第9話 青と緑
第9話 青と緑
「今日は練習試合じゃない」
放課後。
大島が言った。
山口が露骨に残念そうな顔をした。
「なんだ」
「なんだとは何だ」
「筑浦二高じゃないんですか?」
「土曜」
「今日だと思ってました」
「まだ火曜だ」
「遠いなあ」
「三日だろ」
拓真が帯を締めながら笑う。
「お前、試合好きだな」
「楽しいじゃん」
「負けても?」
「悔しいけど楽しい」
山口はあっさり答えた。
拓真は少しだけ分かった。
自分も、
そうなり始めている。
*
練習。
最近、大島は拓真に同じことばかりさせる。
左。
距離を変える。
左。
一歩目を変える。
左。
止まってから左。
右を見せて左。
何もしないで左。
「先生」
「何」
「結局、全部左じゃないですか」
「そうだよ」
「右は?」
「やりたい?」
「……別に」
「じゃあ左」
「なんなんですか」
大島が笑った。
「今のお前は、できないことを十個増やすより、できることを一個増やしたほうがいい」
「一個しかないですけど」
「一個あるだろ」
「左」
「十分」
風呂が壁際から言った。
「高校一年の四月だぞ。十個も武器持ってたら気持ち悪いよ」
「先生、それ褒めてます?」
「褒めてる褒めてる」
「絶対適当だ」
*
反対側。
栞が山口を見ていた。
「山口」
「はい」
「また跳ねてる」
「動いてるんだよ」
「動きすぎ」
「風呂先生にも言われた」
「じゃあ直しなよ」
「すぐ直ったら苦労しないって」
山口は止まる。
その瞬間、
熊谷が入った。
「うわ!」
「止め」
大島。
「熊谷」
山口が頭を抱える。
「止まったら取られた!」
栞が言う。
「止まる場所が悪い」
「先に言ってよ!」
「自分で考えなよ」
「佐藤!」
山口が叫ぶ。
「金子が冷たい!」
拓真はミットを打ちながら答える。
「知ってる!」
「聞こえてるからね」
「はい!」
二人とも返事だけは速かった。
*
土曜日。
筑浦二高。
校門の近くに、
青と緑の学校旗があった。
山口が指を差す。
「ほんとだ」
青。
霞ヶ浦。
緑。
筑波山。
拓真が見る。
「なんか普通の高校だな」
「お前それ毎回言うな」
大島が後ろから言った。
「だって」
拓真が校舎を見る。
「兵学館みたいにでかくないし、城徳みたいにバスいっぱいあるわけでもないし」
自転車置き場。
部活へ向かう生徒。
グラウンド。
体育館。
ごく普通の県立高校。
「霞北と変わんないじゃん」
「そうだよ」
大島は答えた。
*
武道場へ向かう途中。
「大島!」
男の声。
大島が振り返る。
「宮本先生」
走ってきたのは、
三十歳くらいの若い教師だった。
「久しぶり」
「この前会ったじゃないですか」
「柳瀬先生のところで聞いただけだろ」
「それを会ったって言うんですよ」
宮本が笑う。
「相変わらず固いなあ」
「先生が適当なんです」
「お前、俺にそれ言う?」
拓真が山口へ囁く。
「知り合い?」
「俺に聞くなよ」
二人の声が聞こえたらしい。
宮本がこちらを見る。
「筑浦二高空手道部顧問、宮本文明です」
山口が反応する。
「文明?」
「ふみあきな」
即答だった。
「まだ何も言ってないです!」
「生徒に百回言われてるから分かる」
拓真が小声で、
「メソポタミア文明」
宮本が振り返る。
「ふみあきな」
「聞こえてる!」
山口が爆笑した。
*
「先生、何の先生ですか?」
山口が聞く。
「世界史」
「ああ!」
「その『ああ』は何だ」
「文明だから」
「ふみあきだっつってんだろ」
宮本は笑いながら大島の肩を叩いた。
「霞北、楽しそうじゃん」
「騒がしいだけですよ」
「いいじゃん。高校生なんてそのくらいで」
宮本が歩き出す。
大島も続く。
「宮本先生、こいつらの前で変なこと言わないでくださいよ」
「何を?」
「大学のこととか」
山口の耳が動いた。
「大学?」
「聞くな」
大島が即座に止める。
宮本が笑った。
「俺と大島、同じ大学」
「兵学館!?」
「そう」
「空手部?」
「そう」
「体育会?」
「そう」
山口が興奮する。
「先生は何だったんですか!」
「副将」
「副将!?」
拓真が大島を見る。
「先生、知ってたんですか?」
「そりゃ知ってるよ」
「一緒にやってた?」
宮本が首を振る。
「俺が八つ上」
「八つ!?」
山口が大島と宮本を交互に見る。
「見えない」
大島が言った。
「どっちがどう見えないんだよ」
「危ない質問だな」
宮本が笑った。
*
武道場。
筑浦二高の選手たちが準備している。
人数は、
城徳ほど多くない。
兵学館ほど独特でもない。
