【護衛、生還】
ガルドが浴室へと入る。冷えた身体にじわりと纏わりつく湯気が温かいが、もうなにをどうしてもそれどころではない。
正面の洗い場では、こちらに背を向けたまま、ルシアンが身体に湯をかけているところだった。
流れていく泡。逸らせない視線――んんいや逸らせた。何とか淡紫の頭のてっぺんに逸らせた。肩越しに一度だけ、銀の瞳がガルドを振り返る。
――にこり。
洗い終えたのか、濡れた髪をかき上げて、そのまま先に湯船へと入っていく背中。
後ろ姿が湯に沈み、……ふぅ、と霞むような小さな息も聞こえる。
夜中である。夜中のレストロワ。外の通りから物音もしない。寝静まっているのか、宿の中も人の気配はしない。
静まり返った真夜中に、ふたりで風呂に入る。――なんだこれは、とガルドが洗い場に座った。
(どういう状況だ……)
(なにがどうなってやがんだ……)
(なんで俺は許されてるんだ……)
わずかにうなだれて考えるが、当然答えなど出てこない。そんな複雑極まりない疑問を噛み砕けるほどの思考回路は、今現在もうどこにも残っていない。
ちゃぷ、と湯の音がして、湯船からルシアンが振り返った気配があった。
「早く洗ってしまいなよ。詰めれば一緒に入れそうだよ」
(――何言ってんだこいつ……!)
ぶち、と、どこかで何かが切れた音がした気がして、咄嗟に頭を抱えた。自分の中の理性とか、我慢とか、男としての最後の砦とか、そういった類の何かの音ではないことを祈る。祈りたい。祈らせてくれ。
風呂桶をひとつ、無言で取る。
湯を汲んで、頭にぶっかける。冷えた肩に伝った湯はじんわりと沁みて、でもやっぱり水でも被るべきだっただろうかと目を閉じる。頭が冷えない。むしろ、湯よりも体温が上がってる気すらする。
「……やってらんねぇ……」
「うん?」
「……ンでもねぇよ」
そう低く吐き出すガルドの声は、決して怒っているわけではない。
己の理性が、ぎりぎりで笑っているのだ。なぜか?――許されているからだ。
そしてそれが一番、どうしようもない。
深く息をついて、ちら、と視線を湯船に向ける。ルシアンは、湯の中で眠たげに目を細めており、濃く濡れた髪が湯にほどけて、肩先まで流れていた。
肌は、白い。男なのに。いや、関係ないか。
(……関係なくねぇ……)
関係なくないか。目を逸らし、努めて平温の声を捻りだす。
「……キツいだろ、ふたりで湯船は」
「そうかなぁ」
「……、……身体のでかさの問題じゃねぇぞ」
言いながらガルドは、泡立てた石鹸を手に取り、勢いよく腕を擦った。
視界には映っていないのに、雇用主殿は首を傾げている気がする。湯気にまみれた密室で、気配だけが、ひたすら近い。
一方ルシアンはといえば、――夜駆けの黒馬について思いを巡らせていた。
明日、ギルドに報告書を出して、ひとまず対応結果は"進路誘導"と"観測"といったところか。
脅威ランクもAからB相当まで下げて大丈夫だろう。そういう注釈も、一応入れておこう。
見た目に関しては、かなり大きな馬体だった。
大柄なガルドを以てしても、背高が彼よりも高かった。
あんなに大きな馬、……いや魔獣だけれど、後にも先にももうきっとお目にかかることもないんだろうなぁ。そう思いながら、ゆるりと洗い場に目をやる。――ざば、と頭から湯を被り、髪の泡が護衛の背を滑り落ちていく。
ぽた、ぽたりと雫が落ちる前髪の隙間から、赤い瞳がこちらを向いた。
「……?……入るかい?」
湯船の片側に身を寄せ、ガルドのために隙間を開ける。
一人用の湯舟ではあるが作りは大きく、ガルドも悠々と足を伸ばせそうな広さ。
きっと難なくふたりで入れる。
「……てめぇ本気か」
ぞろ、と前髪をかきあげながら、半ば睨むような視線。……あれ、と小さく、ルシアンが顎を引いた。
いや、睨むというよりか、……なんだろう、穏やかな目ではない……。
(……、怒ってる……?)
