【ラスタールの苦悩】
――翌朝。
朝食後の紅茶を、ルシアンはゆっくりと口に運んでいた。
正面には、ちら、と視線を向けてくる護衛。
いつものような笑顔が向けられるでもない、静かな朝。
起きてから、ほとんど会話がないのは、――ルシアンが口を開かないからで、ガルドもそれを詰めないから。
かちゃ、と紅茶が受け皿に静かに置かれ、……それ以降、沈黙の間を埋めるものはない。
けれど空いた食器に向けて差し出されたガルドの手に、ルシアンも黙って朝食の皿を渡す。
ひとつ、またひとつと、片づけられていく朝の食器。傍らの銀盆に、それを乗せていく武骨な手。
「…………」
「…………」
「……。……昨夜の、」
ぽつり、と落とされたルシアンの声は、そんなガルドの動きを止めた。
正面に腰かけたまま、ガルドがテーブルからそっと両手を引く。
「……ああ」
「……君の、誕生日の話、だけれど」
背もたれに身体を預け、ガルドは黙ってそれを聞いていた。
とうに過ぎ去った自分の誕生日。だがどうでもいいと思い、言わなかった。……それは本当で、言い訳もない。
「別に、黙っていたのを謝ってほしいだとか、……そういうことを求めてるわけじゃなくて、」
「……ん」
「ただ――」
ルシアンが、言葉を探す。目の前の彼に、――自分をすぐに後回しにする護衛に、どうにかまっすぐに伝わる言葉を。
「…………」
「……教えてもらえなかったのは、ちょっと、寂しかったから」
それは、どこまでも静かな声音だった。
怒っているわけではない。咎めたいわけでもない。昨晩は少々感情があらわになってはしまったが、根本はただ――寂しかったという、それだけだ。
ただ、それだけだ。
銀の瞳が一度だけ手元に落ちて、ほんの少しの、苦笑めいた吐息を零す。
「……だから、来年は祝わせてね、ガルド」
「…………」
「君が祝ってくれたように、私も祝いたい。……ないがしろに、してほしくない。それは……君は、困る?」
――何事かを答えようと、小さく息を吸って、けれどガルドの反応は、すぐには言葉にならなかった。
舌打ちも違う。ため息などもっと違う。唇を引いて、ただルシアンを見つめる。
それは、いつものように余裕を装った無言でも、照れ隠しの視線逸らしでもない。
真正面から受け止めるしかないほどに、逃れようもないまっすぐな言葉。
静かな時間が流れたのち、ガルドはようやく、細く息をついた。
「……わりぃ」
――低く掠れた声は、まだ感情のやり場を見つけられていない。
教えなかったわけじゃない。だが黙っていたのは確かにそうだ。
けれど知られたくなかったわけでもない。別に聞かれもせず、会話にも上がらず、かといってどうすればいいかわからなかった。
それだけだ。
俯いたような姿勢のまま、またしばし沈黙。
だが、次に顔を上げたときの赤い眼差しは、悔いでも後悔でもなく、どこか――受け取ったような、そんな色を宿していた。
「……来年、そのつもりで、ちゃんと……いる」
その言葉は、目の前の彼に赦されたいからではない。銀の眼差しから逃げられないからでもない。
ただ……「祝われる自分でありたい」と、そうはっきりと見えたかのような、かすかな決意。
「……うん」
「……だが"誕生日"はおめぇもだからな」
「それは……ごめんね」
ふたりの間に、再び柔らかな笑みが灯された、その一方で――。
――"目立つ"――ということは、往々にして良いことよりも悪いことを引き寄せやすい。
レストロワの顔役、ラスタールは、……頭を抱えていた。
侍従が手渡してきた手紙は、分厚く質の良い紙、妙に光沢のあるインクと、長ったらしい文面。……通称、"純白の蒐集家"と呼ばれる商人からのものだった。
レストロワの物流・装飾・魔道具の分野において右に出る者がなく、財団・後援・寄付・育成事業でも実績のある、いわゆる豪商。
街の経済には必要不可欠な人間。……ではあるのだが、いかんともしがたい悪癖があった。
