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ルシアンの物見遊山 II【毎日更新/21:20】  作者: フジイさんち
特別のその日

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【護衛、生還】


ガルドが浴室へと入る。冷えた身体にじわりと纏わりつく湯気が温かいが、もうなにをどうしてもそれどころではない。


正面の洗い場では、こちらに背を向けたまま、ルシアンが身体に湯をかけているところだった。

流れていく泡。逸らせない視線――んんいや逸らせた。何とか淡紫の頭のてっぺんに逸らせた。肩越しに一度だけ、銀の瞳がガルドを振り返る。


――にこり。


洗い終えたのか、濡れた髪をかき上げて、そのまま先に湯船へと入っていく背中。

後ろ姿が湯に沈み、……ふぅ、と霞むような小さな息も聞こえる。


夜中である。夜中のレストロワ。外の通りから物音もしない。寝静まっているのか、宿の中も人の気配はしない。

静まり返った真夜中に、ふたりで風呂に入る。――なんだこれは、とガルドが洗い場に座った。


(どういう状況だ……)

(なにがどうなってやがんだ……)

(なんで俺は許されてるんだ……)



わずかにうなだれて考えるが、当然答えなど出てこない。そんな複雑極まりない疑問を噛み砕けるほどの思考回路は、今現在もうどこにも残っていない。

ちゃぷ、と湯の音がして、湯船からルシアンが振り返った気配があった。


「早く洗ってしまいなよ。詰めれば一緒に入れそうだよ」


(――何言ってんだこいつ……!)


ぶち、と、どこかで何かが切れた音がした気がして、咄嗟に頭を抱えた。自分の中の理性とか、我慢とか、男としての最後の砦とか、そういった類の何かの音ではないことを祈る。祈りたい。祈らせてくれ。

風呂桶をひとつ、無言で取る。

湯を汲んで、頭にぶっかける。冷えた肩に伝った湯はじんわりと沁みて、でもやっぱり水でも被るべきだっただろうかと目を閉じる。頭が冷えない。むしろ、湯よりも体温が上がってる気すらする。


「……やってらんねぇ……」

「うん?」

「……ンでもねぇよ」


そう低く吐き出すガルドの声は、決して怒っているわけではない。

己の理性が、ぎりぎりで笑っているのだ。なぜか?――許されているからだ。

そしてそれが一番、どうしようもない。


深く息をついて、ちら、と視線を湯船に向ける。ルシアンは、湯の中で眠たげに目を細めており、濃く濡れた髪が湯にほどけて、肩先まで流れていた。

肌は、白い。男なのに。いや、関係ないか。


(……関係なくねぇ……)


関係なくないか。目を逸らし、努めて平温の声を捻りだす。


「……キツいだろ、ふたりで湯船は」

「そうかなぁ」

「……、……身体のでかさの問題じゃねぇぞ」


言いながらガルドは、泡立てた石鹸を手に取り、勢いよく腕を擦った。

視界には映っていないのに、雇用主殿は首を傾げている気がする。湯気にまみれた密室で、気配だけが、ひたすら近い。



一方ルシアンはといえば、――夜駆けの黒馬について思いを巡らせていた。


明日、ギルドに報告書を出して、ひとまず対応結果は"進路誘導"と"観測"といったところか。

脅威ランクもAからB相当まで下げて大丈夫だろう。そういう注釈も、一応入れておこう。


見た目に関しては、かなり大きな馬体だった。

大柄なガルドを以てしても、背高が彼よりも高かった。


あんなに大きな馬、……いや魔獣だけれど、後にも先にももうきっとお目にかかることもないんだろうなぁ。そう思いながら、ゆるりと洗い場に目をやる。――ざば、と頭から湯を被り、髪の泡が護衛の背を滑り落ちていく。


ぽた、ぽたりと雫が落ちる前髪の隙間から、赤い瞳がこちらを向いた。


「……?……入るかい?」



湯船の片側に身を寄せ、ガルドのために隙間を開ける。

一人用の湯舟ではあるが作りは大きく、ガルドも悠々と足を伸ばせそうな広さ。

きっと難なくふたりで入れる。


「……てめぇ本気か」


ぞろ、と前髪をかきあげながら、半ば睨むような視線。……あれ、と小さく、ルシアンが顎を引いた。

いや、睨むというよりか、……なんだろう、穏やかな目ではない……。


(……、怒ってる……?)


