第10話 負けた
第10話 負けた
大会前日。
「明日、何時集合だっけ?」
山口が聞いた。
「七時」
拓真が答える。
「早っ」
「今さら?」
「休日の七時は早いだろ」
「試合だぞ」
「分かってるけど」
二人は武道場の床に座って防具を鞄へ詰めていた。
かなが名簿を確認している。
「拳サポーター」
「入れた」
「帯」
「入れた」
「マウスピース」
山口が止まった。
「……」
かなが顔を上げる。
「山口?」
「あります」
「今の間なに?」
「あります!」
鞄をひっくり返す。
タオル。
着替え。
ペットボトル。
菓子。
「お前、遠足かよ」
拓真が言う。
「糖分は大事だろ」
「あった!」
底からマウスピースケース。
かながため息をついた。
「今日確認してよかった」
「ありがとうございます!」
拓真は笑った。
*
少し離れたところ。
小松崎が一人で座っていた。
頭からタオルをかぶっている。
「先輩、何してるの?」
山口が聞く。
熊谷が止めた。
「今話しかけないほうがいい」
「寝てるんですか?」
「集中してる」
「へえ」
タオルの中から小松崎の声。
「聞こえてるぞ」
「すいません!」
神戸が笑った。
「試合前いつもあれ」
「ルーティン?」
「たぶん」
山口が感心する。
「俺も何か作ろうかな」
拓真が言う。
「お前ジャンプするじゃん」
「あれはなんとなく」
「それでいいだろ」
山口が拓真を見る。
「お前は?」
「何が」
「試合前」
「別にない」
「作ろうぜ」
「いらない」
「左手にキスするとか」
「絶対やらねえ」
「かっこいいのに」
「お前がやれ」
「俺右利きだし」
「そういう問題じゃねえよ」
*
翌朝。
会場。
春季大会。
拓真は入口で立ち止まった。
「人、多いな」
体育館の中。
道着。
ジャージ。
学校旗。
横断幕。
声。
笛。
床を踏む音。
練習試合とは違う。
城徳の黒。
兵学館の白。
筑浦二高の青と緑。
全部いる。
そして霞北の赤。
「来たな」
山口が言った。
「何が?」
「大会」
「見れば分かる」
「もっとテンション上げろよ」
「緊張してんだよ」
山口が笑った。
「してんじゃん」
「してるよ」
今日は否定しなかった。
*
受付。
計量。
確認。
アップ。
全部が慌ただしい。
かなが選手を集める。
「山口、次こっち」
「はい!」
「佐藤、ゼッケン曲がってる」
「え?」
栞が直す。
「動かないで」
「自分でできる」
「曲がってるからやってるの」
「はい」
大島は大会本部と話している。
風呂は今日は観客席。
前へ出てこない。
拓真は周囲を見る。
知らない高校。
知らない選手。
でも、
城徳だけは分かる。
加藤正輝がいた。
黒いジャージ。
向こうも一年生。
なのに、
周囲の何人かが彼を知っている。
「加藤だ」
そんな声が聞こえる。
拓真は少しだけ見た。
加藤は、
普通に靴紐を結んでいた。
*
「佐藤」
小松崎の声。
「はい」
「人見すぎ」
「……はい」
「自分の試合だけ考えろ」
小松崎はそう言って、
体育館の隅へ行く。
座る。
タオルを頭からかぶる。
外を遮断する。
山口が見ている。
「かっこいいな」
「真似すんなよ」
「しないよ」
山口はその場で一度、
高く跳んだ。
膝を胸へ引きつける。
「結局やるんじゃん」
「なんとなく気持ちが上がる」
「知ってる」
「佐藤も跳ぶ?」
「やらねえ」
*
個人戦。
山口が先に呼ばれた。
「行ってきます!」
「おう」
「山口」
大島が呼ぶ。
「はい」
「動いていい。でも、動かされるな」
山口は少し考えた。
「はい」
試合場へ。
礼。
「始め!」
拓真は外から見る。
速い。
