【そうしていつもの毎日へ?】
翌日の、昼前。
とっくに日も昇った明るさに、ルシアンはじわりと目を開けた。
背中には熟睡する護衛。その眉間には、一つだけ皺。
毛布丸ごと包まれるように、両腕で抱きかかえられている。どうりで、すっかり暖かかったわけだ。
(……ちょっと甘えすぎたかな……)
重たい腕を一つずつ外しながら、昨夜、促されるがままにこちらのベッドへ来たことを思い出す。
確かに、風呂でしっかりと温まりはしたが、……正直まだ寒かった。
それを見抜かれ、「来るか」と言われたからといって、それに甘えてベッドに入ったのは軽率だったかもしれない。
(いくらガルドを信頼しているといえど……)
(……私がしっかりしないと、負担になるだけだね)
何やら雇用主が不穏なことを考えているが、――残念ながら護衛は眠っていて気づかない。
自由になった体を起こし、ルシアンがするりとベッドから抜け出す。手早く着替え、窓から通りを眺めてみれば、昨日とは打って変わって天気がいい。
秋晴れの穏やかな陽光が、窓枠から短く差し込んでいた。
そのまま静かにソファに腰かけ、手帳を開く。ガルドが目を覚ますまでの間に、ギルドに提出する報告書類をまとめなければ。
(……通常の魔獣として捉えるには、魔力循環の基礎構造がやや特殊……)
(魔力干渉……これは侵食や敵対的な術式破壊というよりは、互いの魔力導路が一時的に接触した際の共振に近い……)
(発電器官と思しき頸椎上部を破壊した時点で、干渉波は明確に減衰――その後、帯電核と思しき部位を……)
気づきを手帳にまとめていくごとに、改めて理解しがたい生態をしていたな、と――ルシアンが黒馬に思いを馳せる。もちろん、世の中のすべてがすべて、説明のつくことばかりではないという認識はある。
だがああして実体があり、けれども風や雷のような自然現象に近い存在で、害意はなく、ただ在るだけで影響を及ぼす――あのような魔獣種は、初めて見た。
世界はまだまだ広い。見たことも聞いたこともないものが、溢れんばかりにあるのだ。
――それにしても最後のガルドの一閃に、あの黒馬が抵抗を見せなかったのは、どこかで黒馬自身がそれを望んでいたのではないか……、……そう、手帳に書きかけて。
(……そんなこと、知り得ないし、知る由もないね)
スッとその一文に横線を引いて、走らせていたペンを止める。ごそりとベッドのほうから音がした。
顔を上げたルシアンが目を向ければ、ガルドの腕が、する、とシーツを滑っているところ。
眉はしかめたままに、腕が緩く布団を……、
(……?……私を、探してる……?)
――ややルシアンの頬が緩みかけるが、ぱ、と開いた赤い瞳に、きゅっと口を結んだ。
……目が合う。
……固まっている……。
「……おはようガルド。昨日はありがとう」
「……、……おう……」
ひどく掠れて返ってきた声に、今度こそ顔が綻んでしまった。
一方、そろりと額を抱えたガルドは、……間違いのない正しい記憶を取り戻すのに、少々時間を要していた。
重みのない腕は空っぽで、それどころかシーツも冷たい。――夢か。寝る前のあれは夢だったか。
夢だとすればどこから夢だったのか。抱いて寝たことか。風呂か。黒馬か。
「……?」
声になりきれない疑問が巡る。
抱いて寝た気がする。当人は窓辺で涼しい顔をして手帳を開いているが。
抱いて寝たよな俺……?腕の中にほんのわずかな体温も残っていないが。
(……夢、じゃねぇよな……?)
