【紐運はいずこ】
黒馬が姿を消した、レストロワ南部の草原地帯――。
「古種だったのかもね」
「……古種?」
柔らかな声に、ふと我に返ったガルドが振り返って、――目の前のルシアンを見とめ、ギョッと肩をいからせた。
……ことごとくびしょびしょである。
髪からクローク、中のローブ、恐らくシャツまで、まったくもってのびしょ濡れ。
「……っおい、風邪ひく!」
「うん、それよりあの黒馬、魔力を軸に形成された身体を持つ、半魔術的構造の生物群だよ。私も初めて見たね。分類は不能で稀少なものが多くて……」
「んなもんあとだバカ、っくそ、戻るぞ!」
これはもちろん、ガルド自身も同じくらいびしょ濡れなのだが、――護衛、もうそれどころではない。
何やら冴えきったような眼差しで学者モードになっている魔術師の手を引き、急ぎ草原地帯を街道方面へと戻る。
だがしかし、危険も過ぎ去り、護衛に手を引かれているとなれば、……思考に落ちることができるのがこの魔術師である……。
「古種はそもそも生態的にも魔術的にも説明のつかない部分が多くて、純粋な魔力体として形成されている精霊種とはまた違った構造を有していて……」
「待て黙れ」
「でもね、魔力干渉部位を破壊したから、構造的にはもう通常の生物に近くなっていて、とはいえあの巨躯だから万が一暴れれば被害は……」
ビタリ、――とガルドが足を止め、後ろを振り返った。
眼前で見下ろされ、これには思わずルシアンも、口を閉じる。
「……後で、聞く。黙って、テントだ。じゃなけりゃ、担ぐぞ」
……なぜか片言の護衛に、ルシアンも黙って二度ほど頷く。
その動きでぽたぽたと落ちた雫が、細く首元を伝っていく……が、そんな雫の行き先を見てしまい、盛大に舌打ちをして、ガルドは再び野営の天幕へと荒く歩を進めた。
雨も上がりかけた空の下、ぬかるむ草地を踏む足音だけが、夜に響く。
ガルドが一言も喋らないのは、焦りが半分。自分への苛立ちも半分。黙々と泥を蹴り、手の中には、濡れたままのルシアンの手。
――ひやりとした感触に、苦い感情がまたひとつ。
(くそ、そりゃそうだ、……くそっ)
(そんで何でのんきに語って……いや、いやこういう奴だ……こういう奴だが……!)
「……チッ」
小さな舌打ちに、後ろの気配がわずかに見上げてきたような気がして――ガルドは少し強く、その手を引いた。
街道脇に設えていた野営地は、あの風雨の中でもしっかりとふたりの帰りを待っていた。
雨を避けるように熾されていた焚き火はまだかすかにくすぶっており、――乱暴に歩み寄ったガルドがそのまま、ばさりと布をめくってルシアンを中へ押し込む。
防水布の上に、濡れた靴の跡が二つ分、点々と。
(くそ、靴ん中まで……)
ひとまずガルドが、ぐしゃりと自分の外套を脱ぎ捨てるように放り、すぐに傍らのルシアンの、濡れた外套に手をかけて脱――、いや、はたと止まる。
呆然とこちらを見上げる雇用主は、全然まったく状況が追い付いていない。
見ようによっては胸倉を掴まれてさえいるような……されども、まことに残念ながら底なしの信頼である……。
「……チッ」
ガルドから、唸るような舌打ち。
次の瞬間、グッと引き上げるように手が動いていた。
「っガル――」
さすがにほんの少し焦ったような、けれど制止とも言いきれない声が一つ。眉間に特大の皺を作ったガルドが、聞こえないふりをしてクロークの前を掴み、がばりと外す。
ローブの襟に手をかけ、前合わせを外し、ずぶ濡れの布を引き剥がす。――やはり、その下のシャツも、肌着の上衣ですら、貼りついていた。
「脱げ」
「あ、うん……」
あまりにも素直な返事に、目を逸らしそうになりながらも、それを手助けする。
シャツの袖を持ち、引き抜く。――が、濡れたシャツと肌着の摩擦で引き抜けない。……鋭い舌打ちは、雇用主に対するものではなく、衣服に対するもので、雨に対するもので、黒馬に対するものだ。
黒髪から、ぽたぽたと足元に雫が落ちる。頬の古傷を、水滴が伝うが……もう何度も言うが、全くそれどころではない。