――『光をまとっていた。あんなに美しいものは見たことがない』
――『貴殿は面会が叶ったと聞いた。どうにか取り計らってもらえまいか』
「……ご紹介、なさるんですか……」
侍従が、眉根をひそめながらラスタールの顔色を窺う。
ラスタールが緩く頭を振る。馬鹿馬鹿しい、と。
「まさかするわけがなかろう……よりによって……いやしかし……」
この豪商、清らかなもの、透明で美しいもの、誰にも穢されぬものを愛する癖がある。
モノでも、人でも、である。――ゆえに、"純白"の蒐集家。
言葉を悪く言えば、純潔至上主義であった。
ラスタールの視線が、ごてごてとした文面に落ちる。
その蒐集家が目を付けたのが、あの"無紋"だ。
無紋はどうやらレストロワに滞在中、ちらほらと依頼を受けつつも、街の観光を楽しんでいるらしい。
まことに喜ばしい。無哭と無紋が街にいるというだけで、犯罪の抑止力になっている。
現に、冒険者が酔って暴れるような事件も減った。南部草原の通行止めも無事解消された。
是が非でも、もっと街を楽しんでほしい。あわよくば長期滞在していてほしい。
そんな時に、このクソのような手紙である。
「蒐集家め、街歩きでも見かけたか……。……ルシアン殿が機嫌を損ねれば……恐らくすぐに街を出ていくだろうな」
「ええ……同行のガルド殿も、異議なくここを切り捨てるでしょう」
――はぁ、と重いため息が、二人分。蒐集家に断りを入れればいい……というほど単純な問題ではないことも、その重さにさらに拍車をかけていた。
「……蒐集家の機嫌を損ねれば……街の経済にえらい痛手だ」
「ええ……」
蒐集家の手紙が、ラスタールの手の中でぐしゃりと歪む。侍従が、その手の中から手紙を引き抜き、……形だけでも皺を伸ばす。
しばしの黙考の後、ラスタールの指先が面倒そうに、その手紙を指さした。
「……ひとまず、蒐集家には断りの手紙を返しておいてくれ。言ったところでどうせ諦めん。一度断ったという"事実"が必要だ」
「……はい」
「それまでに対応を練る。ルシアン殿には言うな。……くそ、悪趣味なジジイめ」
顔役らしからぬ悪態は、それほどに面倒な相手だからこそ。小商いのジジイなら一蹴できた。ただの変態ジジイでも対応できた。額を揉んで椅子にもたれる。こちらはそれどころではないというのに。
純白の蒐集家の視線を逸らす方法?
無哭と無紋に気づかれずに、これを処理する方法?
街の経済を壊さず、街の品位を守る方法……?
……どれも今のところ、とんと思い浮かばない。
「……頼むから"あのふたり"に構ってくれるな……」
静かに、祈るように呟かれた言葉に、困り顔の侍従がひとつ頷いた。
――夜。
ラスタールの淡い願いが届いたのか、ルシアンは宿で一日中、読書をして過ごしていた。
外出といえば、朝に少しだけ冒険者ギルドへ出かけたきり。レストロワの冒険者ギルドは大型書庫もあり、蔵書が数多い。
気に入った数冊を借りてきて、宿でのんびりと読書にふける。これがまた贅沢だった。
護衛はといえば、街へ出て屋台の食べ物を買ってきたり、向かいのソファに座ってルシアンが読み終わった本を開いてみたり、こちらものんびりと過ごしている。
「そういや、宿の従業員が明日は天気悪いって言ってたな」
「おや、そうなのかい?」
ふと落とされたガルドの呟きに、ルシアンが本から視線を上げる。
ガルドは植物図鑑を眉をしかめて眺めており、短くひとつ頷いただけだった。
「じゃあ明日も宿で読書をしてようかな」
「……ああ、言うと思った」
口角を少しだけあげ、ガルドが鼻で笑う。
相も変わらず目的地もなければ、急ぐ旅でもない。ルシアンのやりたいことが、この旅の目的である。
「七日後には収穫祭だぞ」
「収穫祭……そうか、そんな時期だね」
ガルドが思い出したように付け足せば、ぱっ、とルシアンの表情が華やぐ。
