第2話 見学二日目
第2話 見学二日目
翌日の放課後。
佐藤拓真は武道場の前にいた。
昨日とは違う。
今日は道に迷っていない。
教室を出て。
階段を下りて。
渡り廊下を抜けて。
体育館の裏まで、
最短距離で来た。
「……」
扉を見る。
昨日は偶然だった。
今日は違う。
「見学だからな」
誰に言うでもなく呟く。
扉を開けた。
*
「こんにちは」
「お」
最初に気づいたのは、昨日の大男だった。
「ほんとに来た」
「見学です」
「誰も聞いてないけど」
昨日も似たようなことを言われた。
もう一人の長身が振り返る。
「道着は?」
「持ってくるわけないでしょ」
「じゃあ貸してもらえば?」
「なんで練習する前提なんですか」
二人が笑う。
拓真は靴を脱いだ。
「そういや、名前聞いてませんでした」
「ああ」
大男が自分を指した。
「熊谷。二年」
その隣。
「神戸。同じく二年」
「佐藤です。一年」
「知ってる」
「昨日聞いてたから」
「じゃあ俺だけ知らなかったんじゃん」
道場の奥から声が飛んできた。
「佐藤」
「はい」
小松崎だった。
「来たな」
三年生。
昨日、拓真の左を「速い」と言った人だ。
「見学です」
「そうか」
それだけ言って、小松崎は練習へ戻った。
なんだか、それが一番恥ずかしかった。
*
壁際へ行く。
昨日の女子二人もいた。
「本当に来た」
金子栞が言った。
「見学」
「分かった分かった」
「絶対分かってないだろ」
もう一人の女子が笑った。
「そういえば、ちゃんと自己紹介してなかったね」
「そうですね」
「かな。よろしく」
「佐藤拓真です」
「知ってる。昨日先生が何回も呼んでたから」
かなは練習記録のノートを開いていた。
飲み物や救急用品も彼女の周りにまとまっている。
拓真が聞いた。
「マネージャーですか?」
「うん」
「金子も?」
「違う」
栞が即答した。
「じゃあ何してんの?」
「いろいろ」
「一番困る答えだな」
「怪我してるから、今は練習を見たり、先生の手伝いしたり」
「経験者?」
栞が拓真を見る。
「五歳から」
「俺より長いじゃん」
「だから昨日、足見てるの分かったんだ」
「それ関係ある?」
「ある」
言い切られた。
拓真はそれ以上聞かなかった。
*
小松崎が熊谷と向かい合った。
大島が声をかける。
「軽くな」
「はい」
二人が構えた。
拓真は壁際に座って見る。
昨日はミットだった。
今日は相手がいる。
始まった。
熊谷が前へ出る。
「うわ」
でかい。
大きな身体が動くと、それだけで圧がある。
小松崎は下がらない。
ぎりぎりまで待つ。
熊谷の手が出る。
その瞬間。
小松崎が入った。
速い。
二人が交錯する。
「止め」
大島が手を上げた。
「小松崎」
拓真が少し前へ出た。
もう一度。
今度は熊谷が取る。
「熊谷」
「っしゃ」
「強く当てるなよ」
「すいません」
次は神戸。
熊谷よりさらに長い。
足も長い。
距離がまるで違う。
拓真は夢中になって見ていた。
「面白い?」
横から栞。
「まあ」
「見学だから?」
「そう」
「昨日より前に出てるけど」
見ると、いつの間にか壁際からかなり移動していた。
「見えないから」
「ふーん」
「その『ふーん』やめろ」
*
「佐藤」
大島が呼んだ。
嫌な予感がした。
「なんですか」
「昨日の道着、洗ってあるぞ」
「なんで?」
「貸すため」
「誰に?」
「お前に」
「見学です」
「着て見学すればいい」
「そんな見学ある?」
神戸が言った。
「あるんじゃない?」
熊谷も頷く。
「動いたほうが分かるし」
「先輩たち絶対面白がってるでしょ」
「ちょっと」
「認めたよ」
大島から道着を渡される。
拓真はそれを見る。
昨日より迷う時間が短かった。
