【南部草原通行止め】
宿を出て、まだ人通りの少ない街中を歩く。
旅宿通りは、夜間の警備依頼帰りらしき冒険者が眠そうな顔をして歩いていて、街の中央広場の露店もじわじわと朝の支度を始めているところだった。
そのまま街路を南門の方面へ折れ、運輸通りを南下。街門近くの運輸ギルドでは、ギルドの職員が頭を抱えており、南門には真新しい立て看板があった。
――『当面の間、南部草原方面行の馬車は運行停止となります』
レストロワ街行政、衛兵隊、冒険者ギルドの連名による注意文。痛手を食っているのは、今まさにそこで頭を抱えている運輸ギルドだ。
「南からの海産物はダメだな」
「民間便が丸きり停止だァ!?」
「"護衛付きなら可"っつったってなぁ……!」
「オイ誰か商業ギルドに連絡!!」
ぼんやりと待ちぼうける荷曳き魔獣を尻目に、ルシアンとガルドもギルド前の通りを行き過ぎる。
どうやら南部草原は、南方面にある海に面した都市へ行く街道沿いにあるらしく、この区間を行き来する輸送隊が全て足止め。
かろうじて、医療品や貴重品などの重要物資を積んだ馬車のみ、厳重な護衛を伴っての通行が許可されているようであった。
だからこそ、南門の衛兵も、そこを通過しようとするふたりを片手で制する。
「失礼、現在南部草原方面は通行が制限されている。どちらへ行かれるのか」
「ええ、その南部草原へ」
一度だけ柔和に微笑んだルシアンが、革鞄から依頼書を取り出して、それを衛兵へと差し出した。
依頼書を一瞥した兵士は、ハッと顔を上げて、かつりと踵を揃える。
「失礼いたしました、冒険者ギルドより通達が来ております!……み、南の空の雷雲が濃くなっております!どうぞ、ご安全に!」
やや震えたその声が、ふたりの肩にかかる。
衛兵の声が聞こえたのか、背後、運輸ギルドの職員たちの視線も感じた。
その全てに、ルシアンはまるで散歩に出るような目礼で以て返し、ガルドも無言で歩き出す。
期待と、不安と、――少々の好奇心を背負って。
門を抜け、踏み固められた街道をしばらく歩くと、途端に風の匂いが変わった。
「……まだ遠いな」
「うん」
ガルドの声に、ルシアンの視線も南の空へと向く。
空はまだ午前の陽光を落としていたが、南の地平には、厚く黒い雲が横たわっている。
遠雷が、ごろり、と低く鳴った。
歩き続ける歩調は変わらないが、ガルドの親指が腰の剣帯にかかる。――癖のようなものだった。
風の音、空の色、土の匂い……すべてが、静かに警鐘を鳴らしている。
雷鳴が、今度はひとつ、はっきりと空を割った。
数刻歩き続け、昼過ぎ、南部草原へとさしかかる街道は――、
――まるで、境界のようだった。
遠目に見えていた雷雲が、今や視界いっぱいに広がっている。
草原へ踏み込めば、風が急激に強まった気すらした。
南部草原は、広い。遮蔽物も少なく、高原のように起伏が目立つわけでもない。
林縁は遠く、草原の隅の方に巨大な岩がぽつんとあり、ただ風が走っている。
しかし、その湿った風が、どこかおかしい。
乾いて、湿って、また乾いて──次の瞬間には何もなかったかのように抜けていく。
「術式展開中の魔術師に対して、干渉性が強い。依頼書に、そうあったね」
「……ああ」
髪が、外套が、荒い風に煽られ、けれども微笑みのままに呟くルシアンに、ガルドが短く返した。――雷はまだ遠く、陽は高い。
けれど空は、妙に黒い。秋空の青が薄い。
「"魔術師が脅威だから退けたい"と、"無作為に干渉波をまき散らしている"……どちらだろうか?」
「……、……どっちも面倒じゃねぇか」
低く落とされた返事に、ルシアンが可笑しそうに笑った。そのまま、ぐるりと周囲を見渡す。依頼書によれば、黒馬が出現するであろう時間帯は、……夜。
昼の草原は何の気配もなく、ただ遠雷と、妙な風だけ。揃って、今にも降り出しそうな空を見上げる。
「……雨が降る前に、街道に戻って野営を張ろうか」
「ああ、それがいい」
静かに頷き合った二つの影が、ゆっくりと踵を返した。足元の下草は、風にあおられて細かに震えるばかり。
