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一撃の夏  作者: 西野照星
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第5話 風呂英祥

第5話 風呂英祥


五日目の放課後。


「こんにちは」


拓真が武道場へ入った。


「おう」


熊谷が返す。


「五日――」


「数えるな」


神戸が言い終わる前に止めた。


山口はもう道着に着替えている。


「遅いぞ、見学」


「お前その呼び方やめろ」


拓真は鞄を置いた。


今日は何も言われる前に道着を出す。


栞がそれを見た。


「自然になったね」


「何が」


「着替えるの」


「体験だから」


「はいはい」


「その返事腹立つな」


いつもの武道場だった。


小松崎は一人で基本。


熊谷と神戸は防具を出す。


かなはノートを開く。


大島は――


「ん?」


拓真が見る。


入口で、誰かと話していた。


年配の男だった。


     *


ジャージ。


手には小さな鞄。


白髪も混じっている。


どう見ても教師ではない。


男は武道場へ入ると、


「どうも」


と軽く手を上げた。


山口が拓真へ小声で聞く。


「誰?」


「知らん」


「先生?」


「知らん」


「OB?」


「だから知らん」


「お前五日いるのに?」


「五日しかいねえよ」


大島が手を叩いた。


「集合」


全員が集まる。


拓真と山口も並んだ。


「紹介する」


大島が男を見る。


「風呂英祥先生」


男が片手を上げる。


「どうも」


山口が小声で言った。


「ふろ?」


拓真が肘で突く。


「聞こえるぞ」


「珍しい名字だなって」


「お前思ったこと全部言うのやめろ」


風呂は聞こえていた。


「珍しいだろ」


山口が固まる。


「すいません!」


「別に謝らなくていいよ」


笑っている。


大島が続けた。


「霞北の元教員で、空手部の――」


風呂が遮った。


「昔ちょっと手伝ってた」


「ちょっと?」


大島が言う。


「ちょっとだよ」


「先生、それで通します?」


「通るだろ」


拓真は山口を見る。


山口も拓真を見る。


よく分からない。


     *


練習が始まった。


風呂は何もしなかった。


腕を組むでもない。


偉そうに中央へ座るでもない。


壁際に腰を下ろして、


ただ見ている。


十分。


二十分。


何も言わない。


山口が小声で言った。


「ほんとに見てるだけだな」


「お前も前見ろ」


「佐藤」


大島の声。


「はい!」


「喋るな」


「山口もです!」


「お前が返事するな!」


熊谷が笑った。


     *


ミット。


拓真の番。


左。


――パンッ!


もう一度。


――パンッ!


「佐藤」


大島が言う。


「もう少し遠くから」


「はい」


距離を取る。


踏み込む。


左。


――パンッ!


