↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
一撃の夏  作者: 西野照星
PR
1/30

第1話 霞北高校

第1話 霞北高校


四月。


霞ヶ浦から吹いてくる風は、思ったより冷たかった。


佐藤拓真は自転車を降り、校門を見上げた。


茨城県立霞北高等学校。


今日から三年間、ここに通う。


新品の制服。


新品の鞄。


まだ足になじまない靴。


校門の向こうでは、満開を少し過ぎた桜が風に散っていた。


「……高校か」


特に感慨はなかった。


高校生になったからといって、昨日までの自分と何かが変わるわけでもない。


野球はもうやらない。


空手もやらない。


適当な部活を見つけて、勉強して、友達を作って。


三年間それなりに楽しく過ごせればいい。


それくらいに考えていた。


「佐藤ー!」


後ろから声がした。


中学から同じ男子が手を振っている。


「クラス出てるぞ!」


「今行く!」


拓真は自転車を押して校門をくぐった。


その途中、体育館の壁に掲げられた校章が目に入った。


湖。


帆を張った船。


そして沈む太陽。


赤が鮮やかだった。


拓真は一度だけ見上げた。


それからすぐ、友人のほうへ走った。


     *


入学式は長かった。


壇上では校長の五十嵐が話している。


「本校には、長い歴史があります」


拓真は前を向いていた。


最初の五分くらいは。


歴史。


伝統。


自主。


文武両道。


どこの高校でも似たようなことを言うのだろう。


隣の男子が小さくあくびをする。


拓真もつられて眠くなった。


「そして皆さんには、この三年間で、何か一つでも、自分から選び、続けられるものを見つけてもらいたいと思います」


そこだけ、少し耳に残った。


続けられるもの。


昔はあった。


けれど、やめた。


そんなことを考えているうちに、五十嵐の話は終わった。


     *


「佐藤拓真」


「はい」


一年三組。


出席確認が終わる。


教科書。


校則。


時間割。


提出物。


担任の説明が延々と続いた。


休み時間になると、隣の席の男子が学校案内を広げた。


「佐藤、中学何部?」


「野球」


「じゃあ高校も野球?」


「いや。やらない」


「なんで?」


「もういいかなって」


「もったいなくね?」


「そんな上手くないから」


野球は好きだった。


足も速かった。


それなりにはやれた。


でも、高校でも続けたいとは思わなかった。


「じゃあ何部?」


「まだ決めてない」


「なんか入らなきゃいけないんだろ?」


「らしいな」


二人で部活動一覧を見る。


サッカー。


陸上。


バスケットボール。


柔道。


剣道。


卓球。


ページをめくる。


拓真の指が、一瞬だけ止まった。


空手道部。


小学校一年から五年まで。


五年間やった。


試合にも出た。


勝ったこともある。


負けたこともある。


小学六年で野球を始めて、それっきり。


もう五年近く、道着すら着ていない。


「お前、空手もやってたの?」


横から聞かれた。


「昔な」


「じゃあ空手部でいいじゃん」


拓真はページをめくった。


「昔だよ」


それで終わった。


