【隔たりの手のひら】
夜の風が訪れ、湖面をなでるように吹き抜けていく。
湖の水自体が光っているのではない。湖底から湧き出すような淡い光が、水中をゆらゆらと満たしているようだった。
大地の下に満ちている魔力の奔流である、地脈。その支流の出口の一端がこの地に滲み、溢れ出た魔力は大気に霧散することも敵わず、ただこの湖と溶け合っている。
その光は冷たい月光とは異なり、わずかに緑みを帯びた柔らかな色合いをしていた。
湖上の小屋でボートの貸出を済ませたガルドが、係留ロープを外し、小舟を桟橋へと寄せる。
トン、と静かに乗り込んだルシアンが軽く足を引き寄せながら着座し、ガルドもそれに続いて後部に腰を下ろす。
櫂は両側に一対。ガルドがそれをゆっくりと繰れば、ボートは滑るように桟橋を離れた。
水をかく音だけが、ちゃぽ、と響く。
小舟は緩やかに湖面を進み、岸のざわめきから少しずつ離れていく。
湖面からのやわい光で照らされた薄闇の中、他にも何組かの客がボートを出していたが、誰もが声を潜めるようにしていた。
自然とそうなるような、静謐と神秘に満ちた光景だった。
湖の中心に近づくにつれ、魔力の光はより密度を増し、まるで光の中に浮いているかのような錯覚を与える。
どちらも何を喋るでもなく、片や櫂を繰り、片や景色を眺め。――けれども気まずさなど欠片もない、静寂に守られた時間であった。
水をかく音が止み、船の動きも止まる。そっと視線を上げ、ルシアンもゆるりとあたりを見回す。
微笑むような表情こそ変わらないが、その眼差しはいつもの好奇と美しさへの渇望に満ちていて――その横顔をちらと盗み見るガルドもまた、彼のそんな表情に、小さく一つ鼻を鳴らした。
渡ってきた夜風が、湖面にわずかな波を立たせる。
静かすぎて、船をなでる水音さえ景色になる。
そのどこか満ちた表情すら、……今夜の風景のひとつだ。
ボートの縁に手をかけ、ほんのわずかに身を乗り出し、銀の瞳が湖底へと向く。
指先を軽く、水面に浸す。
護衛からの制止はない。……何かあっても、手を伸ばせば届く距離だった。
爪の背でさらりと水をはじけば、小さな波紋が広がった。
「……魔力濃度はそこまで高くないね。ここもほんの微弱な回復効果があるようだけど、人体には影響しなさそう」
「…………」
――観察してやがる、とガルドがかすかに口角をあげる。
相変わらずだ。綺麗な景色を前にして、ただただ見惚れる男ではない。
無防備にふらふらと寄り道をしているようでいても、腹の底でああやって"見て"いるのだ。
危険度。由来。成り立ち。背景を。
気づいているのだろうか。
湖面の淡い光に照らされたその横顔に、どれほどの威力があるのかを。
……全く知らないのだろうか。この護衛が今、そこから目が離せないことも。
周囲を見渡せば、湖上のボートにも湖畔にも、観光客の影がちらちらと。
けれど皆、湖の美しさに目を奪われ、こちらなど見ていなかった。
気づいていても、自分事にはなっていないのだろうな。
周りに、恋人や夫婦しかいないことも。
その誰もが幸せそうな顔をしていて、――目の前で、銀の瞳を細めて、同じ顔をしている、ということも。
「ほらガルド、綺麗だね」
湖面から指を引き上げたルシアンが、正面の護衛に目を向ければ、二拍ほど置いて、「ああ」と小さな声が返ってきた。
その赤い視線は、こちらから離れない。
そんなに見張らなくとも、身を乗り出して落ちたりはしないのに、と、小さく笑う。
「綺麗だな」
けれど湖など一瞥もせず、低い声が落ちた。
ちゃぷ、とボートが水に揺れる音だけがする。
――今のは、湖に言ったのではない、のでは、と。
さすがに気が付く。……ひとをからかうようなことを、たまにこの護衛は言う。
でもさすがにそのからかいは、表情が、保てなくなりそう、で。
小さく笑って、手のひらで、その視線を遮った。
「……ふふ、ダメだよ、ガルド」
「……、……チッ」
いつもの舌打ちが聞こえて、手のひらの陰でまた、笑った。
湖の光は、明滅と共に密度を増していくようだった。
かざされた手のひらはしばしののちに下ろされて、銀の瞳はまた湖面へと向いていた。
いささか視線は伏せられていたように見えたが、湖底を見ているのかもしれなかった。
淡い緑に照らされて、沈黙は続いて、でもそれは不自然なものではなくて。
もう少し、こうしていようか。
もう少し、夜が深まるまで。
このボートの上だけが、世界のすべてであるような錯覚に、あと少しだけ浸っていられないか。
けれども夜風は冷えてきて、――ガルドは何も言わないまま、櫂を両手で握り直し、再びゆっくりと湖面を滑らせ始めていった。
――【隔たりの手のひら】




