【いつか終わりが】
いつもより少しだけ大股で歩く護衛を、ルシアンは少々足を速めて追いかけた。
「ったく」などとぼやく声が、ちらりと聞こえていた。
今日は、自分の誕生日である。
それを隠していたわけではなかったが、――思い出そうとすらしなかった。
毎年家族に祝ってもらってはいたが、旅に出ればそれも遠くなる。だから意識から抜けていた。大したことではないと思って。
ガルドとも、そんな会話をしたこともない。現に、彼の誕生日だって、知らないのだ。
足早に歩いていく護衛は、まるで怒っているかのような背中で、けれども怒っているわけではないのだろうということは、その眼差しから窺える。
あれはいつもよく見る、――言うなれば、"やれやれ"に近い感情だろうと思う。
雑貨屋の軒先で、何やらを手に取り、匂いを嗅ぐ後ろ姿を見やる。
指先で「来い」とされ、隣に行けば、小ぶりな錫の容器を面前に掲げられた。
「これ匂いどうだ」
「えっ」
言われ、ルシアンがその容器に鼻先を近づける。
中身は、香膏。唇や指先を保湿するための日用品だ。
落ち着いた柑橘の、深く、すっきりとした香り。
「……うん、いい匂いだね」
「そうか」
頷いたガルドが、きち、とふたを閉じ、それを店主へ返す。
その後、二、三言のやりとりののちに、小さな包みがガルドへ手渡された。
それをそのままルシアンへ。
「……ほらよ」
「ありがとう……」
ああ、と短くぶっきらぼうな返事だけで、ガルドがまた歩き出した。
後を追う。宿へと向かう帰り道。――今度は、歩幅が、ゆっくりだった。
風にさらさらと包み紙が鳴る。手の中の小さな重みと、淡く残る香り。
ルシアンが視線を落とせば、包みの封と一緒に小さな押し花が貼りつけられていた。
先ほど見た、シンプルな錫の容器。
変に残るでもない、実用性の高い消耗品。飾らない無骨なその選択が、どこか――ガルドらしかった。
護衛はもう、何も言わない。先を歩きながら、ちらとも振り返らない。
だが、足取りはさっきまでとはまるで違い、緩やかで、一歩踏み出せばすぐに肩が並んだ。
ルシアンの視線が、その横顔をひとつだけ見上げる。
ちろ、と目の端で見返してきたガルドも、すぐに目を逸らし、前髪をかき上げながら小さく唇の端を引いた。
街の喧騒は遠のき、宿までの道に、二つの影が静かに伸びていく。
ふふ、と小さく笑う声と、鋭く舌打ちをする音だけが、ふたりの間に交わされていた。
宿へ戻り、夕食をとり、ルシアンが入浴を終え。
入れ替わりで、すっかりと疲れ切ったガルドが風呂へ。
(――びびった、今日は)
浴室に入りながら、ガルドが深く息をついた。
出所不明の手紙が来た時も身構えたが、それが実の兄からで、しかも誕生日ときた。
熱い湯を被る。石鹸を泡立てて、体を洗う。
……かろうじて、なんとかなった。
贈り物の香膏も……まぁ、日用品として使えるものだ。
距離感としても、おかしくなかった。――はずだ。
(……、……兄貴な……)
――ごく自然に、ルシアンから説明されたそれが、頭をぐるぐると回る。
家族だ。彼を"ルシ"と呼ぶ者たち。
当然ながら、大きな隔たりを感じる。
当然ながら、その素性も知っていて、自分の誕生日を忘れるということも知っていて、昔の彼を知っている。
……当然だ。家族なんだから。
(あの文面じゃあ、家出とかそういうんじゃなさそうだった)
――『旅は楽しんでいるか。たまには連絡を寄こしなさい。』
「…………」
認められて旅をして、帰りを待つ者たちがいるのだろうか。
……帰る場所があるということは……。
いつかはこの旅が終わるということだ。
ひやり、と背筋が冷たくなった気がした。
ただいま、楽しかったよ、とあいつはいつか家に帰り、――では――。
(……俺は……?)
湯気の立ちこめる浴室で、しん、と音が消えた。
浴槽に、ガルドが静かに身を沈める。
肩まで湯に浸かっても、冷えたのは背中の奥で。
いつもなら、すぐに湯が沁みてきて、緊張も溶けていくのに。
――今日は、違った。
(……いつか……旅が、終わる)
その言葉が、どうしようもなく重く響く。
まるで、いつか来る"当たり前の終着点"を、はじめて突きつけられたようだった。
追われて素性を隠しているとか、逃げて来たとか、捨ててきたとか、そうではないのだ。
あいつには、帰る場所がある。
誕生日を忘れていても手紙を送ってくれるような、構いたがりの兄貴がいる。
きっとそこが、あの魔術師の、帰るところで――、
――じゃあ、俺は?
(雇いが終わったら、どうすんだ――俺は)
ぽつり、湯の音が鳴った。
急に、足元が空になったような気がした。
指の骨が軋むほどに、力が入っていた。
いつの間にか、隣にいるのが"当然"になってた。
旅路も、飯も、朝の香りも、笑顔も、声も――全部が、当たり前の"日常"になってた。
(それが……終わるかもしれねぇ、ってのに)
不安、なんてものではない。
怖いとか、そんなのじゃない。
「……耐えられんのか、俺……」
吐き出された言葉が、湯気に吸われていく。行き先は、今のところ、ない。
窓から外を見上げれば、月はなかった。
――【いつか終わりが】