「うん」


大島が頷いた。


「今の距離」


拓真が戻ろうとする。


「坊主」


風呂が初めて声を出した。


拓真が振り向く。


「……俺ですか?」


「お前」


「佐藤です」


「そうか、佐藤」


風呂が手招きする。


拓真が近づいた。


「何年?」


「一年です」


「空手は?」


「小一から小五まで」


「で、やめた?」


「野球やってました」


「左利き?」


「はい」


風呂が頷いた。


「なるほど」


それだけ。


拓真が待つ。


何も言わない。


「……何ですか?」


「何が?」


「呼んだじゃないですか」


「見たかっただけ」


「何を?」


「近くで」


「だから何を?」


風呂は笑った。


「せっかちだな、お前」


拓真は釈然としないまま戻った。


     *


次は山口。


軽快に動く。


ミット。


ステップ。


またミット。


風呂は何も言わない。


熊谷。


神戸。


小松崎。


一通り見た。


それでも何も言わない。


休憩。


山口が水を飲みながら拓真へ囁く。


「何しに来たんだろ」


「知らん」


「空手詳しいのかな」


「元空手部なんじゃない?」


「昔ちょっと手伝ってたって」


栞が横から言う。


「信じたの?」


二人が振り向く。


「何?」


山口が聞く。


栞は答えない。


「そのうち分かるんじゃない」


「またそれ?」


拓真が言う。


「この部、説明してくれない人多すぎない?」


     *


後半。


組手。


熊谷と山口。


「始め」


熊谷が前へ出る。


山口が下がる。


大きい。


山口が左右へ動く。


熊谷が追う。


山口が飛び込む。


「止め」


大島。


「山口」


「よし!」


次。


今度は熊谷。


「熊谷」


その次。


また山口。


風呂が言った。


「大島」


「はい」


「止めていい?」


大島が頷いた。


「お願いします」


風呂が立った。


「山口」


「はい!」


「お前、速いな」


「ありがとうございます!」


「でも速いから動きすぎる」


山口が止まる。


「動きすぎ?」


「お前が三回動いてる間に、熊谷は一回しか動いてない」


熊谷を見る。


「熊谷」


「はい」


「お前は身体がでかいからって、でかい空手しようとしすぎ」


「……はい」


「二人とも逆だ」


風呂が言った。


「山口は止まってみろ。熊谷は小さく動いてみろ」


二人が顔を見合わせる。


「やってみ」


再開。


     *


変わった。


ほんの少し。


山口が無駄に跳ねない。


熊谷が大きく追わない。


「始め」


間ができる。


山口が入る。


熊谷が小さくずれる。


返す。


「止め。熊谷」


「あ」


山口が声を出した。


「今、全然違う」


熊谷も自分の足を見る。


風呂はもう座っていた。


「それでいい」


拓真が見る。


さっきまで、


ただのおじさんだと思っていた。


     *


「次、小松崎と佐藤」


大島が言った。


「はい」


拓真が立つ。


「見学なのに?」


山口が言う。


「うるせえ」


小松崎と向かい合う。


もう三度目だ。


それでも強い。


「始め」


拓真は左を狙う。


小松崎は知っている。


簡単には入れない。


右を見せる。


動かない。


蹴りを見せる。


やっぱり動かない。


「くそ」


焦る。


小松崎が入る。


「止め。小松崎」


もう一度。


左。


読まれる。


「小松崎」


三本目。


また左。


届かない。


「小松崎」


風呂が言った。


「佐藤」


「はい」


「お前、左しかないの?」


「……今のところ」


「じゃあ左でいいじゃん」


拓真が振り向く。


「でも先輩、もう分かってます」


「分かってても取ればいいだろ」


「そんな簡単に――」


「簡単じゃないよ」


風呂が笑った。


「だから練習するんだろ」


拓真は黙った。


「いろんな技を覚えるのは後でもできる」


風呂が自分の左手を軽く出した。


「今あるもので取れ」


大島が少し笑った。


拓真は構え直した。


     *


「始め」


左。


やっぱり外される。


「小松崎」


もう一度。


左。


取られる。


「小松崎」


「全然ダメじゃん……」


風呂が言う。


「いいよ」


「どこがですか」


「今、迷わなかった」


「でも取られてます」


「結果は後」


拓真は息を整える。


小松崎を見る。


どうせ左しかない。


なら。


左を当てる方法だけ考える。


距離。


タイミング。


前足。


小松崎が動く。


拓真は行かなかった。


もう一度。


小松崎の前足。


今度。


踏み込む。


一歩。


もう一歩。


左。


――パンッ!


