【夜明けを祝福したあの日】
ガルドがのっそりと浴室から出れば、ルシアンはソファで、今日借りてきた本を眺めていた。
背表紙を見ると、"怪談集"の文字が見える。
――急に気が抜ける。守備範囲が広いな……、とガルドの背ががくりと落ちた。
「あ、ガルド、見て、この本に"逆さ村"が載ってるんだ」
「ああ?……こっちはまだ頭も拭いてねぇよ」
まだ湯気の立つ護衛を呼び寄せ、ルシアンが本のページを傾ける。
楽しげな表情に、――ガルドも、わずかに口角が上がった。がしがしと頭を拭きながら、そちらへ歩み寄る。
ルシアンが座るソファの背に手をかけ、開かれたそのページを覗き込む――瞬間に、ふっと甘い香りがした。
――ひく、とガルドが硬直する。
香膏だ。
――ルシアンに嗅がせた柑橘の方とは別に、……黙って、こっそり選んでいた方。
くどくない、穏やかなベリーの……けれど甘い香り。
あの贈り物の袋に、二つ一緒に入れてもらっていた……やつ……。
「……、お前……」
「うん?」
振り返った顔はにこりと微笑んでいて、けれどガルドの視線が自分の口元に留まっているのを見て、こちらも「あっ」といった表情をする。
「香膏、使わせてもらったよ。二つも選んでくれてたんだね。こちらもいい香りだよ、ありがとう」
「……あ、ああ……」
――思わず、ガルドの喉が鳴りそうになった。
油断をした。……日用品だと、油断をした。香油と被らないようにと贈った。
装飾品では過分だろうかと、消耗品にした。だが、……こちらのほうがまずかった。
――うまそ……、いや……地面に突っ伏したい。
「……お前、そっちのやつ、外出る時はやめとけよ。寝る時だけにしろ」
「え?うん、わかった」
それを言ったきり、ガルドは向かいのソファに移動していった。乱暴に座り込んだのは、逃げが半分。後悔も半分。しかし認めてよいものか、胸中のどこかに、"満足"もいる。
……逆さ村とやらは、今はもう見る気にはなれない。自分で自分の罠を増やした気分だった。
クッションの沈みと同時に、ガルドもじわじわと沈んでいく。
(……なに言ってんだ、俺……)
寝る時だけにしろ?――どういう理屈だ。どの立場だ。っていうかこう、正直完全に食らった。
先ほどのような、なかなかの至近距離でないと匂いを感じないのはまだいい。まだいいが、もし今後添い寝……っが、常態化した場合……その"至近距離"で食らうのは間違いなく自分。
……いや、しねぇか……添い寝の常態化は可能性に入れなくても……、……いやわかんねぇか……。
――護衛、久々に鋭意混乱中である。
「……――ッ……」
声にならない呻きが、喉の奥で溶けて消える。
顔を見られないように、額を抱え、背もたれに頭を預ける。
――見ない。あいつの顔は見ない。一定の距離確保。深呼吸禁止。
けれど、気配は感じ取ってしまう。
ページをめくる音。紙面を滑る指先。微笑みが滲むような呼吸。
ついさっきまで"ただの贈り物"だったはずの香膏が――何故"地獄の香り"に……。
(……うまそうは、まずいだろ……)
よくよく考えれば、唇に触れるものだ。何を選んでいるんだ俺は。
よくよく考えた結果、アウト寄りのアウトだ。そりゃもうアウトだ。
だのに目の前で、当の本人はそれを纏って、平然と笑っている。
(…………)
クッションにうずくまりたくなる衝動を必死に抑えながら、ガルドは死んだような顔でソファに沈みきっていった。
「……?」
――ちらり、と、怪談集から顔を上げたルシアンが、向かいのガルドを見やる。
風呂上がり、何やらソファに沈み込み、急停止してしまった護衛。
昼から今にかけて、……急に誕生日だなんだという話になって、疲れさせてしまっただろうか、と。
――とはいえ、とルシアンが怪談集を閉じる。
誕生日を祝ってもらえたのは、いい。
正直嬉しい。……が、引っかかるところがないわけでもない。
(……私は、君の誕生日も知らない)
張り合うわけではない。けれども、それだけが、ほんの少し悔しかった。
このぶっきらぼうな護衛のことだ。きっと、教えるまでもない、とでも思っているのだろう。
とん、と間にあるローテーブルに本を置き、肩にかけたストールの端をたぐる。
「……それで?」
「……あ?」
「君の誕生日はいつなんだい?私にも祝わせてくれるんだろうね?」
あくまで軽やかに繰り出されたその言葉に、ガルドが背もたれから、やや、頭を上げた。