山口が動く。
相手も追う。
山口が止まる。
相手が入る。
返す。
「赤!」
「よし!」
霞北から声。
次。
山口が焦って動きすぎる。
取られる。
「青!」
一進一退。
最後。
一点差。
山口が逃げない。
相手が来る。
山口も入る。
「止め!」
旗。
赤。
終了。
山口が勝った。
*
戻ってきた山口が、
小さく拳を握った。
「勝った」
「見てたよ」
拓真が笑う。
「公式戦一勝」
「練習試合とは違う?」
「全然違う」
「何が?」
「知らん!」
「知らんのかよ」
「でも違う!」
山口は嬉しそうだった。
*
次。
「佐藤拓真」
呼ばれた。
心臓が跳ねた。
「はい」
立つ。
赤帯を持つ。
手が少し震えている。
栞が気づく。
「緊張?」
「寒い」
「今日は暖かいよ」
「じゃあ緊張」
「素直になったね」
「うるさい」
帯を締める。
うまく締まらない。
やり直す。
また緩い。
「貸せ」
熊谷が来た。
「え?」
反対側から神戸。
「締めるぞ」
「いや、自分で――」
二人が左右から引いた。
「ぐっ!」
「お前にはまだ早いな」
熊谷が笑う。
「これ先輩がやられてるやつでしょ!」
「熊谷ほど締めてない」
神戸が言う。
「死ぬかと思った」
「大げさ」
少しだけ、
緊張が抜けた。
*
大島が拓真を見る。
「佐藤」
「はい」
「今日は何で取る?」
「左」
「よし」
それだけ。
栞が言う。
「審判」
「見えるところ」
「距離」
「見る」
「焦ったら?」
拓真は少し考えた。
「……左」
栞が笑った。
「まあいいか」
小松崎はタオルを外していた。
「佐藤」
「はい」
「行ってこい」
「はい」
試合場へ。
*
礼。
相手は二年生。
知らない高校。
知らない選手。
でも、
強そうに見える。
「始め!」
相手が動く。
拓真も動く。
遠い。
まだ。
一歩。
来る。
左。
外れる。
返される。
「青!」
一点。
開始線。
「始め!」
拓真は右を見せる。
反応しない。
左。
浅い。
続行。
「見せろ!」
栞の声。
位置。
審判。
拓真が動く。
相手が来る。
左。
――パンッ!
「止め!」
旗。
赤。
「赤!」
一本。
拓真は拳を引く。
「よし」
*
次。
相手も左を警戒する。
距離を外す。
拓真が追う。
逃げる。
また追う。
「追うな!」
大島。
止まる。
相手が来る。
左。
ほぼ同時。
「止め!」
旗。
青。
相手。
「くそ」
戻る。
*
残り時間。
点差は小さい。
取れる。
そう思った。
練習試合でも、
こういうところから取った。
相手が来る。
拓真も出る。
左。
相手が少しだけ先。
「青!」
差が開く。
「まだ!」
山口の声。
拓真は構える。
「始め!」
行く。
左。
外れる。
また左。
今度は当たる。
「止め!」
赤。
「よし!」
まだある。
もう一本。
「始め!」
相手が下がる。
拓真が追う。
遠い。
それでも行く。
左。
届かない。
相手が返す。
「止め!」
青。
時間。
*
「それまで!」
終わった。
拓真は一瞬、
点数を見た。
負け。
礼。
「ありがとうございました」
相手と握手。
試合場を出る。
何も起きなかった。
練習試合のときみたいに、
「一本取れた」
とは思わなかった。
左は通じた。
二本取った。
でも。
負けた。
それだけだった。
*
「お疲れ」
山口が来る。
拓真は防具を外す。
「うん」
「惜しかったな」
「うん」
「左、入ってたじゃん」
「うん」
「……」
山口が困った。
拓真は座る。
「水」
かなが差し出した。
「ありがとう」
飲む。
栞が隣に座る。
何も言わない。
拓真が先に言った。
「取れたんだけどな」