なんとかシャツを抜き、そのままガルドの指先が、ぎ、と腰装備の紐にかかり、――やや、固まった。……お互いに。
は――と、ルシアンの視線がそこに落ちる。
ガルドの視線は、そんなルシアンに。
――そろり、と指が離れていく。
「……だ、大丈夫、自分で脱げるよ」
「……おう」
そう低く答えた顔は、もう完全にそっぽを向いていた。
先ほどの勢いはどこかへ行ったらしく、……ぎこちなく、脱ぎ捨てた大きな外套を、拾っている。
ルシアンが、足元のタオルを拾うふりをして、背を向ける。
……持ち上げたタオルはそのまま、肌着の上から肩にかける。
(……、脱、がされるかと、思った……)
思考が、……じわじわと、やっとのこと、追いついてきていた。
――すごい勢いだった。全部剥かれるかとすら思った。そして謎の強制力もあった。いや、わかる。濡れているからとか、冷えないようにとか、現にシャツは肌着に引っかかって脱げなかったし。
指先で、腰装備の紐に手をかける。濡れてぎっちりとしており――解けない。
…………嘘でしょ……。
「…………」
――おち、落ち着こう……。……ルシアンが、硬く締まった結び目を見つめたままに、口を結んだ。
濡れた衣服は、"きよら"と"そよぎ"を併用させれば乾かせる。問題は、今はただでさえ秋の晩で、先ほどまでの雨と風で身体は冷えていて、そこにまた風を浴びれば身体はさらに冷えるということで。……乾かすには……脱ぐ必要がある。
ということはやはり脱がねばならない。だが紐が、……紐が……。
「……、……」
ちょっと、ここ最近、紐運がない気がする。
(紐運って、なんだろう……)
――雇用主、小さな現実逃避の末に、諦めてくるりと後ろを振り返る。
「……ごめんガルド、紐が濡れてて解けない……」
「……は?」
返ってきた護衛の声は、いささか間の抜けた声だった。
顔が肩越しにこちらを見やったのは恐らく咄嗟のことで、完全に背を向けていた身体がゆっくりとこちらへ向き直るまでの沈黙で、状況を把握しようとしているようで。
ルシアンはと言えば、顔を赤らめているわけでもなく、ふてくされているわけでもない、なんとも申し訳なさそうな――加えて、本当にどうにもならなそうな顔をしている。
一歩、ガルドが足を……いや、もう、もう開いた口も塞がらない、視線はとっくに逸らせない。喉が鳴りそうで、わずかに肩に力を入れた。
「……ほどけねぇのか」
「……ん……」
確認か、念押しのように呟いたガルドが、一歩、また一歩と近づいてくる。
……決して、獲物を見定めるような視線ではないが……、異様に無駄のない足取り。
ただ観念したように逸らされたルシアンの眼差しに、逃げるようなそぶりもないその態度に、――軋んだのは背中だったのか、理性だったのか。
「…………」
「…………」
静かに、腰の前にしゃがみ込み、ガルドの両手がその濡れた紐をそっと持つ。
試しにぐっと端を引くが、確かにぎちぎちと水を吸って硬く締まっており……編み目の下の方には、薄く泥が入り込んですらいる。
(……なんでこうなる)
何重にも交差した紐の下、厚い装備越しに、呼吸の動きが伝わってくる。
それは触れてもいいと許された"魔術師の急所"で、装着の補助を幾度と頼まれた装備で、つい先日はこんがらがった紐をほどくのを手伝わされていて、けれど、しかし、――外し、ていいと……言われたことはない……。
……いやそれどころじゃないか……。護衛、かろうじて、実務に縋る。
剣帯の背面から解体用の短剣を抜き取り、……上は見上げぬままに、確認にも似た声を落とした。
「……短剣使う。切らねぇ。動くな」
「うん……」
頷いたような動きが、手元に伝わる。制止の手も、押しとどめる声も、ない。
ただほんの一瞬だけ、息を詰めたような気配だけがあった。
装備を押さえて、革紐に指をかける。
親指に刃先を当て、紐がきつく締まっている箇所を探る。交差部に切っ先を差し込み、く、と引き上げれば、かすかに隙間ができた。そこを指の腹で広げ、ほどいていく。
ぎち、と紐と装備が擦れて、小さく悲鳴を上げていた。
――【紐運はいずこ】




