【夜駆けの黒馬】
――"黒馬の見た目、覚えててね。あとで教えて"
「……アホか……」
遠景の地点で、また小鳥が位置を変えていく。ガルドの真後ろを飛んでいた小鳥も、わずかに位置をずらす。その挙動を、追いながら。
……さきほど眼前に届いた"戦況報告"に、ガルドは渋面と苦笑の境にいた。
てめぇ引きずりおろすぞと岩場の方を見上げれば、さらにもう一羽、滑空してくる白い影が見える。
――"一瞬だけでいいから、動きを止められない?"
「あんにゃろ……」
遠くで、風切り音が鳴った。
雨が止むことはなく、風が止むこともなく、耳は変わらずざらついており、鼻も利かない。かすかに姿を見せた黒馬が、再び霧のように姿を消す。
風が唸り、地を這うように雷の匂いが滲み出る。
だが、まぁ。
風の流れ。雷の音。軌道の乱れ。
明確な推測などできない。まずもって自分にはそんなもの向いてない。
だがずっとここに立っていて、ずっとあれと相対している――ただそれだけが、何よりの実績であり、経験値だ。
(……なんだっけな、)
"感覚依存型戦闘者には不向き"、か……。
そりゃあ、現場の勘も含まれんのか、なんて。
(……来る)
瞬間、ガルドが大剣を大地に突き刺すように振るった。
狙いは、魔獣の出現位置ではなく……その先。
そこに一瞬、雷の尾をひいて現れた黒馬の脚が――
――"斬撃の風圧"にぶつかり、よろめいた。
どしゃり、それが地に転がったのはほんのわずかな時間。……だがそれは、"止めた"に等しかった。
ガルドがすぐさま振り返り、追撃の一刃を入れんと構えるが、もがくように起き上がる巨体は素早く、あと一歩間に合わない。
けれど即座に白い小鳥が、雷撃と共に再び疾駆を始める黒馬の背をすり抜けるように通過していく。
「お……なん、今のでいいのか」
雨空の中、優雅に岩場へと戻っていく小鳥を、赤い瞳がじわりと見送っていた。
――指先に、白い小鳥。
手のひらで解けたそれは、"見て"きたものを、粛々とルシアンの意識に流し込んだ。
「……ふふ、ありがとう、ガルド」
微笑みの裏、ばつん、と打ち切った感知の膜と、再び張り直した新たな波。
魔力の粒となって溶けていった小鳥が、物語る。
雷と風を体内に有し、際限のない魔力が集中・循環する独自の生体構造を持つ身体。
既存の魔獣や魔物種には当てはまらない……精霊か、幻獣か、古種か。
(首と背の境から干渉波が来ている……)
魔力渦巻く発電器官のようなもの――を、そこに認める。あの厄介な雷撃を生み出している中枢も、恐らくそこか。
理論上、そこを壊せば、魔力干渉波と雷撃には対処可能。
(……もしくは)
尾の付け根、仙骨の付近に、核のような反応が見られた。これは、魔力核と同じような器官だろうか。
蓄えられた雷気・風気がそこから循環しており、発電器官へと巡っているようだった。
その両方が破壊できれば、あれは風雷を纏う現象ではなくなる――かもしれない。
"首と背の境、頸椎付近に「発電器官」。
尾の付け根に「帯電核」。
弱点だと思う。あとはよろしく"
最後のサイレント・ダヴを生み出し、おまけに防御魔法も付与して飛ばす。
雨と風、雷鳴が轟く草原。
薄ぼんやりと光る小鳥だけが、間違いなくふたりを繋いでいた。
雷鳴が地を裂き、風が黒く吠える中――その白い小鳥は、風に煽られることなくガルドのもとへと舞い降りていた。
赤い瞳の面前で、小鳥は一度だけ羽ばたき、魔力の文字が雷光に照らされて浮かび上がる。
――"首と背の境、頸椎付近に「発電器官」。
尾の付け根に「帯電核」。
弱点だと思う。あとはよろしく"
ふわりと溶けるように消えた魔力が、そのままガルドの肌を這う。
じわりと表層を包むのは、もう慣れ親しんだ防御魔法だ。
「……甘やかしやがる」
低く鼻を鳴らし、ぐるりと肩を回す。
地面に突き立てていた大剣の柄に、また手を掛ける。
(首と、尾な……)
――両方っつったか?と、ガルドの眉根が寄る。
信頼と無茶ぶりが紙一重だなんて、あんな奴とこんな旅をしていなければ気づきもしなかっただろう。けれど、口角はわずかに上がる。
それは不満ではなく、高揚の色。
――"試し"は終了でいいという、高揚の笑みだった。
「はっ……ヨロシクだとよ」
耳をつんざく風切り音に、頭を振る。不快は切り捨て、気配だけを拾い……すぐに視線を巡らせ、大剣を構える。
風が割れ、雷が唸った。
――空間が裂けたように見えた。くぐるようにまた、漆黒の巨馬。頭の向きはこちら、ガルドの背後には顕現地点を示す白い鳥。ドカッ――と蹄が地を蹴りながらも途端に疾駆、睨み合いは……折れず、正面。
「――よぉ、やんのか」
低い笑いとともに、鉄塊が唸りを上げる。狙うは、頸椎の一点。
黒馬は飛び上がるような挙動も見せず、ただ――頭を低くして突進のような……、そこをさらけ出すような。
(ッ避けねぇ……!)
