【晴れない湿度】
珍しい魔獣の観察に夢中になったこと。
自分の状態をないがしろにしたこと。
そうして結局このように手を煩わせていること。
そうそうたる罪状に――ルシアン、猛省であった。
じわり、両手で額を覆う。目線は腰元に。
目の前に跪いた男はといえば……眉間に皺を寄せて、難しい顔をして、器用に短剣を傾け、指先に力を籠め、きつく湿った紐を一段ずつ解いてくれている。
旅の護衛というだけなのに、こんなことまでさせてしまうだなんて、――雇用主失格だ。
「……以後、気を付けます……」
「……どうだかな」
低く返された言葉に、もはやぐうの音も出ない。
編み上げが残り二段ほど、というところで、短剣がガルドの剣帯に戻され、思わずルシアンもその指先に手をかけた。
「そ、その辺まで解ければあとはなんとか脱げるから――」
もう大丈夫だよ、ありがとう――と言いかけた言葉は、出てこない。ぎろ、と赤い視線が見上げてきて、ひくりと喉が鳴ってしまったためだった。
「……手ェ冷えてんぞ」
「えっ……」
「無理だろその手じゃ」
……掠れた声は、言外に声なき圧を孕んでいるように聞こえた。
ぱし、と手を取られ、無造作に退けられる。掴まれた手は確かにガルドのほうが熱くて、よほど自分の手が冷えているのだろうかと思った。
取られた手はそのままに、残る二段をもう片方の手の指先で以てきっちりとほどかれ、……ぱ、と手を引いたガルドが立ち上がる。
「ほらよ」
……言葉はそれだけ、顔は背けられ、すぐに後ろを向く。
大きな外套を拾いあげながら、天幕から外へ……出る間際、背中でぼやくように息をつく。
「……着替え終わったら、呼べ」
半ば吐き捨てるようにして、天幕の布をばさりと押し分けて出ていく背中。
だがその足取りが、どこか余裕を取り繕っているように見えて、……少なくとも、負けたのはどっちか――そんなことは、互いにもう考えられなかった。
「…………」
――天幕の布を後ろ手に閉めて、ガルドは夜の草原地帯を睨む。
……もちろんそちらを睨んでも、もう何もいない。……睨んでいるのは自分の理性かもしれなかった。
濡れて重量の増した外套を、脇の草地に放る。どしゃ、と湿った音が、数ミリだけ正気を取り戻させてくれた。
(……脱がした……)
さっきのは果たして……アウトだったのかセーフだったのか……。脳内で自らを尋問にかけながら、濡れた衣類に手をかける。
剣帯を外して、大剣ごと下ろす。貼りついたシャツをやや乱暴に引き上げる。ボトムも脱ぎ、……当然ながら下穿きもびしょ濡れだ。
「……チッ」
小さく舌打ちをして、ガルドが下穿きの前合わせを外す。腿の辺りまで長さがあるそれは、下着というには少々硬めの丈夫な素材。戦闘や踏み込みにも耐えられるような、厚手の生地。
……それが、……水を含んでがっちりと肌に噛み、内ももや鼠径部が擦れている。
(うぜぇ……)
痛みとしてカウントこそしないが、この擦れが傷になって明日以降に影響するのはもっとクソである。
傍らに置いておいたポーチから、粉末の入った包み紙と小さな小瓶を取り出す。こういうのは、手っ取り早く保湿するに限る。
ため息をひとつ、手慣れたようにカサ、と粉末を瓶に移し、水袋から水を少量。カチャリと蓋をして、シャッ、と手の中で振る。
これはこのまましばらく置けばとろみのついた液体になるもので、ベルトの擦れや靴擦れの保護・防止で、旅人や冒険者はほとんど携行している。
(……あいつが使ってんのは見たことねぇな……)
ふとそう思ったが、そういえばルシアンは回復魔法が使える。恐らく、靴擦れやらになっていたとしても、見えないところで治していそうだ。
――便利なもんだな、魔術師は、と肩をすくめながら、ガルドは濡れて貼りついた、もはや拘束具のような下穿きに手をかけた。
(……、……脱がされた……)
一方、替えの旅装に着替えつつ、ルシアンはやや肩を落としていた。
いや、まぁ、……腰装備をはがれたわけではない。
ローブは剥かれたが、シャツも剥かれたが、……肌着まで脱がされたわけでもない。
つまり肌は出していない。
ただ、装着は何度も頼んだことがあるが、"脱がされた"ことは……少なくとも人生において経験がなく、少々……いやなかなかに動揺しただけ。
(……頼んだのは私だし……)
……恥ずかしいかな、己の不祥事である。全責任は自分。護衛は何も悪くはない。
天幕の外から、カサ、チャポ、と何かしらの音がする。ついで、シャバッと何かを振るような音。
「……?」
なんだろう……と首をひねりつつ、着替えを進める。
ともかく、"濡れた腰装備は紐が締まりきって脱げない"は……大変いい教訓になった。
"濡れても着替えればいいしね"がそもそも通用しない場合がある。……うん、大変に有意義な学びだ。
だが、精神的にちょっと負けた。
身体を冷やさないように、風邪をひかないように。そういう優しさからだったというのは、理解できる。いや、優しさだったか……?いや、優しさ、優しさか……。
でもこれがどうにも、すごく、精神的に……負けた。雇用主の矜持。矜持……紐に負ける矜持って何……?
ルシアンの思考は、半歩ズレて戻ってこない。
いそいそと一通りの着替えを終え、天幕から外へ出る。
ガルドも着替えが済んでいて、濡れた装備類の手入れに当たっていた。
「……着替えたよ、ありがとう」
そう声をかければ、ガルドはちらりとこちらを一瞥して、小さく頷いただけ。
ついで揃って空を見上げ、薄くなってきた雲の向こうの月を見やる。
「……今から帰っても、夜中には宿に着ける」
「うん」
「このまま野営で冷えるより、風呂入って寝たほうがいい。帰るぞ」
ルシアンが頷きを返せば、ガルドは再び手を動かし始めた。
濡れた衣服がまとめて置かれている場所に、ルシアンも服を――と目をやったところで、ガルドの服の脇に小さな小瓶が転がっている。
「……?さっきの物音はこれかい……?」
「あ?ああ……、いいぞ開けて」
天幕の解体を進めながら、ガルドが視線だけを寄越す。
不思議そうにしたルシアンが小瓶の蓋を開けて傾けてみれば、ごく少量残っていた液体がとろりと手のひらに落ちた。乾燥している時にいいのだろうか。よく伸び、肌には馴染む。
「なんだい……?」
「靴擦れとかに使える」
「へぇ……」
靴擦れでもしたのかな……?といった具合でルシアンが護衛を見やるが、当人はいつも通りの動きで天幕を手早くたたみ、ロープを巻き、荷を整えている。
足捌きも変わらない、口数もいつも通り、けれどやけに機嫌が良く見える。
(……なんか……満足げ……?)
かすかに首を傾げ、ルシアンも小瓶をそこに戻して、まだびしょ濡れのままだった外套に手をかけた。布地を広げて、"そよぎ"と"きよら"をかけていく。
草地に放り投げられていたガルドの外套は、……分厚いわ重いわで、あらかた乾燥するまでに倍ほどの時間がかかった。
街道沿いを撤収する頃には、かすかに残っていた雷の匂いも、淡く湿った草原の風にさらわれていく。
けれどそれ以上に、互いの距離に宿る妙な湿度だけが、晴れぬままだった。
――【晴れない湿度】




