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ルシアンの物見遊山 II【毎日更新/21:20】  作者: フジイさんち
白岩台地と竜の湖

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【隔たりの手のひら】


夜の風が訪れ、湖面をなでるように吹き抜けていく。


湖の水自体が光っているのではない。湖底から湧き出すような淡い光が、水中をゆらゆらと満たしているようだった。

大地の下に満ちている魔力の奔流である、地脈。その支流の出口の一端がこの地に滲み、溢れ出た魔力は大気に霧散することも敵わず、ただこの湖と溶け合っている。

その光は冷たい月光とは異なり、わずかに緑みを帯びた柔らかな色合いをしていた。


湖上の小屋でボートの貸出を済ませたガルドが、係留ロープを外し、小舟を桟橋へと寄せる。

トン、と静かに乗り込んだルシアンが軽く足を引き寄せながら着座し、ガルドもそれに続いて後部に腰を下ろす。

櫂(かい)は両側に一対。ガルドがそれをゆっくりと繰れば、ボートは滑るように桟橋を離れた。



水をかく音だけが、ちゃぽ、と響く。


小舟は緩やかに湖面を進み、岸のざわめきから少しずつ離れていく。


湖面からのやわい光で照らされた薄闇の中、他にも何組かの客がボートを出していたが、誰もが声を潜めるようにしていた。

自然とそうなるような、静謐と神秘に満ちた光景だった。


湖の中心に近づくにつれ、魔力の光はより密度を増し、まるで光の中に浮いているかのような錯覚を与える。

どちらも何を喋るでもなく、片や櫂を繰り、片や景色を眺め。――けれども気まずさなど欠片もない、静寂に守られた時間であった。



水をかく音が止み、船の動きも止まる。そっと視線を上げ、ルシアンもゆるりとあたりを見回す。

微笑むような表情こそ変わらないが、その眼差しはいつもの好奇と美しさへの渇望に満ちていて――その横顔をちらと盗み見るガルドもまた、彼のそんな表情に、小さく一つ鼻を鳴らした。



渡ってきた夜風が、湖面にわずかな波を立たせる。

静かすぎて、船をなでる水音さえ景色になる。

そのどこか満ちた表情すら、……今夜の風景のひとつだ。



ボートの縁に手をかけ、ほんのわずかに身を乗り出し、銀の瞳が湖底へと向く。

指先を軽く、水面に浸す。

護衛からの制止はない。……何かあっても、手を伸ばせば届く距離だった。


爪の背でさらりと水をはじけば、小さな波紋が広がった。


「……魔力濃度はそこまで高くないね。ここもほんの微弱な回復効果があるようだけど、人体には影響しなさそう」

「…………」



――観察してやがる、とガルドがかすかに口角をあげる。


相変わらずだ。綺麗な景色を前にして、ただただ見惚れる男ではない。

無防備にふらふらと寄り道をしているようでいても、腹の底でああやって"見て"いるのだ。

危険度。由来。成り立ち。背景を。



気づいているのだろうか。


湖面の淡い光に照らされたその横顔に、どれほどの威力があるのかを。

……全く知らないのだろうか。この護衛が今、そこから目が離せないことも。


周囲を見渡せば、湖上のボートにも湖畔にも、観光客の影がちらちらと。

けれど皆、湖の美しさに目を奪われ、こちらなど見ていなかった。



気づいていても、自分事にはなっていないのだろうな。


周りに、恋人や夫婦しかいないことも。

その誰もが幸せそうな顔をしていて、――目の前で、銀の瞳を細めて、同じ顔をしている、ということも。


「ほらガルド、綺麗だね」




湖面から指を引き上げたルシアンが、正面の護衛に目を向ければ、二拍ほど置いて、「ああ」と小さな声が返ってきた。

その赤い視線は、こちらから離れない。

そんなに見張らなくとも、身を乗り出して落ちたりはしないのに、と、小さく笑う。



「綺麗だな」



けれど湖など一瞥もせず、低い声が落ちた。

ちゃぷ、とボートが水に揺れる音だけがする。



――今のは、湖に言ったのではない、のでは、と。

さすがに気が付く。……ひとをからかうようなことを、たまにこの護衛は言う。


でもさすがにそのからかいは、表情が、保てなくなりそう、で。



小さく笑って、手のひらで、その視線を遮った。



「……ふふ、ダメだよ、ガルド」

「……、……チッ」


いつもの舌打ちが聞こえて、手のひらの陰でまた、笑った。




湖の光は、明滅と共に密度を増していくようだった。


かざされた手のひらはしばしののちに下ろされて、銀の瞳はまた湖面へと向いていた。

いささか視線は伏せられていたように見えたが、湖底を見ているのかもしれなかった。


淡い緑に照らされて、沈黙は続いて、でもそれは不自然なものではなくて。



もう少し、こうしていようか。

もう少し、夜が深まるまで。

このボートの上だけが、世界のすべてであるような錯覚に、あと少しだけ浸っていられないか。


けれども夜風は冷えてきて、――ガルドは何も言わないまま、櫂を両手で握り直し、再びゆっくりと湖面を滑らせ始めていった。






――【隔たりの手のひら】

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