第4話 金子栞は戦えない
第4話は栞を「かわいそうな怪我人」にせず、戦えないのに誰より空手を見ている一年生として立たせます第4話 金子栞は戦えない
四日目。
「おはよう」
教室に入ってきた山口が、拓真の机の横で止まった。
「おはよ」
「それ何?」
拓真の机の横に紙袋がある。
「道着」
「持ってきたんじゃん」
「返すため」
「洗った?」
「洗った」
「じゃあ今日も着れるな」
「返すためだって言ってんだろ」
山口が笑う。
「四日目の見学、頑張ろうぜ」
「お前ほんと腹立つな」
拓真は紙袋を机の下へ押し込んだ。
*
放課後。
「こんにちは!」
山口が武道場へ入る。
「こんにちは」
拓真も続く。
大島が時計を見る。
「佐藤、四日目」
「数えるのやめてください」
「道着は?」
拓真は紙袋を差し出した。
「洗ってきました」
「ありがとう」
「じゃあ――」
帰ります。
そう言うつもりだった。
大島が袋から道着を出して、そのまま拓真へ返した。
「はい」
「なんで?」
「今日使うだろ」
「いや」
「使わないの?」
「……」
山口が横から言う。
「使うよな」
「お前に聞いてない」
栞がノートから顔を上げる。
「着替えたら?」
「なんで全員、俺が入る前提なんだよ」
熊谷が笑った。
「だって四日来てるし」
神戸が言う。
「もう俺より出席率いいんじゃない?」
「先輩はちゃんと来てくださいよ!」
結局、拓真は道着を持って更衣へ向かった。
*
その日の練習。
山口はよく動く。
「山口、前出すぎ」
大島の声。
「はい!」
「返事じゃなくて戻れ!」
「はい!」
「だから返事より先に戻れ!」
熊谷が笑う。
拓真も笑った。
その横で、
「佐藤」
栞の声。
「何?」
「笑ってる場合じゃない。左出すとき肩上がってる」
「……はい」
ミットへ向き直る。
左。
――パンッ!
「今のはいい」
「お前、ずっと見てるな」
「見てるから」
「自分の練習しなくて暇なの?」
口に出してから、
少しまずかったか、
と思った。
けれど栞は普通に答えた。
「そうとも言える」
「え」
「だから見てる」
それだけだった。
*
休憩。
山口が水を飲みながら、栞の横へ座った。
「金子」
「何?」
「空手どのくらいやってんの?」
「五歳から」
山口がむせた。
「長っ!」
「普通じゃない?」
「普通ではないだろ」
拓真も寄ってくる。
「俺より全然長い」
「佐藤は途中でやめてるし」
「やめたんじゃなくて野球に――」
「それをやめたって言うんじゃない?」
「……はい」
山口が聞いた。
「段は?」
「二段」
今度は拓真が反応した。
「二段?」
「うん」
「中学で?」
「うん」
「じゃあ普通に強いじゃん」
栞は答えなかった。
山口が続ける。
「高校で三段?」
少し間があった。
「そのつもりだった」
その言い方だけ、
今までと違った。
拓真が栞を見る。
「だった?」
「怪我してるから」
「どこ?」
栞は自分の脚を軽く叩いた。
「今はまともに試合できない」
「いつから?」
「中学」
「そんな長いの?」
「長いね」
本人が一番あっさり言った。
そこへ大島が来た。
「休憩終わり」
「はい!」
山口が立つ。
拓真も立った。
栞だけが座ったままノートを開いた。
*
組手練習。
拓真と山口。
「始め」
山口が先に動く。
速い。
拓真は左を狙う。
山口も昨日一日で学んでいる。
簡単には入らせない。
拓真が遠間から踏み込む。
山口が外れる。
そのまま返す。
「山口」
大島が止めた。
「くそ」
「お前、左分かりやすくなってきたぞ」
山口が笑う。
「だってそればっかり狙ってるじゃん」
「うるせえ」
「もう一回!」
再開。
拓真は右を見せた。
山口が反応する。
左。
届かない。
また山口。
「山口」
「っしゃ!」
「もう一本!」
「佐藤」
栞が呼んだ。
「何?」
「山口じゃなくて、そっち見て」
指を差す。
拓真から見て右。
「何がある?」
「大島先生」
少し離れた位置にいる。
「先生に見せて」
「は?」
「今の左、私からは入ってるように見える。でも先生からは山口の身体に隠れてる」
「……」
「試合なら、入ってても取ってもらえないかもしれない」
拓真が大島を見る。
大島が頷いた。
「やってみろ」
「どうすんの?」
「自分で考えなよ」
「そこ教えてくれないの?」
「試合中、私は入れないから」
拓真は少し考えた。
立ち位置。
山口。
審判。
自分。
今まで、相手しか見ていなかった。
「もう一回」
拓真が言った。
*
「始め」
今度は少し位置を変えた。
山口が前へ来る。
右を見せる。
山口が動く。
左。
――パンッ!
