【ただの風呂だろ、ただの風呂】
穏やかで温かで、少々むずがゆい夕食を終え、ふたりは宿への道を歩いていた。
中通りを、西部広場へと向かう。
橙の街路灯に照らされた"西部旅宿広場"の看板が、ただ静かに広場の往来を見つめていた。
依頼帰り、土埃に塗れた冒険者。これから一仕事へ向かう背中。酒盛りの店を決める男たちは、酒の種類か飯の多さで揉めている。
肩を組み、笑い合い、路傍の店先を覗き込み、……けれどもふいに"無哭"の影を見て、ひゅっと道を開ける。
「おお、びっ、びびったぁ……」
「あぶねぇお前、ぶつかったらぶっ飛ばされんぞ」
「ねぇちょっと聞こえるわよ!」
――ええ、もちろん聞こえている。
かといって視線を向けるでもないガルドに、ルシアンが口の端だけで笑う。
この護衛、むやみやたらに殴りかかったりはしないと思う。しないとは思うけれども、確かにぶつかったらガルドの体幹に負けて弾き飛ばされそうだね、という笑い。
「……笑ってんな」
「ふふ、だって……」
そんな調子で笑われてしまえば、ガルドもそれ以上問い詰めることもない。酔客も混じりだした往来の波に、せめて雇用主が流されて行かないのなら、なんだっていい。
そうして旅宿通りを進んでいけば、酒場は減ってきて、人波もやや落ち着いてくる。
温かな街路灯が等間隔に通りを照らす。もう秋も半ば。冬が早い北大陸は、気温が下がってくるのも早い。
まだ北風は吹かないが、夜気が肌を冷やす。でもきっと、宿は暖かくて……。
……暖かく、て……。
「…………」
ガルドの思考が、止まった。
かろうじて足だけが進んでいる。
――待て。同室だ。いや同室はもうこの際いい。
部屋に風呂がある。風呂が部屋にある――?
やや斜め前を歩く淡い外套から目を逸らし、護衛、思わず口元を覆う。
……カドゥルでは、部屋の外に……宿の一階に浴場があった。だから同室でも、どこか遠い出来事だった。
だが今回の宿は、扉一枚を隔てて浴室だ。
音。気配。湿度。温度。ダメだ。無理だ。逃げるほかない。
「……、……」
――なぁ、俺ァ、公衆浴場に、行ってくると。……そう言おうとして、言葉は出てこなかった。
万が一を考える。――万が一、ほんの少しでも、"しょんぼり"を見せられたら。
『そうなのかい?わかった』
なんて、なんでもない顔をして頷かれた表情に、一粒でも寂しさが見えたら、……もうだめだ。
ならば、最初から俺が苦しむだけでいい。辛いのは……俺一人でいい。――そんな変な方向に決意が固まる。なお、ただの風呂である。
「んん、寒いね。早く帰ろう」
ひとつ肩をすくめたルシアンが、するっと風下に立ち、ガルドを風よけにする。
さも当然のように滑らかな身のこなし。すれ違った冒険者が、道脇の木箱に足をつっかけたような破壊音を立てたが、――ガルドはそれどころではない。
風よけだ。並んで歩いているとか、もうそういう距離じゃない。ほぼ寄り添っている。俺寄り添われてる……?
視界の端、肩先にちらつく柔らかな髪が近すぎる。
「…………」
ガルドは、何も言えない。というか、何を言われたのかが思い出せない。会話の応酬を道端に落としてきた男。雇用主に風よけにされる護衛。もう崩せない足取り。
風呂、どうする。音が聞こえる。いや、野郎同士だ。
……いや、もうそれでどうこうっていう段階じゃねぇ……。
もうすぐ宿の灯りが見えてくる。まるで処刑台にでも向かうかのような心地……んん、処刑されるのは俺だけか……。
通りは夜風で冷えているというのに、この心中はひとっつも穏やかではない。ガルドの額に、まだ宿の気配が届く前から、じんわりと汗が滲み始めていた。
宿カルネティアへと戻れば、門番の衛兵がふたりを見とめて、すらりと丁寧な会釈をした。
音もなく正面玄関が開かれ、中へ。外気を遮断した宿内は、どこも一定に暖かい。
落ち着いた仕草で一礼をした受付の従業員が、カウンターの下から部屋の鍵を取り出し、――ちら、とふたりへ視線を向けたのちに、前に出ていたガルドへ差し出した。
「お帰りなさいませ、湯張りが済んでございます」
「……、ああ」
――ぐ、とガルドが顎を引いたのは、そうだった、という表情だった。
昼過ぎに宿を出る際に、カウンターに鍵を預けに来て、そういえば聞かれた。"お帰りに合わせて湯を張りましょうか"と。