「うん」
「二本」
「うん」
「でも負けた」
「うん」
それしか言わなかった。
拓真は膝を抱えた。
*
少しして。
「佐藤」
大島が来た。
「はい」
「どうだった?」
「負けました」
「見てた」
「じゃあ聞かないでくださいよ」
「なんで負けた?」
拓真は少しムッとした。
「相手のほうが点取ったから」
「そうだな」
「……」
「それでいいよ、今日は」
大島はそれ以上言わなかった。
「悔しい?」
「……はい」
「じゃあ覚えとけ」
「何を?」
「今の感じ」
大島は次の試合場へ行った。
*
霞北の試合は続く。
熊谷。
勝つ。
神戸。
接戦。
勝つ。
小松崎。
落ち着いている。
勝つ。
山口は二回戦。
負けた。
戻ってきた。
今度は、
さっきまでの笑顔がなかった。
拓真の隣に座る。
「負けた」
「見てた」
「一本取った」
「俺二本」
「うるせえ」
「でも負けた」
「うん」
二人で黙った。
*
向こうの試合場。
歓声。
加藤正輝。
速い。
一本。
また一本。
勝つ。
次。
また勝つ。
山口が見る。
「同じ一年なんだよな」
「うん」
「腹立つな」
「本人何もしてないだろ」
「強いのが腹立つ」
「無茶苦茶だな」
でも、
拓真も少しだけ同じ気持ちだった。
*
城徳。
兵学館。
筑浦二高。
強い選手たちが残る。
霞北も、
小松崎たちは残っている。
自分たち一年だけ、
先に試合が終わった。
それが悔しかった。
*
昼。
拓真は観客席の端にいた。
食欲がない。
山口は普通に弁当を食べている。
「お前よく食えるな」
「腹減ったし」
「切り替え早すぎ」
「負けたら飯食わないの?」
「そういうわけじゃないけど」
「じゃあ食えよ」
山口が唐揚げを一個差し出す。
「いらん」
「うまいぞ」
「自分の食え」
「じゃあ食う」
本当に食べた。
拓真は笑ってしまった。
「何笑ってんだよ」
「別に」
少し腹が減った。
*
午後。
拓真は試合を見る。
さっきまでとは違った。
負けたから、
暇になった。
だから見る。
小松崎。
熊谷。
神戸。
城徳。
兵学館。
筑浦二高。
加藤。
一試合ずつ。
何が違う。
距離。
足。
タイミング。
審判。
試合運び。
残り時間。
点差。
勝っているとき。
負けているとき。
同じ一本でも、
意味が違う。
*
栞が横へ来た。
「見るようになったね」
「暇だから」
「それでも」
拓真は試合場を見る。
「俺さ」
「うん」
「最後、なんで追ったんだろ」
「勝ちたかったからじゃない?」
「でも追ったら、俺の距離じゃない」
「うん」
「相手のところに突っ込んでた」
栞が少し笑った。
「自分で分かってるじゃん」
「今分かった」
「じゃあ次」
「次?」
「次はやらなきゃいい」
簡単に言う。
拓真は少し考えた。
「次か」
「大会、今日で終わりじゃないでしょ」
「まあ」
「高校空手も今日で終わりじゃない」
拓真は試合場を見る。
「……そうだな」
*
大会終了。
霞北の選手たちが荷物をまとめる。
拓真は最後に試合場を見た。
朝より、
少し小さく見えた。
帰り。
体育館を出る。
山口が横を歩く。
「なあ」
「何」
「次は勝とうぜ」
「うん」
「俺も」
「うん」
「お前も」
拓真が山口を見る。
「分かってるよ」
二人は外へ出た。
*
霞ヶ浦へ向かう夕方の空。
赤い。
拓真は自転車を漕ぐ。
高校最初の公式戦。
二本取った。
左も通じた。
手応えもあった。
それでも。
結果を聞かれれば、
答えは一つしかない。
負けた。
だから、
次は勝ちたい。
驚くほど単純な理由で、
明日も武道場へ行くことが決まった。
第10話 負けた 了