「止め!」
大島の手が上がる。
「佐藤」
「よし!」
初めて声が出た。
山口が振り返る。
「今のうまい」
「だろ?」
「金子に教えてもらったくせに」
「うるせえ」
栞はもう次を見ていた。
熊谷と神戸の組手。
「神戸先輩、今の中段、先生から見えにくいです」
「マジ?」
「たぶん」
「じゃあ位置変える」
熊谷が言う。
「俺は?」
「今のは普通に遅かったです」
「そっち?」
笑いが起きた。
拓真は栞を見る。
戦っていない。
なのに、
ずっと試合の中にいる。
*
練習が終わったあと。
山口が言った。
「金子」
「何?」
「ちょっとやってみせてよ」
「何を?」
「空手」
栞の手が止まった。
「無理」
「組手じゃなくていいから」
「山口」
大島が止めようとする。
だが山口は悪気なく続けた。
「だって二段なんだろ? どんな感じなのか見たい」
栞が少し考えた。
「一発だけなら」
「できるの?」
拓真が聞く。
「立って打つくらいなら」
栞は立った。
道着ではない。
制服のまま。
靴下を脱ぐ。
武道場の床へ足を置く。
「先生、ミット貸してください」
大島が少し迷う。
「無理するなよ」
「しません」
ミットを受け取った山口が構える。
「俺持つ!」
「ちゃんと持ってよ」
「任せろ」
栞が距離を取った。
拓真は壁際から見る。
さっきまでノートを持っていた女子。
同じ一年。
怪我をして、
練習にも参加していない。
構える。
その瞬間。
拓真の表情が変わった。
「……」
違う。
さっきまでと全然違う。
長い手足。
力んでいない。
静かだった。
山口も笑うのをやめた。
「いくよ」
栞が言った。
*
一歩。
軽い。
ほとんど音がしない。
次の瞬間。
脚が上がった。
「え」
拓真の目の高さを、
足先が通った。
――パンッ!
山口の持ったミットが鳴る。
回し蹴り。
速い。
というより、
遠い。
拓真が思っていた場所より、
ずっと外から届いた。
「うおっ!」
山口が目を丸くする。
「もう一回!」
「一発って言ったでしょ」
「今のもう一回見たい!」
「嫌」
栞はすぐ構えを解いた。
「ケチ!」
「怪我人に何言ってんの」
栞が一歩戻る。
そのとき。
ほんの少しだけ、
顔が曇った。
足をかばった。
一瞬だった。
でも拓真は見た。
大島も見ていた。
「金子」
「大丈夫です」
「今日は終わり」
「はい」
反論しなかった。
栞は靴下を履き直す。
さっきの蹴りが嘘みたいに、
また普通の一年生へ戻った。
*
「……強いじゃん」
帰り支度をしながら、拓真が言った。
栞が振り向く。
「何が?」
「空手」
「昔はね」
「今だって蹴れてたじゃん」
「一発だけ」
「じゃあ治ったらやればいいじゃん」
栞が少し黙った。
「そう簡単じゃないよ」
「なんで?」
「治るって、何?」
拓真は答えられなかった。
「走れること?」
栞が言う。
「蹴れること?」
鞄を持つ。
「練習できること?」
少し笑った。
「全国大会で何試合も戦えること?」
拓真は黙った。
栞は明るく続けた。
「だから今は、できることやってる」
ノートを持ち上げる。
「見ることならできるし」
かなが声をかける。
「栞、これお願い」
「はーい」
栞はそちらへ行った。
話はそれで終わった。
*
帰り道。
山口が自転車を押しながら言った。
「金子、すげえな」
「うん」
「俺、普通に試合してみたい」
「やめとけよ」
「治ったら」
拓真は少し考えた。
「……どうなんだろうな」
「何が?」
「治るって」
山口も黙った。
二人とも、
十五歳だった。
怪我をして、
時間をかけて、
元に戻らないかもしれない。
そんなことを、
まだうまく理解できなかった。
*
翌日。
拓真が武道場へ入る。
「こんにちは」
「おう」
熊谷が答える。
「五日目」
神戸が言う。
「数えんなよ」
拓真は鞄を置いた。
そして、
自分から道着を取り出した。
栞がそれを見る。
「今日は『見学』って言わないんだ」
「……」
拓真は少し考えた。
「体験」
「まだ?」
「まだ」
「ふーん」
栞が笑う。
拓真は帯を締めた。
その向こうで、
山口はもう準備運動を始めている。
小松崎がミットをつける。
熊谷と神戸がふざけながら防具を出す。
かなが記録用のノートを開く。
大島が時計を見る。
そして栞は、
今日もその全部を見ていた。
戦えない。
だから、
空手から離れる。
そういう選び方もあった。
けれど金子栞は、
まだここにいた。
第4話 金子栞は戦えない 了