――片眉が吊り上がり、次に目を逸らされる。
……短くため息を、ひとつ。
「……、……ってる……」
「え?」
「……もらってる、もう」
返された言葉に――今度は、ルシアンが固まる番であった。
銀の瞳が、……その手元にいく。護衛の左手には、控えめに光を返す、腕輪。
「…………」
「…………」
――そろり、と、ガルドがその手を静かに引っ込めた。
「……ベルミードで、君、誕生日だったのかい?」
「…………まぁ……」
「……いつ?」
静かに、穏やかに問いかける声は、尋問――というには優しい声色だったが、質問というには、温度がなさ過ぎた。
その表情も、かすかに笑みは湛えているが、……"知らなかったよ?"が滲んでいる。
「…………」
「……ガルド」
静かなルシアンの声に、すぐに返事は返らない。
けれどしばしの沈黙ののち、何事かを観念したような小さな舌打ちがひとつ。
「……、……黎明讃座で……」
「黎明讃座……」
ルシアンの脳裏に、その景色が、まざまざとよみがえった。
夜明けの回廊。……朝を祝福する神殿。
誰かの祈りを受けて淡く光る石板。それを守る石像たち。
高く造られた採光の窓。そこから差し込む黎明の気配。
"ひとつひとつの朝が、終わらぬ夜を越えてきた証でありますように"
石板に浮かんだ、そんな祈りの文も。
だが目の前の護衛は、一人でこっそりとそれを受け取って、自分が生まれた日をそれで良しとした。
今もなぜか、バツの悪そうな顔で、ふてくされたように座っている。
恥ずかしいだとか、祝わせてくれないのではない。
――どうでもいいとすら思っているのだろう、と、合点がいった。
「……そう」
「…………」
知っていれば、腕輪やポーチにも、もっと意味を持たせられた。
けれど、彼は「黙っている」を選んだ。
――隣にいたのに、だ。
「……よくわかった、ガルド」
「……あ?」
「君が自分を"どうでもいい"と思っていることがよく分かった」
初めて聞いた雇用主の強い口調に、――びた、とガルドが止まった。
雲行きが怪しい。ルシアンが俯いていて、目が合わない。
脳内の警鐘が鳴る。いけない。まずい。そんな焦燥が襲い掛かる、が。
「――来年は絶対に祝う」
まるで断罪でもするような声音で、じろり、とルシアンが目線だけを向けてきた。
……合っていない。言葉の内容と顔と声色が、全然合っていない。
「それまでに、君がどれほど大切かを認識してもらう」
「っ……は、ぁあ?……」
「せいぜい、来年の誕生日までに欲しいものを考えておくといい」
最後に、冷たい笑顔とともにぴしゃり、とそう言ったっきり、ルシアンはさっさとベッドに潜り込んでいってしまった。
呆然と、ガルドがその背を目で追う。
「っ……っ!?……!?」
目はその背を追っている。追ってはいるが、理解はできていない。
怒られたのか。
叱られたのか。
喧嘩を売られたのか。
いや、だが、いや、でも、と、頭もまったく追いつかない。
――何を言われたんだ、俺は、と。
混乱極まる胸中を抱えたまま、目線だけが泳ぐ。鋭意混乱中ではあるものの、頭には実務も滑り込んでくる。
寝るのか。なら部屋の灯りを落として、明日は何時に起きるんだ。明日……、明日の予定は何なんだ。いやでも怒っているから聞けないか、え、何で怒って……?
(来年……な、なん……?俺をか……?)
一語ずつ反芻するたび、焼きつけられたようにじわじわと効いてくる。
それは、"来年も一緒にいる前提"だ。……何かが、喉の奥で苦く弾けた。
(……はっ……)
あれは、怒っている顔だったか。初めて見た、むしろ、……悔しかったのか……?
たかだか護衛の誕生日を知らされていなかったことが?
黙っていたことが?
言う必要などないと、こちらが構えていたことが?
ベッドからは、もう何の物音もしない。すっかり拗ねているのか、何の気配もくれない。
だからガルドはしばし、夜の部屋の中で身じろぎもせず、ソファに座っていた。
けれど──、
「……。……来年、な」
ぽつりと小さく、返す。……けれど、自分に返したのかもしれなかった。
しばらくののち、ようやく腰を上げ、ガルドは黙って自分のベッドへと向かった。
明日も、共に歩くために。
──今日の続きの、来年のその日を、ちゃんと迎えるために。
――【夜明けを祝福したあの日】