留守中に客室には入られるのには少々抵抗があったが、その時隣の男が"いいね"とでもいうかのように頷いたのを見て、ならばとそれを頼んだのだ。
まぁ、盗まれて困るものもない。大剣も置いたままだが、あれを持ち逃げできる豪胆な者がいるなら拝んでみたい。
何よりルシアンの選んだ宿だ、そんな不届きなことをする輩もいないだろうということで、……部屋の入室を許可して、……風呂の用意を頼んだが……。
――心の準備をする余地もなくなってしまった……。
手の中を鍵をヂャリ、と鳴らしながら、ガルドが階段へ向かう。受付へひとつ目礼を向けながら、ルシアンがその背を追う。
明るい色合いの絨毯が、床からの冷えを遮断するかのようだった。靴音まで吸い込まれてしまい、客室へ向かう足取りに現実感がない。
部屋の前につき、鍵を回しながら隣の雇用主を見る。
冷えた頬がわずかに赤くなっていて、夜風にさらされた髪がひとすじ額に掛かっていた。
扉を引けば、するりと滑り込んでいく淡い背中。
「寒かったね。君、先にお風呂に入るかい」
扉近くで室内履きに履き替え、ルシアンが外套の金具を外す。脱いだクロークは、壁際のスタンドに。
肩掛けの革鞄も外して、こちらは作り付けの棚へ。
ガルドもまた重たい外套を外し、同じくこれを壁際のスタンドに。
「……いい、冷えたろ。先に入れ」
「そう?ありがとう」
笑いながらこくりと頷き、ルシアンが手早く着替えをまとめて浴室へ。白い扉が丁寧に閉まる。ぱたん。
「……、……」
それを見送り、ガルドは――ゆっくりとベッドに腰かけた。
というよりも、もう、脱力した。
――初日だ、まだ。この街に来たばかりだぞ俺。それでこれか。
しかもなんだ、「先に入れ」だなどと偉そうに、ちょっと彼氏っぽかったな……?
いや違うそうじゃない。そうじゃない。どっちかといえば旦那――いやだから違うそうじゃない。くそが。
護衛、黒髪を、手のひらでぐしゃりと混ぜる。
それもこれも、魔力核の揺れでは死なないという、まさかの情報の更新があったから。
あれからもうことごとくガタガタである。
「…………」
なんだかようわからん幾何学模様の絨毯が敷かれた床を、睨む。
まぁ、だが、結局……、……結局、あれは通りすがりの魔術師が言っていただけ。
ルシアン本人から聞いたわけではない。
「……、……聞くべきか?」
……――なんて言って……?
ベッドが、ぎしりと軋んだ。
しかし、街に着いてからずっと、自分一人であたふたしすぎて、すごく損している気がしてきた。
そうだ、わからないじゃないか。
他の魔術師は死ななくてもルシアンは命に係わる可能性もある。
本人から聞いたわけではないのだ。聞こう。聞いてやる。くそ。
「…………よし、」
――パシャ、
決心がついたところに湯の音が聞こえてきて、思考再び停止――。
ついでに身体の動きも停止……。
ガルドは両肘を膝に乗せ、手のひらで顔を覆った。
ごつい指先が、髪の間からこめかみを押さえる。まるで頭痛でも患っているかのような姿勢だったが、実際には頭痛より質の悪いものが脳内を駆け巡っていた。
浴室の扉越しに、しずかな湯の音。
パシャ……と小さく跳ねる水音が、息を飲むのと同じタイミングで耳に届く。
……。音的に……木桶か何かで……身体に湯をかけ
「ンッ、ンンッ……」
特大の咳ばらいをひとつ。そのまま無造作に立ち上がり、窓辺へ。背中にまでじんわり汗が滲んでいる。熱い。この部屋暑い。
試しに窓を開ければ、眼下に旅宿通りが見える。夜だというのに往来は多い。旅人や、商人、仕事帰りの職人連中。冒険者の数もまぁまぁ、住人も行き来していて……、
(……部屋が冷えるか……?)
…………湯冷めはいけねぇ、と、窓を閉める。身体は冷めなかった。
ガルド、天井を仰いで、長く長く息を吐く。精神統一。心頭滅却。雇用主の風呂を想像して死にかけている護衛がどこにいる。ここか。俺か。バカか。
その瞬間、また湯が流れる音がして、喉がひくりとした。
(……助けてくれ……)
声にならない、吐息のような嘆きが、広い部屋に溶けていく。
たかが風呂。ただの風呂。なにも、見てるわけじゃない。特別なことでもない。健康管理。衛生維持。俺だって入る。
(――……俺も、入る……?)
アレのあとに……?
睨みつけた天井から、護衛の眼差しは、しばらく戻ってこれなかった。
――【ただの風呂だろ、ただの風呂】




