が、手ぶらで帰るわけにはいかないわよね……!)
シズエの目が、鋭く光った。
ライバル心――いや、主婦としてのプライドだ。スーパーのタイムセールで最後の1パックの牛肉を争う時の、あの研ぎ澄まされた集中力がシズエの全身を駆け巡る。
「のぶちゃん、ちょっと右側を頼むわね! 左の群れは私がいただくわ!」
「ええっ、シズエさん、群れって……あら嫌だ、3匹もいるじゃない!」
通路の奥から、体長が1.5メートルほどある大型のスライムを先頭に、3匹のスライムが蠢きながら迫ってきた。一般的な初心者パーティなら「一旦退却!」と判断する場面だ。
しかし、シズエの動きには一切の躊躇がなかった。
「関の孫六、三枚おろしの技……見せてあげるわ!」
シズエはタン、タンと軽やかなステップを踏み、手前のスライム2匹の突進を最小限の動作で回避。まるで狭い台所で効率よく調理家電を配置するかのように、自分とスライムの位置関係を瞬時にコントロールする。
「1匹目、皮を剥いて……!」
スッと滑り込ませたペティナイフが、スライムの核の継ぎ目を綺麗に断ち切る。
「2匹目、内臓を抜く!」
振り向ざまの逆手一閃。2匹目の核が綺麗に二つに割れ、消滅する。
そして残るは、最後に控えていた大型スライムだ。巨体を活かして、シズエの頭上から押し潰そうと覆いかぶさってきた。
「ちょっと大きめの大物ね……! でも、巨大なカボチャだって、包丁の背を叩けば一発なのよ!」
シズエは左手の買い物かごを斜めに掲げ、大型スライムの体体を受け止めた。ポリプロピレン製の頑丈な底面が、スライムの重圧を完璧に分散させる。
ズシンッ! と重い衝撃がシズエの腕に伝わるが、足腰の粘りは伊達ではない。3人兄弟の育ち盛りの男の子たちを腕一本で支えてきたベテラン主婦の体幹は、ビクともしなかった。
「ふんッ!!」
シズエは買い物かごを押し返し、大型スライムの体勢を崩させた。
むき出しになった巨大な核。シズエはペティナイフを順手に持ち替え、力強く、そして正確に、核の「中心点」へと突き刺した!
ズドンッ!!
軽快な音ではなく、ズシンと重い手ご応えとともに大型スライムが弾け飛ぶ。
あとに残されたのは、通常の小瓶の3倍はある、ズッシリとした極大サイズのガラス瓶だった。
【ドロップアイテム:濃縮プレミアム極上出汁(大スライムの核)】
「……あらッ!? これ、プレミアムですって!」
シズエが拾い上げた瓶には、神々しいまでの黄金色の液体が満ちていた。蓋を緩めると、先ほどまでの出汁とは比べ物にならないほど濃厚で、アゴ出汁や鯛出汁の旨味まで凝縮されたような、至高の香りが周囲一面に広がった。
「まあああっ! シズエさん、何それ!? すごくいい匂い!」
のぶ子がトングを握りしめたまま、目を輝かせて駆け寄ってくる。
「ふふん、どうやら大きいスライムからは『プレミアム』が出るみたいね。これなら、お正月の年越しそばや、お雑煮の出汁に使ったら最高だわ」
「いいわねぇ! 私の分も手伝って、もう何匹か大きいやつ探しましょうよ!」
「ええ、もちろんよ! 夕方のお迎えまでに、まだまだ時間はあるわ!」
さっきまでダンジョンを怖がっていたはずののぶ子と、ライバル心に火がついたシズエ。
ふたりは互いの戦利品を笑顔で見せ合いながら、トングとペティナイフを握り直し、さらなる「極上出汁」を求めて、ダンジョンの奥へと意気揚々と進んでいくのだった。
その頃、ダンジョンの外では――。
「おい……あのババァたち、入っていってからもう1時間以上出てこねえぞ……」
「マジで中で分解されてんじゃないのか……?」
何も知らない若手冒険者たちとギルド職員が、青ざめた顔でダンジョンの入口を見つめ、救助隊を呼ぶべきか真剣に頭を悩ませていたのだった。