虫の声も、鳥のさえずりも、今のこの草原では、一つも聞こえてこなかった。
天幕に、ぱたぱたと雨が落ち始める。いっそう湿った風が、草や土の香りとともに漂ってきていた。
徐々に日が傾くにつれて、暗雲はますます厚みを増していった。
夕陽はいつの間にか雲の縁に呑まれており、草原の色がしとしととくすんでいく。
街道沿い、草原とは少し距離をとった斜面に張られた野営地は、天幕で雨風を遮るように設えてある。
防水布を敷き、布で囲い、浅く掘った地面に火の準備を整える。護衛の手慣れた動きに、もはや何も言うことなどない。
幕の切れ目からは草原方面が望めるようになっており、今も草の海をなめるように風が渡っていた。穏やかな風ではなく、そのたびに幕の縁にある焚き火が揺れる。
「…………」
ガルドが隣を見れば、いつも手帳を開いて何事かと書きしたためているルシアンが、……今日はただ、地平を眺めている。
「……、知ってんのか、黒馬」
草波へと視線を戻し、低く問いかければ、銀の瞳がこちらを向いて緩く微笑んだ。
「ううん、わからないね」
――じわり、ガルドの眼差しが、隣へ戻る。……、そうか、なるほど、ってことは、俺らは互いによくわかんねぇままに危ねぇ魔獣に首を突っ込んだというわけだ。
ため息は出ない。……口の端が、わずかに上がった。
「……そうか、俺もだ」
「ふふ、奇遇だね」
会話は軽やかで、ふたりはまた草原の地平に視線を戻した。
ぴし、と稲光が走り――ゴゴン、と、遅れて音が響いた。……まだ、遠い。
ゆらりと火が揺らめき、天幕に二人分の影が映った。
「けれど、暫定的な予測は可能だよ」
静かに落とされたルシアンの声に、ガルドはそちらを見なかった。
すん、と鼻をひとつ鳴らして、隣の続きを待つ。空気の変化を待つ。
「街道も止まった。街の循環も痛手を受けているようだ。早急な対応が望まれる。なのになぜこの依頼は、"討伐"一択ではなく、進路誘導、観測、捕獲、鎮静化も含めて依頼達成とされるのか」
「……さぁな」
黒雲の空を見据えたままに、銀の瞳は一つも瞬きをしなかった。
横顔は、笑っていた。"好奇心"に満ちた、あの顔だ。……セレフィーネの、大海の守護獣を前にした時のような。
ガルドがそれを、黙して見つめる。
「討伐だけではない"落としどころ"が、許容される種だからではないだろうか。たとえば、ギルドの依頼の方針が『倒してきてくれ』ではなく、『もうどうにかしてくれ』、という魔獣であるとか」
「…………」
空を覆いつくした雲で、もうすでに夕方なのか、夜なのか、分からなかった。
何事かを言おうと口を開きかけたガルドに、遠くの空を眺めていた銀の視線が向く。微笑のままに、ぱちり、と瞬きをひとつ。
「きっと珍しい魔獣だろうから、私もゆっくりと観察したいな。向こうに見える高台にいてもいいかい?」
そう言ってルシアンが指し示したのは、草原の端にある大きな岩場だった。
頭をもたげてそちらを見たガルドが、……一拍置いて、かすかに頷く。
離れた場所にいてくれるのであれば、それに越したことはない。
「あの岩場から草原全体に感知魔法を張ってみよう。極めて高速だという黒馬の挙動が手に取れれば、御の字だ」
「……降りてくんなよ」
「うん、降りないよ。得た情報は、"サイレント・ダヴ"を飛ばす」
「サイ……んだそりゃ」
眉をしかめたガルドに、あれ、という顔をしたのはルシアンの方だった。この旅路において、使ったこともあったはず……とまで思い至って、はたと気づく。
そうか、あれは軍都クレストンでのことだ。サイレント・ダヴは戦場の指揮官に向けたのであって、ガルドに飛ばしたわけではない。
なるほど、といった表情のルシアンが、広げた手元から白い小鳥を生み出す。
「――なん……」
「伝達魔法だよ。草原くらいの範囲なら飛ばせるから、この鳥が来ても、間違って斬らないようにね」
言うや否や、ふわりとガルドの面前へはばたいた小鳥が、ふっと宙に溶けて文字になった。