「止め!」


大島。


「佐藤」


拓真が拳を引く。


小松崎が笑った。


「今のは嫌だな」


風呂が言った。


「ほら」


拓真は少しだけ笑った。


     *


練習後。


全員で床を拭く。


風呂も雑巾を持った。


山口が慌てる。


「先生、俺やりますよ!」


「いいよ」


「いやいや」


「昔からやってるから」


「先生も雑巾がけしてたんですか?」


「そりゃするよ」


風呂は普通に床を拭いていく。


その横で山口が聞いた。


「風呂先生って、霞北で空手やってたんですよね?」


「まあね」


「強かったんですか?」


「俺?」


風呂が笑う。


「俺は選手じゃないよ」


「じゃあ何してたんです?」


「顧問」


山口が止まる。


「監督?」


「そんな時期もあったな」


拓真が聞く。


「霞北って昔強かったんですか?」


風呂の手が一瞬止まった。


それから、


「昔は昔だよ」


とだけ言った。


     *


片づけが終わる。


風呂は大島と話していた。


拓真と山口は着替える。


「なあ」


山口が言った。


「何」


「あの先生、絶対なんかあるよな」


「何が」


「昔ちょっと手伝ってた人じゃないだろ」


「まあ」


栞が通りかかる。


「何話してるの?」


山口が聞く。


「風呂先生って何者?」


栞が少し考える。


「知らないなら、自分で調べれば?」


「どうやって?」


「部室に昔のもの、いっぱいあるでしょ」


拓真と山口が顔を見合わせた。


「部室?」


「そっち」


栞が武道場の奥を指差した。


古い扉。


今まで気にしたこともなかった。


     *


「開かない」


山口が引っ張る。


「押すんじゃね?」


拓真が押す。


開かない。


「鍵?」


「かな先輩!」


「はいはい」


かなが鍵を持ってくる。


「何するの?」


「ちょっと歴史研究」


「急に?」


鍵を開ける。


扉を押した。


埃っぽい空気。


古い防具。


ミット。


壊れたトロフィー。


色褪せた写真。


段ボール。


壁には、


古い木の札が立てかけられていた。


常勝。


その隣。


必勝。


さらに奥。


全国制覇。


山口が止まった。


「……全国制覇?」


拓真も読む。


「これ、霞北?」


「そう書いてある」


「マジ?」


かなが奥の棚を指差した。


「アルバムもあるよ」


山口が一冊引っ張り出す。


重い。


机に置く。


拓真と二人で開いた。


古い新聞記事。


白黒写真。


道着姿の高校生たち。


そして大きな見出し。


『霞北、県大会五連覇』


ページをめくる。


『霞北野武士旋風 全国でも止まらず』


次。


『赤き野武士軍団、全国ベスト4』


「……え」


山口の手が止まった。


次のページ。


記事が大きい。


『霞北、悲願の全国制覇』


その下。


『赤き野武士軍団、雪辱果たす』


写真の中央に、


若い男がいる。


今より髪が多い。


顔も若い。


けれど、


分かる。


山口が写真を指差した。


「……風呂先生じゃん」


記事には、


はっきり書いてあった。


風呂監督。


拓真はもう一度、


壁に立てかけられた札を見る。


全国制覇。


「昔ちょっと手伝ってたって……」


山口が呟く。


拓真が答えた。


「嘘じゃん」


     *


二人が部室から出る。


武道場では、


風呂が帰ろうとしていた。


「先生!」


山口が呼び止める。


「ん?」


山口は何か言おうとした。


全国制覇。


県大会五連覇。


赤き野武士軍団。


聞きたいことはいくらでもある。


けれど。


風呂は普通のジャージ姿で、


普通の鞄を持っていた。


「……また来ます?」


山口が聞いた。


風呂は笑った。


「大島が嫌だって言わなければな」


大島が言う。


「言うわけないでしょう」


「じゃあ、また来るよ」


風呂は手を上げた。


「お疲れさん」


「お疲れさまでした!」


全員が頭を下げる。


風呂は武道場を出ていった。


     *


夕暮れ。


霞ヶ浦から風が吹く。


拓真はもう一度、


部室のアルバムを開いた。


古い写真。


赤い横断幕。


高校生たちの笑顔。


今と同じ道着。


今と同じ武道場。


でも、


知らない霞北だった。


山口が隣で言う。


「すげえ学校だったんだな」


拓真は記事を見る。


そして壁の札を見る。


全国制覇。


「……だった、な」


今の霞北には、


小松崎がいる。


熊谷がいる。


神戸がいる。


山口が入った。


栞がいる。


かながいる。


大島がいる。


そして。


まだ入部していない自分がいる。


拓真はアルバムを閉じた。


昔の霞北は、


全国で一番になったことがある。


その事実を知ったところで、


明日から急に強くなるわけじゃない。


けれど。


自分たちが毎日立っている床が、


昨日までとは、


ほんの少し違って見えた。


第5話 風呂英祥 了

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