「……借りるだけですから」
栞が時計を見る。
「昨日より三秒くらい早い」
「測んなよ」
*
着替えて戻る。
「帯は?」
大島が聞いた。
「ないです」
「昔何級?」
拓真が答える。
「じゃあ今日はこれ」
白帯を渡された。
拓真は受け取った。
「白?」
「嫌か?」
「いや」
少し眺める。
昔は違う色を締めていた。
けれど。
今の自分には、こっちのほうが合っている気がした。
「別に」
帯を締める。
神戸が言った。
「結べるんだ」
「それくらい覚えてますよ」
熊谷が笑う。
「構えは忘れてたのに?」
「見てたんすか!」
「全員見てたよ」
恥ずかしい。
*
準備運動。
基本。
ステップ。
ミット。
十分もしないうちに、拓真は思った。
きつい。
「空手ってこんな疲れたっけ……」
「五年ぶりなんでしょ」
かなが言う。
「野球とは疲れる場所が違う」
腿が重い。
ふくらはぎも張る。
止まっているようで止まっていない。
細かく距離を変え続ける。
そして、一瞬だけ一気に出る。
「佐藤、腰高い」
栞。
「はい」
「右足流れてる」
「はい」
「手戻すの遅い」
「ちょっと待て!」
拓真が振り返る。
「一個ずつ!」
「じゃあ腰高い」
「戻った!」
大島が笑った。
「金子、少し優しくしてやれ」
「はい」
五秒後。
「佐藤、顎上がってる」
「優しさどこいった!」
*
練習後半。
大島が言った。
「小松崎」
「はい」
「佐藤と少し合わせてやって」
拓真が固まった。
「俺?」
「ほかに佐藤いないだろ」
「この人、三年生ですよね」
「そうだよ」
「俺、五年ぶりなんですけど」
「知ってる」
小松崎が拳サポーターをつける。
「軽くでいい?」
「ぜひ軽くお願いします」
熊谷が笑った。
「急に敬語が丁寧になった」
「うるさいっすよ」
向かい合う。
昨日、外から見ていた小松崎。
真正面に立つと、さらに大きく感じた。
「ポイント取ったら止める」
大島が言う。
「強く当てるな。佐藤は勝とうとしなくていいから、距離を思い出せ」
「はい」
「始め」
*
小松崎の前足が動いた。
来る。
そう思ったときには、
拳が拓真の顔の前にあった。
「止め。小松崎」
「……速っ」
再開。
今度は見ようとする。
前足。
肩。
腰。
小松崎が少し沈む。
拓真が反応した。
腹へ入った。
「小松崎」
三本目。
拓真から出る。
右。
届かない。
小松崎が半歩外し、そのまま返す。
「小松崎」
「くそ」
熊谷が声をかける。
「佐藤、力入りすぎ」
「分かってます!」
神戸が言う。
「返事できるならまだ余裕あるな」
「ないです!」
また取られた。
腹が立ってきた。
三年生。
五年ぶり。
負けて当たり前。
分かっている。
でも。
何もできないのは面白くない。
拓真が右を出す。
また外された。
「止め」
栞が言った。
「佐藤」
「なに」
「なんで右ばっかり使ってんの?」
「は?」
「昨日、左だったじゃん」
拓真は自分の拳を見る。
そうだった。
昨日ミットへ入ったのは左。
「左利きなんでしょ」
「そうだけど」
「じゃあ左で行けば?」
「簡単に言うなよ」
「右で一本も取れてないし」
「……」
熊谷が小さく笑った。
「金子、容赦ねえ」
「事実です」
大島も頷いた。
「佐藤」
「はい」
「昔どう構えてた?」
「もうあんまり覚えてないです」
「じゃあ昔の形に戻そうとしなくていい」
「え?」
「今のお前が出やすいようにやれ」
小松崎が構え直す。
「来い」
拓真は息を吐いた。
*
考えるのをやめた。
小松崎を見る。
遠い。
一歩では届かない。
それなら。
「始め」
小松崎の前足がわずかに動く。
拓真が出た。
一歩。
まだ遠い。
もう一歩。
左。
――パンッ!
