【魔術師、死なない】
ルシアンが部屋でストールを羽織っていると、先ほどまでガルドが短剣の手入れをしていた――壁際の丸テーブルの上に、ガルドの腕輪が置いてあった。
ベルミードで、空間収納のついたポーチとともに贈った、小さな贈り物。
革製のそれを風呂場へ着けていかないよう、外していったのだろうということがうかがえた。
粗雑なようでいて、意外と物を大切に使う護衛。
あの大きな外套も、大剣も、剣帯や靴ですら、年季が入り、よく手入れがされている。
例えば野営の夜に刃を研ぐリズムも、革を磨くような音も、もうすっかりこの耳に馴染んだ。
テーブルの脇に立ち、指先で、腕輪のプレート部分をひっくり返す。こちらもよく磨かれ、手入れされている。
――ということは、見ている、恐らく。
ふ、とルシアンの口元が弧を描いた。何も言ってこないのが、とても彼らしい。
けれど、こうして大切に使われているのも、とても彼らしい。
腕輪を元に戻し、静かにその場を離れる。棚の革鞄から手帳を取り出し、ソファへ腰かけた。
左に視線をやれば、窓から外の街並みが見える。二階建ての建物が多いレストロワは、通りの向かい、ぽつぽつと窓に明かりが灯っているのが見えた。
手元の手帳に目を落とし、開く。特に確認する予定などはない。そもそも、予定を書き込むために持ち歩いている手帳ではなかった。
立ち寄った街の風景や人々。訪れた景色の忘備録。誰に見せるでもない。どこかに記録するでもない。
自分で後で見返して、ああ、あの街ではこんなことがあったね、などと……思い出にふけるだけの、それ。
近々で言えば、コルグ湖と、小さな滝、ロサんとこという薪宿。
それらを眺めて記憶を辿っているうちに、がた、と物音がして、ガルドが風呂を終えて戻ってくる。
扉を開いて姿を見せた護衛は、ガシガシと頭を拭きながらルシアンを見とめ、一瞬立ち止まったのちに、傍へ寄ってきた。
そのまま、ローテーブルを挟んだ、向かいのソファに。
「……風呂広かったな」
「そうだね。ガルドの足伸ばせた?」
「ああ。ったく、いくらすんだよこの部屋」
本気で聞いてきているわけではない、軽口の文句。
ルシアンもさぁ?というように、わざとらしく肩をすくめた。
「君の契約金よりは安いよ」
「おい……お前が言うと本気かウソかわかんねぇ」
静かな夜の時間に、柔らかな笑い声。
ばさ、とガルドのタオルが、雑に首にかけられる音。
ふ――、と、笑いの名残が部屋に溶ける。
ソファの背に肩を預けたまま、……ガルドが視線だけを、斜めに滑らせた。
対面の魔術師は、穏やかに頬を緩め、手の中の手帳を見下ろしている。寝間着がまるで仕立てられたようにしっくりとその身に合っていて、薄手のストールが緩く肩から落ちていた。
肌は湯上がりの熱をわずかに帯び、髪はまだ少し湿っていて――それでも、いつものように品よく、静かに座っている。何も変わらない顔で。
「……なあ」
「うん?」
言った瞬間、当然ながら、こちらに視線が戻ってきた。
あの柔らかな銀の瞳が、まっすぐに見つめ返している。
ガルドがほんの一瞬、ためらう。――だが、もう引けなかった。ソファの背もたれに預けた腕が、……わずかに振れる。
「……ちと、聞きてぇことが、あんだけどよ」
「うん」
「……魔力核が揺れても……お前は、……死なねぇのか?」
投げられたその言葉に、ルシアンの動きが、ふと静止する。
手帳のページをめくりかけたまま、ゆっくりとその手が止まり、視線がやや和らぐ。
ガルドはその間に、こめかみに手をやって、わずかに視線を逸らした。"気まずい"を全身で表したような、仕草。
「いや……変な聞き方した。気にしてんのは俺だけかもしんねぇ。けど……」
……いつかのドワーフの一撃を食らった時、呼吸が乱れて、表情が崩れて、苦しそうだった。
妙な香粉で魔力核が封鎖された時は、意識を失うように沈んでいき、何事かと思った。
魔力の枯渇で冷え切った身体は、あの蒼白とした顔は、もう何があっても忘れられそうにない。
それを、見てるだけしかできなかった俺は、たまらなかったんだと。
そんな言葉の代わりに、背もたれの縁に静かに置かれた拳が、声にならない思いを伝えていた。
「死なないよ」
けれど、微笑みのままに、情報の共有のように、ごく自然に返事が返ってくる。
その声に視線をやれば、淡紫の男は首を傾げてすらいる。死ぬと言った覚えはない、と、その表情が語っていた。
「…………」
「魔術師が、そもそもこんなにも腹部と腰部を守るのは、」
――ぱた、と手帳が閉じられる。