よくわからないが、けれど護衛に冷えられては困ることだけは確か。

わずかに首を傾げて、ルシアンも小さく返す。


「ええと……?私と入るのが嫌なら、私もう上がろうか……?」

「ちっ……げぇ……!」


ガルドが声を上げたのは、反射だった。

湯気を割るようなその気配に、ルシアンの肩が一瞬だけ揺れる。

けれどその揺れを確かめる余裕もなく、ガルドは洗い場でがしりと頭をかいた。


「……嫌とかそういうんじゃねぇ」


低く唸るような声音――だがそれは怒りでも苛立ちでもない。自分でもわかりきっている。

ただどうしようもない、戸惑いと焦りと、あと何かもっとよくないものが、声になって滲んだだけだ。

濡れた前髪が貼りつくのが鬱陶しくて、雑にかき上げた。湯気に滲む浴室で、赤い双眸がわずかに細められる。睨んでいるわけじゃない。けれど、何かをどうにか抑えているような眼。


「……一人でゆっくり入りたかったかい?」

「……るせぇ。もういい。動くな」


そう言って、ガルドは無造作に立ち上がり、自棄になったように、どか、と湯の中へ沈んだ。

湯がぐらりと揺れ、熱が舞い上がる。水面が波立ち、静かだった湯にふたり分の体温が溶けていく。

隣、というには近すぎる。膝が触れそうな距離。腕が少し動けば、肩にも当たりそうだった。


波立っていた湯面が落ち着き、静かになった空間に、ぽつりと湯音が戻る。

見上げてくるようなルシアンの気配が、ゆら、と湯に揺れた。



(……なん、……なんだこれ……)



――ガルドは、天井を見上げて目を閉じた。

そのまま、二度と目を開けなければいいのではと思ったほどだった。


この距離で、何も起こさずに風呂から出る自信がない。

それでも、何かを起こすにはリスクがありすぎる。失うものがありすぎる。

だから今夜は、黙っているしかない――と、拳を湯の底に沈める。



ふぁ、と小さくあくびをする声が、ガルドの隣から聞こえた。


南部草原へ、行きと帰りを合わせて約半日の徒歩移動。

夜、雷雨と強風が吹く中の黒馬。

それで冷えた身体をこうして熱い湯船で温めれば、――そりゃあ、睡魔も来る、か……。護衛、数ミリだけ心が凪ぐ


「……明日は昼頃まで休もうか」

「……ああ」


眠気の混じったようなルシアンの声に、ガルドも短く答える。

隣の柔らかな気配に、まだやや動揺してはいる、が――こうも心底安心しきられていては、それが伝播するようにガルドも落ち着いてきてしまう。


「……ギルドは明日、……昼飯食ってからでいいな」

「うん……」

「……お前風呂で寝落ちる前に上がれよ」


痛いところを指摘されたのか、今にも寝そうな柔らかさでふふ、と小さく返りがあった。

そのまま、すぐにパシャ――と湯から上がる気配。ンッとせき込みそうになるのを、ガルドが耐える。

相変わらず直視は無理だ。いやもうそれだけは無理。


「じゃあ、先に上がってるね。ガルドはもう少し温まってきて」

「……んん」


ぴしゃ、ぴた、ぴた、と足音が遠ざかっていき、扉の向こうへ消えていった。


湯船に残されたのは、ぐらつく熱と、柔らかく残る香りだけ。



「……あんにゃろ……」


ぽつりと呟いた声は、湯気に紛れて天井に消えた。

やっと下ろした視線で湯面を見つめたまま、ガルドは腕を縁にかけ、ぐっと眉間を押さえる。


一緒に入って、膝が触れそうで、へろへろと眠そうな声で。

緩い気配まで落としてって、なんなんだ、くそ……。


「……ほんとに、わざとじゃねぇのかよ……」


濡れた髪から水が滴る。熱いはずの湯が、もうぬるく感じる。

張りつく理性の膜が、さっきよりは少しだけ厚くなった気がする。

けれど、どうしようもなく残ったのは――、


「……あれで手ェ出さねぇ俺……」


かすかに呟いた自分の声に、呆れて笑いそうになる。

そんな、器用じゃない。そんなに我慢できる性格でもない。

それでも、触れなかった。無理にでも見なかった。


――だから今日も、……きっと明日も、許されたままでいられる。


ガルドは、息をついた。


もう少しだけ湯に浸かって、火照った頭を冷やしてから出ることにしよう。

……扉の向こうで、待っているであろう"雇用主"に、変な顔を見られずに済むように。






――【護衛、生還】

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