「普通だ」
拓真。
「だからそれやめろって」
山口。
ジャージも普通。
道着も普通。
特別大きな選手もいない。
全中王者もいない。
「なんか勝てそう」
山口が言った。
宮本が近くにいた。
「聞こえてるぞ」
「すいません!」
「まあ、そう見えるよな」
宮本は怒らなかった。
「うち、普通の県立だし」
拓真が聞く。
「推薦とかないんですか?」
「空手で?」
「はい」
「ないない」
宮本が手を振る。
「普通に受験して、普通に入ってきた連中」
「じゃあなんで強いんです?」
山口が聞いた。
宮本は少し考える。
「練習してるからじゃない?」
二人が黙った。
「……普通」
「普通だよ」
宮本が笑った。
*
壁には、
全身全霊
と書かれていた。
山口が読む。
「これが筑浦二高?」
「そう」
宮本が答える。
「学校全体で使ってる言葉だけど、空手部も好きで使ってる」
「全身全霊」
拓真も読む。
城徳。
鎧袖一触。
兵学館。
一念、岩をも通す。
筑浦二高。
全身全霊。
霞北。
「……全国制覇」
拓真が呟く。
小松崎が横で聞いていた。
「それは昔のやつ」
「ですよね」
「重いんだよ、あれ」
小松崎は少し笑った。
*
合同練習。
最初は基本。
拓真は筑浦二高を見た。
上手い。
でも、
城徳ほど圧倒的ではない。
兵学館ほど考え方が特殊でもない。
大島と宮本が何か話している。
風呂は今日は来ていない。
「いけそうじゃね?」
山口が言った。
「俺も思う」
栞が後ろから言う。
「そういうとき危ないよ」
「何が?」
「やれば分かる」
またそれだった。
*
練習試合。
山口が先。
相手は二年生。
「始め!」
山口が動く。
相手も動く。
山口が入る。
返される。
「青!」
「速っ」
もう一度。
山口が横へ。
相手が追う。
逃げる。
入る。
相手が待っている。
「青!」
山口が戻る。
「なんで?」
栞が言う。
「見られてる」
「何を?」
「全部」
「怖いこと言うなよ!」
*
拓真。
相手は三年生。
礼。
「始め!」
左。
外される。
右を見せる。
動かない。
一歩目を小さく。
反応しない。
「……」
今までの相手と違う。
何かすごい技をしているわけではない。
ただ、
引っかからない。
拓真が入る。
相手が半歩ずれる。
返す。
「青!」
もう一度。
拓真が待つ。
相手も待つ。
焦れた。
先に動く。
返される。
「青!」
「佐藤!」
大島の声。
「相手にやらされるな!」
分かっている。
でも、
どうすればいいか分からない。
*
ようやく一本。
左。
「赤!」
拓真が戻る。
「よし!」
だが次。
相手はもう、
その距離にいない。
「……またかよ」
兵学館でも感じた。
一回通じたものが、
次には通じない。
でも筑浦二高は、
もっと地味だった。
大きく変えたように見えない。
気づけば、
自分の得意なところから外されている。
試合終了。
負け。
*
熊谷も苦戦した。
身体の大きさを使おうと前へ出る。
筑浦二高の選手は正面に立たない。
神戸。
長い距離を使う。
相手は無理に追わない。
小松崎。
互角。
霞北が取る。
筑浦二高が返す。
一試合。
二試合。
三試合。
終わってみれば、
霞北は思っていたよりずっと負けていた。
*
休憩。
山口が床へ寝転がった。
「なんで?」
拓真も壁にもたれる。
「分かんね」
「城徳ほど速くない」
「うん」
「兵学館みたいな感じでもない」
「うん」
「なのになんで負けるんだよ」
栞がスポーツドリンクを飲みながら答えた。
「普通に上手いからじゃない?」
山口が起きる。
「普通に上手いって何?」
「全部そこそこできる」
「それ強いじゃん」
「だから強いんでしょ」
「……」
山口がまた寝た。
「なんか納得いかねえ」
拓真は笑った。
*
午後。
再び練習試合。
今度は大島が言った。
「一年は勝とうとしなくていい」
山口が聞く。
「じゃあ何するんです?」
「一試合で一個、試せ」
拓真を見る。
「佐藤」
「はい」
「今日は右でも蹴りでもない」
「じゃあ左?」
「左」
「結局左」
「ただし」
大島が指を一本立てる。
「自分から行かない時間を作れ」
拓真が首を傾げる。
「待つんですか?」
「待つんじゃない」
「じゃあ何です?」
「相手に来させる」
拓真は少し考えた。
*
二試合目。
相手は二年。
「始め!」
拓真は動かない。
相手を見る。
前足。
距離。
来ない。
いつもなら、
もう自分から入っている。
まだ。
相手が少し前へ。
まだ。
もう一歩。
来る。
拓真の身体が動いた。
左。
――パンッ!