神妙な面持ちでのそりと起き上がり、ベッドから両足を下ろす。……昼だ。どうやらたっぷり寝た。妙に安心して沈み込むように寝た。……気が、する。
ソファからは、やはりいつもの通りに微笑んでいるルシアンが、手帳を開いてこちらを見ている。
「昼食を食べたらギルドに行こうか。南部の通行止め、早く解消してあげないと」
「ん……ああ……」
情けないほどに掠れた声。寝起きで水分の足りない声。自分の記憶にいまいち確信を持ち切れない声。
もう、駄目だった。
肘を両膝に置いて、手のひらで頭を抱える。そうか。そうだな。俺だけだ。なんだかもう全部わけわかんなくなってのは俺だけ。ベッドにぶっ倒れたい気分だがしかし、ギルドだ。あと昼飯。顔を洗ってな。
深くため息をひとつ。切り替えるように、両手でぐしゃりと髪を混ぜた。
「……顔、洗ってくる……」
「うん」
柔らかな返事にガルドが視線をやれば、ソファで手帳に視線を戻した雇用主は、昼の日差しに髪を淡く透かしていた。
ぎしりとベッドを鳴らして、ガルドが立ち上がる。ため息は、もう出ない。
「…………」
だが、何も言えない。今日も朝から、惨敗だった。
その後は街の食堂で昼食を済ませ、冒険者ギルドへ。
雇用主は意外なほどにいつも通りで、風呂に入ったことも一緒に眠ったことも、まるで何一つなかったかのよう。
――マジかお前、というガルドの視線にも、不思議そうな眼差しが返るだけだった。
ギルドのホールにふたりが足を踏み入れれば、受付嬢がカウンターの椅子からわずかに腰を浮かした。
書類をまとめていた書記官らも、ぴくりと身体をこちらに向ける。
……二日前に、《夜駆けの黒馬》の依頼を受けた、無哭と無紋。
対象の魔獣は街道沿いに不規則に出没し、落雷や暴風による被害報告も多く、今も南部草原方面は通行規制がかかっている。
南門の門兵からは、衛兵隊の報告を通して、昨日の明け方にはふたりが草原方面へ向かったらしいことは聞き及んでいた。
それが今、こうしてここにいる。目立った怪我一つ負わず。
――ごつごつ、こつこつと石床を進む二つの足音が、ホールを満たしているような錯覚。
昼時でも冒険者も少なく、書類作業をしていた職員らの手も止まり、静寂が落ちるような感覚。職員が一名、二階への階段を駆けていく。
「こんにちは、依頼の報告をお願いします」
ぺらり、と依頼書と報告書、詳細の書かれた別紙をルシアンが差し出せば、咄嗟の返事すら間に合わず、受付嬢と書記官らが慌てたように頭を揃えて覗き込んだ。
――夜駆けの黒馬 対応報告
対応者:ガルド・ヴェルグリム/ルシアン
雷雲接近時、南部草原地帯にて対象の顕現を確認。
風圧変化および雷気の兆候から、おおよその出現予測が可能であることを観測によって確認した。
戦闘時、対象の魔力干渉器官は以下に集中していたと判断
・頸椎上部(発電器官)
・仙骨部位(帯電核)
両部位は、ガルド・ヴェルグリムによる直接攻撃により破壊済み。
その後、対象の挙動は大きく変化し、雷撃・暴風・突進を伴う行動は停止。無抵抗のまま草原外縁へ離脱。
対応結果は以下の通り
・討伐:行わず
・捕獲:行わず
・進路誘導:成功(人為的被害の回避)
・観測:完了(気象相関および行動パターン)
破損以降の挙動より、当該個体の脅威ランクはB相当へと修正可能。
ただし、個体差および"古種"の分類に関する議論の余地があり、今後の観測記録との照合を推奨する。
詳細な記録(時系列観測・干渉反応等)は別紙に記載。
以上
──ルシアン
「よろしいでしょうか」
……かすかに首を傾ぐルシアンに、職員らの間で、息を呑むような静けさが落ちた。
「……進路誘導……」
「……、……まじかよ」
思わず漏れ出た声に、書記官が咄嗟に己の口を塞いだ。受付嬢の指先が報告書の行をなぞり、別の職員が口を開けたまま瞬きしている。
職員の報告を受け、一歩遅れて奥から駆けつけてきたのは、……顔役ラスタールとの面会時に同席していた主任書記官の女性。
「っ失礼します」
すぐさま受付嬢や書記官がその場を避け、ガサ、と主任書記官が報告書を手に取る。
視線が素早く報告書の文面をなぞり、――顔を上げるのも早かった。
「――調査班、すぐに現地の安全確認!帯電残痕の有無と魔力干渉波の残留、周辺生物の戻り具合も!」
ッガチャ、とカウンターの奥の方で、軽防具に身を包んだ職員が装備品の入った鞄を引っ張り上げる音がする。