二人が交錯した。
「止め!」
大島。
静かになる。
「佐藤」
拓真が振り返る。
「……俺?」
「そう」
左拳が小松崎の中段へ届いていた。
小松崎が道着を見る。
熊谷が、
「お」
と声を出す。
神戸も少し表情を変えた。
栞は何も言わない。
拓真の足を見ている。
「もう一回」
小松崎が言った。
「先輩まで?」
「確認したい」
再開。
今度は通らない。
当然だった。
小松崎が左を警戒している。
右。
駄目。
蹴る。
遅い。
取られる。
「小松崎」
「小松崎」
「小松崎」
「全然だめじゃん!」
拓真が叫ぶ。
熊谷が笑う。
「一本取っただろ」
「一本しか取れてないっす!」
神戸が言った。
「三年から一本なら上出来じゃない?」
「でも悔しいんですよ!」
その言葉が出てから、拓真自身が少し驚いた。
悔しい。
そう思っている。
五年ぶりなのに。
見学なのに。
*
もう一度。
小松崎が前へ出る。
拓真は右を少し見せた。
反応した。
ように見えた。
本当にそうだったかは分からない。
でも入った。
一歩。
もう一歩。
左。
――パンッ!
「止め!」
大島の手が拓真側へ上がった。
二本目。
小松崎が構えを解いた。
拓真を見る。
「昨日も思ったけど」
「はい」
「左、速いな」
拓真は息を切らしていた。
「先輩にはめちゃくちゃ取られてますけど」
「俺、三年だから」
「それ言われたら何も言えないっす」
小松崎が少し笑った。
「でも、その左は嫌だよ」
「嫌?」
「遠いところから急に来る」
拓真は左拳を見る。
自分では分からない。
小さいころから左利きだった。
だから左を使っていただけだ。
大島が言った。
「しばらく、それでいいんじゃないか」
「左だけ?」
「まず一個」
「蹴りとかは?」
「できるの?」
「……できないかもしれない」
「じゃあ後」
熊谷が笑う。
「先生、雑」
「五年分一日で取り戻せるわけないだろ」
大島はミットを持った。
「佐藤。今は左で取れ」
左で取れ。
拓真はその言葉を、もう一度頭の中で繰り返した。
*
練習が終わった。
拓真は壁にもたれて座り込んでいた。
「死ぬ……」
かなが水を渡す。
「はい」
「ありがとうございます」
一気に飲む。
熊谷と神戸は防具を片づけている。
小松崎はまだ一人でミットを打っていた。
「先輩まだやるんだ」
拓真が言う。
神戸が答えた。
「小松崎先輩、大会近いとあんな感じ」
「大会?」
「そのうち分かるよ」
「みんなそれ言うな」
栞が隣から言った。
「で」
「何」
「明日も見学?」
拓真は即答した。
「見学」
「今日、最初から最後まで練習してたけど」
「体験見学」
熊谷が振り返る。
「そんな言葉ある?」
「今日からあります」
神戸が頷いた。
「じゃあ組手は?」
「体験組手」
「道着は?」
「見学用」
「白帯締めて?」
「見学用白帯」
「無敵だな、見学」
みんな笑った。
拓真も笑った。
入部する。
その一言だけは、まだ言わなかった。
*
翌日の昼休み。
「佐藤」
教室を出ようとしたところで呼び止められた。
「何?」
同じ一年の山口郁斗だった。
入学してから何度か話した程度だが、妙に人との距離が近い男だった。
「お前、空手部見に行ってんだって?」
「誰から聞いた?」
「知らん。なんか聞いた」
「学校狭すぎだろ」
山口が笑う。
「俺も空手部入るよ」
拓真は止まった。
「やってたの?」
「うん」
「じゃあなんで昨日来なかったんだよ」
「ほかの部見てた」
「空手部入るって決めてるのに?」
「せっかく高校入ったんだぞ」
山口は指を折った。
「昨日バスケ見た。サッカー見た。今日は軽音もちょっと見た」
「迷ってんじゃん」
「迷ってないよ」
「じゃあ何してんだよ」
山口は少し考えた。
「冷やかし?」
「最低だなお前」
「高校の社会見学だって」
「言い換えんな」
山口が拓真の肩を叩いた。
「今日行くから、一緒に行こうぜ」
「俺はもう二日行ってる」
「じゃあ部員?」
「見学」
「二日も?」
「見学」
「練習した?」
「ちょっと」
「道着着た?」
「借りた」
「組手は?」
「した」
山口が真顔になった。
「それ部員じゃん」
「違う」
「何が?」
「まだ入部届出してない」
「めんどくせえな、お前」
「うるせえ」
予鈴が鳴った。
山口が自分の教室へ戻りながら言う。
「じゃ、放課後な!」
拓真は手を上げた。
「おう」
答えてから、
「あ」
と思った。
三日目も行くことが、
いつの間にか決まっていた。