「止め!」
旗。
赤。
「佐藤!」
一本。
拓真が開始線へ戻る。
今までの左とは、
少し違った。
自分が遠くから入ったんじゃない。
相手が、
自分の左が届く場所へ来た。
*
次。
また待つ。
今度は相手も来ない。
時間が過ぎる。
焦る。
行きたくなる。
我慢。
相手が動く。
拓真も動く。
今度は読まれた。
青。
「くそ」
簡単ではない。
でも、
何かがあった。
新しい技ではない。
左。
同じ左。
なのに、
使い方が違う。
*
試合は負けた。
戻る。
大島が聞く。
「どうだった?」
「難しい」
「だろうな」
「でも一本取れました」
「見てた」
「なんか」
拓真は考える。
「いつもより近かったです」
「何が?」
「相手が」
大島が頷いた。
「覚えとけ」
それだけだった。
*
練習終了。
両校が整列する。
「ありがとうございました!」
礼。
片づけ。
宮本が大島のところへ来る。
「一年、面白いじゃん」
「まだまだですよ」
「一年なんだから当たり前だろ」
宮本が拓真たちを見る。
「こっちも去年は酷かったぞ」
山口が聞きつける。
「そうなんですか?」
「酷い酷い」
筑浦二高の三年生が遠くから言う。
「先生、それ俺らの前で言います?」
「事実だろ」
「一年のときです!」
「だから言ってんだよ」
笑いが起きる。
宮本が山口を見る。
「こいつらも一年の春は全然勝てなかった」
「今強いのに?」
「二年練習したから」
また、
普通の答えだった。
*
帰る前。
柳瀬の話になった。
宮本が大島に言う。
「そういや柳瀬先生、元気だった?」
「元気でしたよ」
「相変わらず古典の話長い?」
「長いですね」
「四段取ったんだっけ」
「そうみたいです」
宮本が嫌な顔をした。
「また言われるなあ」
山口が食いつく。
「何がですか?」
「俺、三段だから」
「先生、三段なんですか?」
「そう」
「大島先生は?」
大島が逃げようとする。
「今それ関係ないだろ」
宮本が笑う。
「こいつは学生のころちゃんと審査受けてたからな」
山口が宮本へ聞く。
「先生はなんで受けないんですか?」
宮本は真顔で答えた。
「授業準備と部活で無理っす!」
一瞬の沈黙。
大島が吹き出した。
「先生が生徒に敬語使ってどうするんですか」
「本音だよ!」
宮本が笑う。
「世界史の授業作って、テスト作って、採点して、部活見て、土日大会行って、その間に自分の昇段審査の稽古?」
両手を上げる。
「無理!」
山口が妙に納得した。
「先生も大変なんだな」
「今さら?」
*
帰りのバス。
山口はすぐ眠った。
拓真は窓の外を見ている。
青い霞ヶ浦。
遠くに、
筑波山の緑。
そのままの色だった。
城徳には、
全国レベルの選手がいる。
兵学館には、
独特の育て方がある。
でも筑浦二高には、
特別な何かがあるようには見えなかった。
普通に入学して。
普通に部活へ来て。
普通に練習して。
一年。
二年。
三年。
それだけで、
あんなに強くなる。
拓真は自分の左手を見る。
まだ入部したばかり。
だったら。
「……時間はあるか」
「あるよ」
隣から声。
栞だった。
「起きてたの?」
「寝てないけど」
「聞こえてた?」
「普通に」
少し恥ずかしい。
栞が窓の外を見る。
「一年生だもん」
「うん」
「まだ四月だし」
「うん」
拓真も外を見る。
まだ四月。
高校生活は、
始まったばかりだった。
第9話 青と緑 了