よくわからないが、けれど護衛に冷えられては困ることだけは確か。
わずかに首を傾げて、ルシアンも小さく返す。
「ええと……?私と入るのが嫌なら、私もう上がろうか……?」
「ちっ……げぇ……!」
ガルドが声を上げたのは、反射だった。
湯気を割るようなその気配に、ルシアンの肩が一瞬だけ揺れる。
けれどその揺れを確かめる余裕もなく、ガルドは洗い場でがしりと頭をかいた。
「……嫌とかそういうんじゃねぇ」
低く唸るような声音――だがそれは怒りでも苛立ちでもない。自分でもわかりきっている。
ただどうしようもない、戸惑いと焦りと、あと何かもっとよくないものが、声になって滲んだだけだ。
濡れた前髪が貼りつくのが鬱陶しくて、雑にかき上げた。湯気に滲む浴室で、赤い双眸がわずかに細められる。睨んでいるわけじゃない。けれど、何かをどうにか抑えているような眼。
「……一人でゆっくり入りたかったかい?」
「……るせぇ。もういい。動くな」
そう言って、ガルドは無造作に立ち上がり、自棄になったように、どか、と湯の中へ沈んだ。
湯がぐらりと揺れ、熱が舞い上がる。水面が波立ち、静かだった湯にふたり分の体温が溶けていく。
隣、というには近すぎる。膝が触れそうな距離。腕が少し動けば、肩にも当たりそうだった。
波立っていた湯面が落ち着き、静かになった空間に、ぽつりと湯音が戻る。
見上げてくるようなルシアンの気配が、ゆら、と湯に揺れた。
(……なん、……なんだこれ……)
――ガルドは、天井を見上げて目を閉じた。
そのまま、二度と目を開けなければいいのではと思ったほどだった。
この距離で、何も起こさずに風呂から出る自信がない。
それでも、何かを起こすにはリスクがありすぎる。失うものがありすぎる。
だから今夜は、黙っているしかない――と、拳を湯の底に沈める。
ふぁ、と小さくあくびをする声が、ガルドの隣から聞こえた。
南部草原へ、行きと帰りを合わせて約半日の徒歩移動。
夜、雷雨と強風が吹く中の黒馬。
それで冷えた身体をこうして熱い湯船で温めれば、――そりゃあ、睡魔も来る、か……。護衛、数ミリだけ心が凪ぐ
「……明日は昼頃まで休もうか」
「……ああ」
眠気の混じったようなルシアンの声に、ガルドも短く答える。
隣の柔らかな気配に、まだやや動揺してはいる、が――こうも心底安心しきられていては、それが伝播するようにガルドも落ち着いてきてしまう。
「……ギルドは明日、……昼飯食ってからでいいな」
「うん……」
「……お前風呂で寝落ちる前に上がれよ」
痛いところを指摘されたのか、今にも寝そうな柔らかさでふふ、と小さく返りがあった。
そのまま、すぐにパシャ――と湯から上がる気配。ンッとせき込みそうになるのを、ガルドが耐える。
相変わらず直視は無理だ。いやもうそれだけは無理。
「じゃあ、先に上がってるね。ガルドはもう少し温まってきて」
「……んん」
ぴしゃ、ぴた、ぴた、と足音が遠ざかっていき、扉の向こうへ消えていった。
湯船に残されたのは、ぐらつく熱と、柔らかく残る香りだけ。
「……あんにゃろ……」
ぽつりと呟いた声は、湯気に紛れて天井に消えた。
やっと下ろした視線で湯面を見つめたまま、ガルドは腕を縁にかけ、ぐっと眉間を押さえる。
一緒に入って、膝が触れそうで、へろへろと眠そうな声で。
緩い気配まで落としてって、なんなんだ、くそ……。
「……ほんとに、わざとじゃねぇのかよ……」
濡れた髪から水が滴る。熱いはずの湯が、もうぬるく感じる。
張りつく理性の膜が、さっきよりは少しだけ厚くなった気がする。
けれど、どうしようもなく残ったのは――、
「……あれで手ェ出さねぇ俺……」
かすかに呟いた自分の声に、呆れて笑いそうになる。
そんな、器用じゃない。そんなに我慢できる性格でもない。
それでも、触れなかった。無理にでも見なかった。
――だから今日も、……きっと明日も、許されたままでいられる。
ガルドは、息をついた。
もう少しだけ湯に浸かって、火照った頭を冷やしてから出ることにしよう。
……扉の向こうで、待っているであろう"雇用主"に、変な顔を見られずに済むように。
――【護衛、生還】