「街道側のへ危険残存の確認もね!封鎖は一部解除、安全確認取れ次第、日中のみ制限解除して、夜間はまだ制限!」
「っはい!」
調査班が駆けていくのと合わせて、別の職員も正面大扉を駆けだしていった。……関係各所に通達にでも向かったのだろうか、と静かにそれを見送っていたルシアンに、やっと主任書記官の視線が向く。
「……失礼しました、決してお二方の報告を疑っているわけでは……」
「いえ、問題ありませんよ。万が一のことがあってはいけませんから」
「恐れ入ります」
ひとつ一礼をした主任書記官に、ルシアンが柔和な微笑を返す。その横で、ガルドは腕を組みながら、やや面倒そうに鼻を鳴らした。
主任書記官が、かすかに安堵の滲む手で別紙をめくり、時系列記録に目を走らせる。
観測開始時刻から、風圧・雷光・位置変動、そして急所への干渉とその効果まで――事細かに記載された観測記録に、ちらりと正面の魔術師を見やる。
「…………」
――あなた、何者なんですか、は……決して口には出せない。
藪を突いて蛇が出れば、まだマシとすら思えるような気がする。非公式に近い形で静かに通達されている"無哭とその魔術師に触れるな"は、――得てして妙で、けれど今日もあらゆる均衡を保つ碇のようで。
「観測、分析、対応報告、誠にありがとうございました」
こくり、と頷きが返ってくる仕草すら優雅で、穏やかで、……主任書記官は丁寧に肩を落とした。ガルドからは何も返らず、ただ静かに腕を組んでいる。
しかしその赤い瞳が、主任書記官を一瞥だけして。
「…………?」
何故か妙に"疲れた"ような無哭の表情に、主任書記官とその横にいた受付嬢がわずかに首を傾げた。
背後では書記官ら職員が黒馬の後始末に奔走し始めており、報酬を支度するような音や報告書類をどうまとめるかなどといった声が飛び交っていたが。
――ふぅ……と重く息をついた無哭に、……やはり難しい依頼だったのね、と主任書記官と受付嬢が、尊敬と感謝と疲労の混じったような、複雑な視線を向けていた。
ふたりが肩を並べてギルドの大扉を出たのは、それから半刻ほど経ってからだった。
それぞれに詳細な聞き取りを受け、ルシアンはともかく、ガルドはもううんざりといった表情。
静かなギルド内にしばらくいたものだから、西部広場の石畳を照らす陽光が目に眩しい。
「チッ……大げさな」
「ふふ。君も黒馬も規格外だったから」
ぼやくガルドにルシアンがそう笑えば、ぐ、と言葉を詰まらせたのちに赤い瞳が逸らされる。
元来褒められて喜ぶタイプではない……が、相手によってはその限りではない。不機嫌そうな渋面は、往来にいるからこその照れ隠しだ。
――さて、と改めて視線を交わす。
依頼も終えた。予定はない。昼食はギルドに来る前に済ませたから、食べ歩きという腹でもない。
「……東側の商店通りを散歩してみようかな」
「……ああ、いいんじゃねぇか」
それだけ言葉を交わせば、もう歩き出すには十分だった。
雇用主のやや後ろを歩くのは、護衛半分、暇つぶし半分。……目の端でそちらを盗み見れば、中央広場の方へ向いた横顔は、なんというか、けろっとしている。
昨夜は眠たそうにして、自分のベッドへ入って来たくせに、だ。
(……。……いいのか、一緒に、寝ても)
じわじわと、ガルドの中にそんな疑問が湧き出る。
距離を、――もっと距離を詰めても、いいのだろうかと。
だが、いや、違う、分かっている。あれは……昨晩のあれらは、"誘い"ではなく"共有"だった。
"何かがあってもいい"ではなく、"何も起こらないだろう"だ。
こちらにそんな気があることなど、微塵も考慮してくれていない。
どうにも雑念が混じる。
(……なら、もう……"なんか起きてもいい"って思っちまってる俺は、どうすりゃいいんだよ……)
街路を歩くルシアンは、しんどいほどにいつもの通りだ。
丁寧な足取り、穏やかな笑み。すれ違う子どもに軽く目をやり、店先の香りに小さく目を細める。
赤い眼差しが、一度だけ伏せられた。そのまま一歩、ルシアンの隣へと歩を進める。
――寄り添って、隣にいる。それだけは、間違いなく許されている。……今のところ。
ふと見上げてきた表情は、ガルドを見てふわりと笑った。
「何か甘いものでも食べようか」
「……やわくねぇなら食う」
「ふふ、そうだね」
……なら、こっちもまだその範囲で、許してやるか。
触れそうな肩の横で、もう少しだけ甘えていようと、ガルドは小さく鼻を鳴らした。
――【そうしていつもの毎日へ?】




