【静かな晩に】
他に宿泊客もなく、宿の夜は静かに更けていった。
入浴ののちに供されたメロの料理の腕はなかなかのもので、普段からよく手伝っているのだろうということが伺えた。
人も少ないからと皆で食卓を囲んだ後は、食堂の薪ストーブの前でしばしの団らん。
ルシアンがメロに旅の話をして聞かせ、元商人だったらしいロサも、ガルドと各地の地理や新しい街道の話などをしていた。
やがてロサが見聞きした"綺麗な場所"、"不思議な場所"の話になり、ルシアンが「ほう」「それで」「なるほど」などと食いつき。
それに顔をしかめるガルドを見て、メロが肩を揺らして笑う。
――そんな、穏やかな秋の夜だった。
「では、おやすみなさい」
「はい、ごゆっくり!」
メロとそんな言葉を交わし、ふたりが食堂を後にする。
客室へ歩く淡紫の後ろ姿は、先ほどの団らんの名残があり、穏やかに見える。
「いい宿だね」
後ろの護衛を振り返るでもなく、ぽそりとそう呟いた背中は、笑っているような声だった。
肩にかかったストールも、緩やかに揺れる背中も、夜の廊下を照らす灯りが、そこに落とす柔らかな影も、……すぐ目の前にあるが、手は伸ばさない。
「……ああ」
短く返しつつ、その背を見る。
たった今まで団らんの中にいたというのに、あの肩にはまた、旅の気配が戻っている。
一歩踏み出し、並んで歩きながら、隣に視線を落とす。不思議そうに見上げてきたルシアンも、何気ない様子で歩を進めていた。
「……んで、聞いた場所、全部行く気か」
「ふふ」
肯定とも否定ともとれない笑みに、ガルドが緩く肩をすくめた。もちろん、本当に問いただしているわけではない。行くと言われれば行くし、見たいと言われれば見せるだけだ。
何よりも、今はただ、肌寒い秋の夜を感じている。
部屋へ戻ると、窓越しに月の光が差していた。
小ぶりな窓から見える夜空には、澄んだ星が散らばっている。
先に立ち寄ったあの湖でもこの星空は見えていたはずなのに、なぜ記憶に薄いのか――と、ガルドがふと思ったが……、そうか、隣の男を見ていたのだと腑に落ちてしまって、喉の奥でため息を殺した。
ルシアンが、背中にかけていたストールを外す。
柔らかな布地が静かに椅子の背にかけられ、寝間着の裾を整えながら、緩やかにベッドへ近づく。
ガルドはその間に、部屋のランタンを抑えた。
灯りの加減が柔らかくなると、部屋はぐっと静まり返り、秋の夜の温度が際立ってくる。
(……、そういや、あの明け方、……)
――『あのね、いつか私の』と、……何を言おうとしていたのか。
水の魔獣に断ち切られた言葉は、そういえばどこへ行ってしまったのか。
大事なことだったのかもしれない。何でもないことだったのかもしれない。
私の魔術の。私の旅の。私の故郷の。私の、素性の。
枝葉は無数で、けれど何かは言おうと……、
(……してたん、だろうが)
恐らくもうとっくに忘れているのだろうその続きは、結局聞けないままだ。
だからガルドは、黙って自分のベッドにもぐりこむ。
いつかその続きが零れたら、すぐに拾いに行けるように。
ふとルシアンが目覚めたのは、恐らく未明の頃だった。
夜も明けていない。フクロウも鳴いていない。風は静まっていて、けれども夜の気配は遠ざかり始めていて。
毛布を肩まで引き上げる。
隣のベッドでは、ガルドが寝入っていて、緩く肩が上下している。
「……さむ」
声に出たかどうかの、息のような呟き。"なだめて"をしようかとも思ったが、結局その場しのぎだ。
薄暗い部屋の中、視線を巡らせれば、向こうの棚に護衛のシャツが置かれている。恐らく、明日の着替えなのだろうが……、またあれを借りようか、などと、ベッドの中、ぼんやりとした頭がゆっくり思考する。
けれど、今起き上がって、寒い室温の中、あの棚までアレを取りに行って着るのか。
着てしまえば温かいだろうが、体温がないシャツはきっと冷えている――、そこまで思い至って、そのゆるりとした思考のまま、隣を見た。
介抱のために添い寝をしてきたガルドの体温は、温かかったな、――と。
「…………」
かすかに寝台を軋ませ、毛布を纏ったままルシアンが起き上がる。
隣のベッドの脇に立ち、そうして見下ろす、体温の高い護衛。
(……混ぜてもらおう)
――うん、と一つ頷いて、眠い目を瞬かせながら、その隣に潜り込んだ。
ガルドはわずかに身じろぎをして、しかし目覚めることはせず、そのまま眠りの続きに落ちる。
ルシアンも、そのぬくもりに身を寄せて、再び眠りについた。
――【静かな晩に】