咄嗟に、ガルドの大剣が刃の向きを変えた。斬り伏せる形ではなく、面で叩き込む形に。首元の境に鉄塊が撃ち込まれると同時に、ッパァン、と何かが弾けるような感覚があった。
「っ!――」
思わずガルドも、地を蹴って後ずさる。ドカ、ドカ……と足を緩めた黒馬も、バチバチと雷光を弾けさせ、……しかしわずかにその体躯が揺らいだ。
(……なん……)
――いや、核を狙うなら今だ。
座標をなくしたように、周囲を取り巻く風と雷が荒ぶり始めていた。雨粒が上下をなくす。白い鳥も、もうどこにいるのかわかったもんじゃない。
その全てをかき分け、再び大剣を持ち上げる。
ゆら――と一瞬だけ、黒馬の視線がガルドへ向いたように見えた。
尾の付け根に、大剣が叩き込まれる。
斬る動きではない。面で砕くような剛の力。それが不動の黒馬の帯電核を打ち抜き――
――その真っ黒な巨体が、ぐらりと傾いた。
ズォン――と地響きがして、雷光が霧散していく。渦を失った風は散り散りに遠くなっていき、……やがて周囲には静けさが戻る。
「……、……」
ざ、……ざ、と草地を踏みしめながらガルドが近寄れば、黒馬の身体から、身を隠していた朧げな気配が消えていた。
横たわっていても岩のような、分厚い胴体。筋肉質な四肢は、ばきりと張っているように見えた。先端の蹄は鋭く刃のよう。
長い尾は先ほどまで雷を纏っていたが、今は漆黒の毛並みがただ地面に広がっている。
首元から徐々に、身体を這っていた紫色の稲妻状の紋様が消えていく。
互いに、荒く息をするだけ。
さく、さく、と――ガルドの背後、ルシアンが歩み寄ってくる気配があって、これを後ろ手に遮った。
目の前の魔獣は、――息絶えてはいない。恐らく一時的に、ショック状態にあるだけで。
「来んな、まだ」
「……うん」
まだ大剣は抜き身のままに、ガルドが数歩、そちらへ下がる。
風も止んだ。雷も止んだ。よって察するに、これらも黒馬の魔力によるものだということが分かった。小粒の雨がまだ降っているのは、上空に集まった黒雲のせいか。
そうして、しばらくの硬直ののち――黒馬が大きく息を吐き、不器用に、起き上がった。
その巨躯が一度だけ、ガクリと自重に負ける。反動でたてがみがぞろりと下がり、けれども四肢を地面につけて、しっかりと立ち上がった。
……静かにガルドを見据える。ついで、隣のルシアンも。
その眼差しに、もう敵意は……、……いや、きっと、最初からなかった。
のそり――と、黒馬が首を後ろにもたげる。
緩慢な動き。走る理由を、なくしたかのような。
足音もさせず、いななきもせず、草原の外縁へと静かに去っていく背。
「……"進路誘導"かな?」
背後から聞こえたその声に、ガルドは小さく一つだけ頷いた。
ぬかるんだ地面を、ガルドがゆっくりと踏みしめる。まだその巨馬から視線は逸らせない。
後ろ手にルシアンを庇う手も、まだ下ろせない。――けれど、夜の草原を吹く風に、あの荒々しさはどこにもない。
何かが引き連れてきた風ではなく、ただ空を通り過ぎていくための風。上空の重たい雲を、押し流していくための風。
赤い瞳が、地面へと落ちる。あの黒馬が残した大きな蹄の痕だけが、雷の名残のようにじんわりと濡れている。
「……アイツ、走りたくて走ってたんじゃ、ねぇな」
「…………」
――それは、確信や観察の結果というよりも、この夜ずっと相対し続けた"存在"を見たからこその、ただひとつの感想だった。
隣の魔術師からは、何も返ってこない。否定も、肯定も、からかいも。
それが、その理解がまるで、ガルドだけのものだとでも言うかのように。
草原の縁に消えかけている、巨躯の馬の影。
ただ、少し濡れた空と、頬を冷やす風だけがあった。
――【夜駆けの黒馬】