――レストロワほどの大きな街の収穫祭。催し物や出店される品、料理。それを思い浮かべる瞳は、……もう"決定"を告げていた。
「……滞在が伸びるな」
まんざらでもない声色で、ガルドはソファにもたれ、読みかけの本を閉じた。指先が、無意識にページの角をなぞっていた。
静かな時間。誰にも邪魔されない、ささやかな、しかし満ち足りた夜。
シェーズロングに腰かけたままのルシアンは、再び手元の書に目を落としている。
七日後の収穫祭――ともなれば、時間はたっぷりだ。先ほどよりも少し、読み進む速度がゆっくりになる。
気配を共有する。沈黙が心地よい。
ガルドが、ルシアンの前に置かれた別の本を手に取る。中身は……まぁ、よくわかりゃしない。
そうしてゆっくりと、夜は更けていった。
さて翌日、小雨が降る夕方。
ラスタールは、口角を引きつらせて苦笑いをしていた。
目の前には、――冷めきった紅茶のカップ。先ほどまで来ていた客人のものだった。
「……まさか官邸にまで押しかけて来るとは……」
侍従のぼやきに、ラスタールも力なく無言で頷く。
件の豪商――純白の蒐集家が、つい今しがたまで、「あの魔術師に会わせろ」と直談判に来ていたのだ。
いわく、ラスタールに断られ、冒険者ギルドにも断られ、それでも諦めきれずに再度こちらへ来たとのこと。
どこから仕入れたのか、「かの人物は美しいものに目がない」という情報を引っ提げ、「珍品を用意している、だからそれを餌に呼び出せ」と、ほぼ一方的な要求を残して帰っていった。
「断れば面倒なことになるな……」
「……どちらとしても、面倒です」
ラスタールと侍従との間で交わされる会話に、もはや希望も何もない。近く秋の収穫祭を控えていて、そちらの準備もある。
ため息を、一つ。
レストロワの収穫祭は、ただの祭りではない。全ギルドとの各種調整、特にひどいのが運輸ギルドだ。
人が増え、金も動き、物も増える。大通りも普段通りには使えなくなるため、荷入れを止めてもらう必要がある。これがまた、「今日は入れないでね」では済まない。
港から来る海産物、劣化の早い魔獣素材、魔力の抜けやすい薬草、取り扱いに注意を要する燃料、これらをレストロワの街門脇で"待機"させておくわけにもいかず、出荷元の街で止める……のだが、いかんせんそっちの街でも収穫祭の準備は行われており、そちらの街代表や運輸ギルドとの打ち合わせ。それが済んだら商業ギルドにも同じように根回しをして、その後は冒険者ギルドの……。
「……はあぁ……」
……忙しい。忙しいのだ。
だというのに、この蒐集家の機嫌を損ねれば、収穫祭の開催自体にも圧をかけてきかねない。
「…………」
「…………」
テーブルに肘をつき、両の手を組んで、ラスタールは完全に突っ伏していた。暗雲のように、沈黙が二人の頭上にのしかかる。
――だがやがて、今にも死にそうな顔で、ゆっくりと面を上げる。
「……、……厄介だが、明日の朝にでも、……ルシアン殿に話を……。――彼なら……どうにかうまいこと、いなしてくれるやもしれん」
「……かしこまりました」
――それは、対処の放棄というには、あまりにも切実だった。もはや、何とかしてくれ――という神頼みに近い期待だけが、蒐集家の去った応接室に満ちている。
「……いっそ、どこか別の街へ行ってくれれば……」
思わずラスタールが小さく本音を漏らすと、侍従がわずかに目を伏せた。
「しかし、あのお二方に出て行かれては、私どもも困ります」
「……そうなのだよな……まったく……」
ソファの背にもたれ、ラスタールはまた、眉間を揉んだ。
肩が肩こりでこる。頭も頭痛で痛い。考えても思考は回らない。
――なんで、どうして、"そっとしておけ"ということを、なぜ理解できないのか。
「……くそ、顔役なんてやめてやる……」
「残念ながら、任期がまだたっぷりと」
「……なぜだ……」
呟いた言葉は誰に向けたものでもなく、ただ空気に溶けていった。
――【ラスタールの苦悩】




