【敵わない主】
丁寧な指先が、ストールの端を軽くつまんで、そっと肩の上で整える。その手つきにも表情にも、特別な感情の起伏はない。
ガルドも、息をひとつ吐いた。まるで張り詰めていた線が緩むような、静かな吐息だった。
(……ずりぃ野郎だ)
棚の上にある水差しから、水を一杯飲みながら、ガルドが頭の中でぼやく。
全部見透かしているようでいて、きっとあの頭の中は、食い物や綺麗な景色のことだけなんだろう。
その行動に、言葉に、眼差しに、……ほんのわずかでも裏があればと、何度思ったことか。
利用とまではいかずとも、自分がどれだけ目を引くのかを知っていて、その一挙一動が周りにどれだけ影響を与えるのかも知っていて。
(……なんで"それ"が俺には効かねぇと思ってんだ……)
旅の最初期に形成されたのであろう、"ガルドなら大丈夫"は――、思った以上に根深い。
そんな旅の主に、敵うはずがない。
そして、多分もう、敵いたくもない。
「おい」
グラスを置いたガルドが、緩く肩を落としながら、そう声をかける。
「……明日は、どうすんだ」
「明日?……何をしようか。ギルドの依頼でも見に行く?」
肩越しに問えば、顔を上げたルシアンは少しだけ考えるように目を細め、再び微笑んだ。
予定もない。急ぐ旅でもない。何に縛られるでもない、自由なふたり。
その余白のある表情が、この夜にはちょうどいいのかもしれない。
部屋の灯りは暖かく、外の冷気が嘘のようだった。
ふたりが座っていたソファの間にあった距離も、今ではもう、あってないようなもの。
「街を歩くだけで日が暮れそうだね……」
「……まぁ、でけぇ街だしな」
話しながらも、どちらともなく灯りを落とし、戸締りを見て、寝る支度を始める。
「そういえばギルドの掲示板、二つもあったね」
「ああ、ここは討伐やら護衛やらが多い」
無紋の通り名も、ラスタールとのお目通りも。
魔力核の話も、今日はもう、終わりでいい。
「朝食は、部屋で食べるかい?」
ベッドに横になりながら、ルシアンが隣のベッドに目を向けた。
それを受けてやや考えつつ、ガルドが半ば呆れたような顔をする。
「部屋でったって、……お前どうせ散歩行くんだろ、朝」
「ああ、いやぁ、寒いからどうだろう……」
「……まぁ確かにな」
ふわり、それぞれに上掛けを被りながらそんなやり取りを交わし、息をつく。
ガルドもそれきり、隣から視線を逸らして、天井を見上げた。
「おやすみ、ガルド」
「ああ……、……」
――そうして、ふと、……余計なことを思い出す。
レストロワへ来る前に泊まった、薪宿ロサんとこ。
あの朝も冷え込み、目が覚めた時にはルシアンが、こちらのベッドに潜り込み、腕の中で寝ていた。
あの時は混乱を極め、寝たふりをして"気づかなかった"を押し通し、なんとか一命を取り留めた……。
そして密かに誓った、「次は自分から混ざりに行く」という……仕返し……というか反抗というか……。
だがしかし、この、カルネティアという高級宿である。
暖かな室内。よく整えられたベッド。空気を含んだ柔らかな掛け布団。
(……む……無理だろ……)
無理である。
……これがぺらりと薄い毛布だったら、まだ"寒い"を言い訳にできた。
"寒い"を言い訳にして雇用主のベッドに潜り込む護衛など全く以て意味も分からないが、とにかくそれが言い訳にできた。
だがこの宿、なにもかもが快適すぎる。
快適すぎて……潜り込む理由がどこにも存在しない……。
苦々しくも思い出すのは、あのときのぬくもり。
朝の静かな宿、自分の腕の中で穏やかに息をする姿。
ぴたりと寄り添われた身体は、遠慮がなさすぎて、心臓がどうにかなりそうだった。
(……あれ……、あれも、"俺だからいい"ってか……?)
……くそが。
思わず漏れそうだった声は、なんとか喉の奥に縛り付けた。
怒り、というよりは……、……嬉しさにすら近い……もう終わりだ……。
ルシアンのベッドとは逆の方向へ、寝返りを打つ。そういえばベッドがデカい。
高級宿だからか、ルシアンがそういう部屋をとってくれたのか……。ああ、おかげさまで足がはみ出ねぇよ、ちくしょうが。――ガルド、本日も全負けである。
今夜は、大人しく寝る。
……仕返しは、また次のチャンスに。
そして、次こそはもう布団まるごと引っぺがしてやるぞ、と。
ガルドは瞼を閉じながら、叶いもしない誓いをひとつだけ、胸に抱いた。
――【敵わない主】