     *


午後。


校内が急に騒がしくなった。


部活動勧誘だった。


「サッカー部お願いしまーす!」


「初心者大歓迎!」


「吹奏楽どうですかー!」


「バレーやらない!?」


「君、足速そう! 陸上どう?」


「なんで分かるんすか」


「雰囲気!」


「適当じゃん!」


笑い声が飛び交う。


拓真の手にも次々とチラシが増えていった。


野球部。


陸上部。


バスケ部。


卓球部。


写真部。


茶道部。


なぜか茶道部だけ二枚ある。


野球部の上級生にも捕まった。


「野球経験者?」


「一応」


「ポジションは?」


拓真が答える。


「じゃあ見学だけでも来いよ」


「あ、はい」


チラシを受け取る。


行くつもりはなかった。


体育館前へ来る。


剣道部は袴姿。


柔道部は柔道着。


バスケ部はボールを回して目立っている。


その端に、小さな机があった。


紙が一枚。


空手道部


チラシが置いてある。


それだけだった。


「……地味だな」


拓真は通り過ぎた。


     *


放課後。


結局、どこにも見学へ行かなかった。


初日から決める必要もない。


明日考えればいい。


拓真は駐輪場へ向かった。


――つもりだった。


「あれ」


見覚えのない渡り廊下。


まだ校内の配置が分からない。


体育館の裏側へ出てしまった。


「こっちじゃねえな」


引き返そうとする。


――パンッ!


拓真の足が止まった。


何かを叩く、乾いた音。


――パンッ!


ボールじゃない。


体育館でもない。


横を見る。


古い武道場がある。


扉が少し開いていた。


――パンッ!


今度は分かった。


ミットだ。


拳が入る音。


その音に混じって、道着の袖が走る音。


拓真は動かなかった。


五年近く聞いていなかった。


それなのに分かる。


裸足で踏んだ床。


道着の匂い。


拳サポーター。


試合場の赤と青。


先生の声。


開始線。


礼。


構えて。


――始め。


一瞬だけ全部戻った。


「……」


帰ればいい。


そう思った。


また音がする。


――パンッ!


拓真は武道場へ歩いた。


「見るだけ」


誰に言うでもなく呟いた。


     *


扉から中を覗いた。


まず目に入ったのは、


「……でか」


二人の男子だった。


二人とも大きい。


一人はほとんど二メートルあるんじゃないかと思う。


その隣は――もっと高い。


二人で防具を片づけている。


「熊谷、これお前のだろ」


「違う」


「名前書いてあるじゃん」


「じゃあ俺のだ」


「なんなんだよ」


片方が呆れている。


その手前。


もう一人の男子がミットへ突きを打ち込んでいた。


二人の巨体ほどではない。


なのに、構えた姿はこちらのほうが大きく見える。


――パンッ!


速い。


拓真は無意識にその男子の足を見た。


前足。


踏み込み。


腰。


拳より先に、そこへ目が行った。


「もう一本」


ミットを持つ若い男が言った。


「お願いします」


男子が構える。


三年生の小松崎堅介。


奥にいる二人は二年生の熊谷と神戸。


そんなことを拓真はまだ知らない。


――パンッ!