「魔力核への揺れや衝撃によって、魔力乱れ、理性乱れ、行動不能等に陥るから。……ただ、これは直接的な死因にはなり得ない」
「……、ああ」
「命に関わるのは、この行動不能の際に、屋外や危険な場所にいる場合だね。魔獣の目の前でその状態になんてなったら、そこで終わりだからだよ」
咎めるでもなく、からかうでもなく、ただまっすぐに見つめてくる銀の瞳。
それにガルドも、……小さく頷いた。
なるほど、そうだ、確かにそう考えればリスクしかない、と。
正しい情報が、"情報"として染み込んでくる。
だから――と続いたルシアンの声にも、ガルドは真正面から視線を向けた。
「安全が確保されているこういう部屋とか、あとは君がいれば、私は別に揺れても大丈夫かなと思ってるよ」
「……。……は?」
――間の抜けたような声が、ガルドの口から零れ落ちる。
さっきまでの学者ヅラはどこにいったんだ、という声。……いや違う、この男、まだ学者の顔で喋っている――……ぎし、とガルドのソファが、鳴る。
「……つったってお前、……しんどいん、じゃ、ねぇのか、揺れたら……」
「多少はね?でも君は、私の核が振れた時、支えてくれるだろう」
「…………そりゃあまぁ、な……」
……そうぼやくので、もう精いっぱいだった。
ルシアンはソファの背に軽くもたれ、閉じた手帳を膝の上に置き、……その姿勢のまま、表情一つ変えずにガルドを見つめている。
なにも、にこやかに笑ってなどいない。けれど、拒絶も遮断もない。
ただそこにあるのは、わずかに不思議そうな顔と、揺るぎのない信頼と――静かな許容だった。
「……、最初からそう言っているよね……?」
「…………」
疑問を抱えたようなルシアンの声に、ガルドはすぐには何も言えなかった。
ああ、言われている。魔力核の説明を受けた時に、"君ならいい"と言われている。
だが、ありゃあ違うだろう。護衛だからで、守るためならで、触れる必要性があるなら仕方ねぇとか、そういう意味で――、視線を逸らそうとして、だが逸らしきれず。
テーブルの縁に視線を落とし、ガルドは指先で一度、トンとソファを叩いた。
「……だな……」
ぼそりと吐いた声が、思わず苦笑めいて溢れる。
いや、危ない、そうじゃない。大前提が、"ガルドは揺らさない"だ。
ガルドは護衛だから。ガルドは守ってくれるから。ガルドは支えてくれるから。
ガルドはわざと、そういうことをしないから。
さっきの言葉も、「君になら揺らされてもいい」ではない。あぶねぇ。あぶねぇ俺の脳みそ。
――深く、細く、ガルドが息を吐く。
(……だ、よな……?)
そのまま、そっと視線を上げる。
まだ少し不思議そうにしているルシアンの肩には、淡い色のストール。浴後の髪が柔らかく落ち、部屋の灯りが頬を優しく照らしていた。
……いや、……。
こんな姿……、油断した姿を見せられている時点で、勘違いすんなというほうがおかしい話だ……。
「――……てめぇよ……」
「うん」
「…………」
声をかけかけて、ガルドが言葉を噛み殺す。
何をどう言えば……、というかもう何をどう言っても"お前をどう見てるか"が伝わってしまう。
黙ってしまったガルドに、ほんのわずかにルシアンが首を傾げる仕草。
眼差しは、ただ静かにこちらに向いている。
だからガルドは、目を伏せた。
言えるわけがない。何を言おうとしてるのかもはっきりしない。
「……なんでもねぇ」
そう言って、大きな影が無造作に立ち上がる。歩みは、壁際の丸テーブルへ。卓上の腕輪をそっと手に取り、左手首に通す。
「……チッ」
――許されてる、とか。
……頼られてる、とか。
そういう言葉の意味が今、改めて突きつけられた現実として、まざまざと胸を打つ。
「……、……」
でももう、悪態も出てこない。文句も出てこない。
あまりに正面から信頼を向けられて、どうしたらいいかわからない。
けれどあの瞳は、その困惑さえも、受け止めてしまうような眼差しだった。
肩越しに視線を向ければ、ルシアンは再び手帳を広げて、穏やかにそれを見下ろしている。
まるで、ただ旅の記録の一部を読み上げただけのように、ごく自然体で。
ガルドのその気配を感じ取ってか、ふとルシアンがまた顔を上げた。
赤い瞳が、ようやくまっすぐ、微笑みを受け止める。
「……てめぇ、いつかガチでくすぐってやる」
「ええ?……ならせめて、する時は言ってほしいね……?」
ケンカ腰に隠した照れに、笑い声となってまた一つ、許しが積み重ねられていく。
そうして、ガルドの中で何かが、ほんの少しずつ、ほどけていった。
――【魔術師、死なない】