――"ルシアン"、と魔力の文字が浮かぶ。が、一瞬で消える。
「……そりゃ……、便利なこって」
「ふふ」
小さく笑い合い、どちらともなく立ち上がる。
互いに外套のフードを被り、荒れる風雨の中へ。
草地はすっかりと風に押しつぶされ、濡れそぼって横倒しになっていた。地平の向こうから、まるで走り去った残響のような微細な振動が、ひとつ。
足下、草原の大地が、かすかに震えた。
「――君の外套は雷撃も防ぐのかい?」
「さすがに雷は耐性がねぇな……」
笑うような声は、どちらのものだったのか。
とん、と肘のあたりに触れたルシアンの指先から、ガルドの皮膚に防御魔法が張られる。
それきり足並みは外れ、ガルドは草原の内縁へ。ルシアンは岩場のほうへ。
地を撫でるように、低く、滑るように走る"何か"の気配。
直線ではない。折れ、また折れ、無秩序に蛇行するような、しかし確実に接近してくる足音。
雨はまだ小粒だったというのに、吹きつける風のせいで痛いほどだった。遠く背後、街道の方で天幕がバタバタと煽られていた。
草原の全体を睨みつけていたガルドが、視界の端にその淡紫の姿をおさめる。――岩場へは……問題なくたどり着けているようだ。
黒雲と、雨と、風。雷鳴と稲光で、視界は不鮮明、聴覚にもざらつきが走る。耳鳴りか、空気の歪みか。
背から、ぬるりと大剣を引き抜く。幅広のそれは、薄闇の中に鈍色の光を湛えていて……まぁ、避雷針にならないことを祈る。
登り切った岩場の高台、その鈍色を見据える銀の瞳は、――小さな岩に腰を下ろし、静かに魔力を巡らせた。
笑みは消え、けれど冷静に、ただ"観測者"であるかのように。
風の音が止むことはないが、
――――、
風を切る鋭い音が、耳元を裂いた気がした。
空間がたわむ。雷撃の匂いが走る。
ガルドの赤い瞳が、空と地の境、雷雲の底を睨む。
そこに、"黒い影"が、いた――気がした。……すでに通り過ぎたのかもしれない。
(……早ぇ)
耳がざらつく。雨と、草と土、それと焦げたような匂いで、いまいち鼻は利かない。
まつ毛を雨の雫が濡らす――視界も悪い。追えない速さ。だが、確かに"通った"痕がある。
違和感のほうへ歩を進めれば、一筋、草が焼けて、黒く帯電痕が揺らいでいた。
雷鳴の余韻が、頭上の空を這っていく。
――その雲の切れ間か、雷の隙間か、抱き合わせた風の間か……確かに何かが走り抜けていく。音ではない、空気の震え、大気のざわめき。
白い小鳥はまだ来ない。
「どこだ――」
言いかけたその声よりもはやく、鼓膜を刺すように風が裂ける音が聞こえた。
びく、とガルドの肩の片方がすくむが、怯んだというよりは、不快を切り捨てるような動作。即座に顎を引き、次の瞬間には赤い視線が草原の奥を睨んでいる。
"風切り音ののちに顕現"。
依頼書のその一文に、重く舌打ちをひとつ。
暗雲から突き刺さるようにして、草原の闇に雷の閃光が走る。
地を伝ってびりびりと響く振動。その一閃と同時に、向こうの草の海を確かにそれが駆け抜けた。
――漆黒。
馬のようで、馬なのか、脚の数も尾の長さも、ひどく揺らいで不確か。
金属を擦るような蹄の音。風と雷を纏う、不明瞭な影。
ガルドが踏み出す。
「……くそが」
唸りながらも、追う視線は逸らさない。
黒馬の姿は、瞬く間に遠くの境へ消えていく。
やはり残されたのは、帯電した草の匂いと、地面に走る焼け跡が一筋。
す、と風を裂いて、小さな白い鳥が舞い降り……まだ見慣れぬそれに、一瞬だけガルドの肩も跳ねた。
"――見えたよ"
「……ああ、俺もだ」
届くわけもない返事をすれば、その短い魔力文字は溶けるように消える。
ガルドが息を吐き、雨で濡れた大剣の水滴を振り払った。
「……ぅし、いつでもいいぞ」
ぐ、と手のひらで片耳を押さえながら、ぶる、と頭を振る。不快感はちっとも消えないが、それでも今夜の戦場は、この草原、そして雷と風の狭間。
――せめて見る価値でもあれよ、は……いつものぼやきであった。
――【南部草原通行止め】