「見学?」


横から声がした。


「うわっ」


振り向く。


女子生徒が立っていた。


同じ一年の制服。


長い黒髪。


「びっくりした」


「こっちがびっくりした。ずっと覗いてるから」


「通りかかっただけ」


「ふーん」


「何?」


「別に」


奥から別の女子が顔を上げた。


ノートや飲み物を整理している。


「栞、見学の子?」


「本人は違うって」


「違います」


拓真は訂正した。


「道に迷っただけです」


ミットを持っていた若い男がこちらを見る。


「一年?」


「はい」


「名前は?」


「佐藤です」


「下は?」


「拓真」


「佐藤拓真な」


「先生ですか?」


男の眉が動いた。


「なんで疑問形なんだ」


「若いから」


奥で巨体二人が笑った。


男は自分を指差した。


「大島。国語。今年からここ」


「新任?」


「そう。二十三」


「大学生じゃん」


「教師だよ」


「ほぼ大学生じゃん」


「佐藤、お前初対面から結構言うな」


また笑いが起きた。


変な部だ。


拓真は思った。


     *


「経験者?」


栞が聞いた。


「なんで?」


「見てたから」


「何を」


「小松崎先輩の足」


拓真は三年生を見る。


言われて初めて気づいた。


確かに拳ではなく、足を追っていた。


「昔ちょっと」


「何年?」


「小一から小五」


「五年もやってんじゃん」


「昔だって」


大島が振り向いた。


「空手?」


「はい」


「流派は?」


拓真が答える。


「組手もやってた?」


「一応」


「へえ」


大島の顔が少し変わった。


嫌な予感がした。


「じゃ、一発打ってみる?」


「なんで?」


「せっかくだから」


「制服ですよ」


「上着脱げばいい」


「そういう問題じゃないでしょ」


奥から声がした。


「やればいいじゃん」


熊谷だった。


まだ名前を知らない。


「一発だけ」


今度は神戸。


「先輩たち、適当すぎません?」


「俺ら別に困らないし」


「でしょうね!」


小松崎が笑った。


栞も笑っている。


拓真は帰ろうと思った。


     *


「はい」


栞が何かを投げた。


反射的に受け取る。


拳サポーター。


「一発だけ」


「……」


白い拳サポーターを見る。


久しぶりだった。


「ほんとに一発?」


「嫌ならいいけど」


その言い方が少し腹立たしい。


「やるよ」


上着を脱ぐ。


靴下を脱ぐ。


裸足で武道場へ入った。


足の裏に床が触れる。


そこで初めて、


懐かしい、


と思った。


拳サポーターをつける。


大島がミットを構えた。


「好きなのでいいぞ」


「好きなの?」


「昔一番使ってたやつ」


拓真は構えた。


そして止まった。


「……あれ」


「どうした」


「構え忘れた」


一瞬の沈黙。


熊谷が吹き出した。


神戸も笑う。


「五年で忘れる?」


「忘れるんですよ!」


拓真自身も笑ってしまった。


右を前にする。


違う。


左を前。


これも何か違う。


大島が言った。


「形はいい。打ちやすいようにやれ」


「はい」


ミットを見る。


遠い。


一歩では届かない。


だったら。


「いきます」


「来い」


拓真は床を蹴った。


一歩。


思ったより身体が出る。


まだ遠い。


もう一歩。


左拳を伸ばした。


――パンッ!


ミットが弾けた。


拓真が止まる。


静かだった。


大島がミットを見る。


小松崎が振り返る。


熊谷と神戸もこちらを見た。


ノートを書いていたかなが顔を上げる。


栞だけが、


拓真の拳ではなく、


踏み込んだ足を見ていた。


「……あれ?」


拓真自身が一番驚いていた。


大島がミットを上げ直す。


「もう一回」


「一発って言ったじゃん」


「俺は言ってない」


「ずるくない?」


「もう一回」


「ほんとにこれで終わりですよ」


拓真が構える。


今度は少しだけ自然だった。


踏み込む。


左。


――パンッ!


また音が響いた。


     *


結局、一発では終わらなかった。


「ありがとうございました」


拓真は拳サポーターを栞へ返した。


「どういたしまして」


「じゃ、帰ります」


大島が言った。


「おう。またな」


「いや、入部するとは言ってませんから」


「俺も言ってない」


熊谷が手を振る。


「また明日」


「だから!」


神戸も言った。


「明日は道着持ってくれば?」


「来る前提やめてもらえます?」


拓真は鞄を肩にかけた。


出口へ向かう。


「佐藤」


呼び止められた。


小松崎だった。


「はい?」


三年生が拓真を見る。


「左、速いな」


「……そうですか?」


「うん」


それだけ言って、小松崎はミットへ戻った。


拓真も、


「どうも」


としか返せなかった。


     *


外へ出る。


夕方の風が気持ちよかった。


自転車に乗る。


ペダルを踏む。


霞ヶ浦の向こうへ、太陽が落ち始めていた。


湖面が赤く光っている。


拓真は信号で止まった。


左手を見る。


握る。


開く。


もう一度握る。


別に空手部へ入るつもりはない。


今日は道に迷っただけだ。


明日は普通に帰ればいい。


そう思った。


なのに。


耳の奥に、あの音が残っている。


――パンッ。


五年ぶりだった。


佐藤拓真、高校一年。


最初の一日は、


たった一発のつもりだった。


第1話 霞北高校 了

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。