【合理的な提案】
南部草原から流れてくるように、しとしとと降り続いていた雨が止み、天には晩秋の煙月が浮かんでいた。
レストロワの大通りに人影は少なく、巡回の衛兵や依頼帰りの冒険者が時たますれ違う程度。
ふたりが宿カルネティアへと戻る頃には、すっかり夜半を過ぎていた。
宿の玄関口に立っていた衛兵が、雨に打たれて帰って来たふたりの姿に、すぐさま玄関扉を引く。
ガルドもまた、半身を引いてルシアンを先に宿に押し込んだ。
護衛の動きはどこか急いでいて、そのままの勢いで受付へと歩み寄る。
深夜のロビーは当然人もおらず、けれどパッと顔を上げた従業員が、濡れたふたりの髪を見て過不足のない動きでタオルを差し出してきた。
「お帰りなさいませ、すぐに湯張りを」
「ああ」
横合いを駆け抜けていく別の従業員を尻目に、ガルドがルシアンの頭に、無造作にタオルをかける。受付の従業員は無言のまま、カウンターの下から部屋の鍵を取り出していた。
「……温かいお紅茶などを、お持ちしましょうか」
――ちら、と壁際の置時計を見やりながら、従業員が控えめにそう伺う。時刻は日付が変わるところ。ルシアンも同じように時計を見て、小さく首を振った。
「今日は休みます。お気遣いどうも」
ぽた、と柔らかな髪の毛先から、水の玉が滴る。――きゅ、と眉根を寄せたガルドが、従業員から手早く鍵を受け取った。
「風呂、かかるか」
「いえ、すぐに」
ひとつ頷き、やや早足で階段を上がるガルドの背に、ふわりとルシアンも続いた。絨毯の敷かれた廊下が、護衛のわずかな焦燥の足音を吸い込むようだった。
後ろをついてくるルシアンに、ガルドが肩越しに視線をやる。
南部草原近くの野営地で着替えたものの、帰ってくる最中でも小雨に打たれた。今度は外套の中までは滲み込んではいないが、髪や肌などの比較的表面に近い部分は、……やはり濡れたか。
タオルで髪を緩く押さえる姿に、――けれどひとつ、安堵の息も漏れる。ともかく、宿には戻ってきた。あとは風呂に入らせて、さっさと寝かすに限る。
廊下の途中、湯張りをしていたらしき従業員とすれ違い、……丁寧な一礼を受ける。ガルドが客室の扉を開け放てば、瞬間、室内の暖かな空気が頬を包んだ。
薄暗い部屋に、壁の魔法灯がじわりと滲んでいる。時間も時間だ、煌々と灯りをつけるには至らない。
ガルドは扉の内側へルシアンを促し、靴を履き替え、背嚢、外套、大剣や剣帯を素早く下ろす。
浴室を確認しに向かう背中はやはり急いでいて、魔術師の"冷え"にどこかトラウマでもあるかのような動きだった。
浴室の湯はほとんど溜まりかけており、今すぐ入っても問題なさそうだ。風呂場の室温が冷えていないのは、さすがレストロワの高級宿といったところか。小さく息をついて指先だけで湯温を確かめ、すぐに居室へ戻る。
「……おい、風呂いいぞ」
外套を脱いでいる背中にかけられた声は低く、言葉の端々に"早くしろ"が垣間見えた。
頷いてそちらへ顔を向け、ルシアンが脱いだ外套を軽くまとめる。これはもう、宿の洗濯に出すのが一番だ。革鞄も下ろす。
動きは緩慢で、疲れ、というよりは、……眠気。
加えて、草原の野営地で個人的なすったもんだがありすぎて精神的にくたくたで、宿に帰ってきて、部屋は暖かく、湯の気配もあり、……なんだかもう、一気に緩んでしまう。
見れば護衛は濡れた装備品をまとめて洗濯かごに突っ込んでいるし、そのくせ自分だって髪がびしょ濡れで、外套の肩口も大いに濡れて色が変わっている。折角さっき乾かしたのに。
忙しい背中は、宿に帰ってきてからまるで止まらない。こちらを気遣ってくれているのはわかるが。
「……、ガルド」
柔らかく呼ぶ声は、存外に笑みを含んだ気配がした。肩越しに振り返った赤い瞳は、――どこか不服そうだ。
「何してんだ、早く風呂入れ」
「さっきから私の心配しかしていないけど、君の方もなかなか濡れているからね?」
黒髪から滴る雫が、ぱたりと絨毯を濡らす。……ガルドがそれを見とめ、渋面で舌打ちを一つ。
ルシアンが小さく肩をすくめる。
風邪をひかれては困るのは、こちらとて同じだ。
「狭い浴室でもないし、早く温まった方がいいのはお互い様だよ」
思いのほか、こともなげに、ルシアンの口から出た言葉に。
目を見開いたようなガルドの手が、脱衣室の備品棚の中で止まっている。置こうとしていたスリッパを、片方だけ握ったまま、硬直。……狭い浴室でもないし……?
せま、せ……、……ガルドの脳が、その言葉の意味を紐解くことに待ったをかけている。
――ルシアン自身、素肌を人に見せることはあまりしない。
自分の中性的な見た目もしっかり理解しているし、それによって男女問わず視線が及ぶことも知っている。
危険な轍は踏まない、が自身の防衛の要だが。
(ガルドは、そういう目で私を見ないしね)
そんな認識ゆえの、……致命的な勘違いとすれ違いは、もう今さらだ。
脱衣室へと踏み込み、ガルドの背中側――する、とシャツをはだけたのは、ただ単に洗濯かごに入れるため。そのまま腰装備も、ほどきながら。
「もう夜も遅い。まとめて入ってしまおう」
「ぁ……?」
真後ろの気配に、ガルドはどうにも振り返り切れなかった。疑問と訴えの声が漏れたのかどうかも定かではない。
濡れたままの髪先が頬に触れていることすら、今は気づかない。
背後から聞こえたその提案が、あまりにも自然で、あまりにも無防備で、あまりにも――。
(――違う、)
そうではない、違う、そういうんじゃないと、手を握りこむ。スリッパの片足が犠牲となる。
だが視界の端、洗濯かごに、ひとつ、ふたつと放られていく衣服が、…………色々なものの判断を曖昧にする。
後ろの男は何も変なことだと思っていない。現にふたりして冷えてびしょ濡れ、夜はもう遅い、早く風呂に入った方がいいのは互いに確か。でもお前、――おかしい、おかしいだろ……おかしいよな……あれ……?
「……っ……、っ、……っああ」
一言、二言、言おうとした文句は何一つでてこなかった。異様に緩慢とした動きでスリッパを置いたガルドが、……己のシャツの襟首に指をかける。
浴室への扉が開いた気配がして、湯気がふわりとこぼれ出し、脱衣室にやわい蒸気の香りが混ざる。
「入ってるね」
「……ぉぅ……」
――あ、これ冗談の奴じゃねぇな――?
鬼気迫る無哭、浴室へと消えていった雇用主を確認して、思わず吐き捨てるような舌打ち。自分の上衣の首元を乱暴に引いた。
まじか、嘘かと思考が騒ぐ。
行動は止められないが、心のどこかで止めてくれとさえ思っていた。
(ちげぇボケぶっ飛ばすぞ)
(た、ただの風呂だろ、ただの風呂)
(……風呂……!?)
思考、迷宮の入り口に立ちかける。
――ちくしょう、見なければ、いいんだ、と……その結論へ行きついたのは、ほぼほぼ延命措置のようなものだった。
――【合理的な提案】




