【街道宿の夜】
"薪宿ロサんとこ"。
その帳場の奥には小さな居住スペースがあり、宿の主人であるロサと孫娘のメロは、そこで日々の生活を営んでいた。
メロに案内されたルシアンが帳場の奥の部屋へと足を踏み入れれば、こちらに背を向けてベッドに横になっている影がひとつ。
「お帰り頂いたかい……?」
言いながらもわずかに頭をもたげた初老の男性……ロサが、けれども部屋の戸口に立つ貴族然とした男を見て慌てたような顔をする。――かと思えば、腰にきくりと来たのか、鋭く顔をしかめた。
「――っ……!」
「おじいちゃん!急に動くから!」
なおも起き上がろうとするロサに、メロが駆け寄った。ガルドがこの場にいれば、"そりゃそうだ"といった顔をしそうなもの。帳場裏の私的な場に客――ましてや上等な身なりの客が来れば、無理もない。
「不躾にお邪魔してしまい申し訳ありません、どうかそのままで」
あまりのことにぎっくり腰が悪化する勢いだったが、ただそこに立つルシアンの柔和な物腰に、――ロサもやがて諦めたように、ベッドに身を沈める。
話を聞けば、昨日の明け方に腰をやってしまい、それからずっとこうして休んでいるらしかった。
「いやぁ、お恥ずかしい……」
「大変でしたね。メロさん、一人でご立派でしたよ」
「いやほんと、自慢の孫でねぇ。表の看板見たでしょう。あれもうちの名物なんですよ」
「お、おじいちゃんやめて!」
部屋に小さく笑い声が広がり、それを機にルシアンが一歩、ベッドのそばへ歩み寄った。きょとん、としたのはメロで、ロサも不思議そうにルシアンを見上げる。
「……あ、あの……?」
「お節介でしたら申し訳ありませんが、回復魔法の心得がありまして。よろしければお手伝いできますよ」
「え!!」
パッとメロが、明るく声を張り上げる。まさか魔術師だったなんて、と。
だがすぐに、ロサが慌てて手を大きく振った。
「い、いやそんな!お客さんに申し訳ない!」
「メロさんが頑張ってらしたので。孫孝行だと思って」
――そんなふわりとした微笑みを向けられれば、ロサも黙るしかなかった。傍らではメロが、期待と不安の混じったような顔をしている。
宿の運営において、難しそうであれば客は全員断っていいと伝えてはいたが――真面目な孫娘のこと、少し無理をしてでも対応をしてしまうのではとも思っていた。
腰痛は数日でよくなるだろうとは踏んでいたが、……やはり不安にさせてしまっていたか。
「……では、お客さんのご迷惑でなければ、お願いしてもいいでしょうか」
「ええ、もちろんです」
にこり、と笑みを湛えたルシアンの両手が、横たわるロサの身体に触れる。
手のひらがゆっくりとその身体をなぞるごとに、淡く白い光が、ほのかに舞う。まるで蛍のような小さな光の玉は、穏やかに漂うだけ。
……深く、男性の口から息が漏れた。解けていく痛み。鈍い詰まりが消えるような感覚。
あっという間であった。
「……お加減、いかがですか?」
「――ああ、ええ、これは、はぁ……」
緩やかなため息には、安堵の色が含まれていた。その身体がベッドからごそりと起き上がって、床に足を下ろす。背を伸ばしても、身体を捻っても、もう何の違和感もない。
「いやはや……言葉もありませんな」
「ほんとう!?すごい、ありがとうございます!」
「ふふ、いいえ」
言いながらルシアンが一歩引く。しかし、立ち上がったロサが上体を右に左に捻っているのを見て、やや苦笑するように眉を寄せてみせた。
「治療はしましたが、再発してしまっては元も子もありませんから、今日は休んでくださいね」
「あっ、そうよおじいちゃん!折角お客さんに治してもらったんだから」
「いやいや!だがもう色んなことがほったらかしで……!」
腕をまくり上げて奮起する男性に、ルシアンと少女が入り口に立って止めに入る。メロは大真面目に、ルシアンは面白半分で止めているような形。
「おじいちゃん!だめ!」
「ロサさん、きっとその内、薪割りも始まりますよ」
「なにを……、はっ?……」
「えっ」
メロを押しのけようとしていたロサと、それに真っ向から立ち向かおうとしていたメロが、固まる。
楽しげに銀の瞳が細められて、その時ちょうど窓の外、宿の裏手からコォン――と高い音がして。
「あっ、さっきのおっきなお客さん……」
「なん……なんだって?」
「世話焼きの連れがおりまして」
柔らかな口調でルシアンが説明をしている最中にも、またひとつ、薪を割るような高い音が響いた。
その音があまりにも迷いなくて、ルシアンの表情があまりにも穏やかで――、三人は、ほんの少し可笑しそうに、静かに肩を揺らして笑った。
静かになった宿の方にわずかに気を向けながら、裏手の薪場では、ガルドが宿の斧を振り下ろしていた。
乾いた木材を的確に捉える重い一撃に、木が小気味よく裂ける音が、風呂場の方へも響いている。
斧を振るうたび、外套の裾が揺れ、黒髪が額にかかる。
「…………」
野営ならともかく、宿ともなれば使う薪の量も多い。ひとまずは薪棚の半分ほど備蓄を作れば大丈夫か――などを考えつつ、目の端で風呂の様子も見る。
火はすでに安定しており、湯が湧くまでの時間を使って、今は予備の薪づくりだ。
ひと束分の薪を手早くまとめ、湯場脇の薪小屋に並べていく。生木に近い薪材は、棚の奥の方に。乾いたものは手前に。
見るに、上の段に火熾し用の細薪が束で置いてあり、下に行くごとに太薪が置かれていたような形跡があった。足元の箱には木っ端や細枝、樹皮、木くず……なるほど、この辺は焚きつけ用か。ふん、とひとつ鼻で息をしたガルドが、片眉を上げて割り場へ戻る。
細薪は少し作れば良さそうだ。飯に使うと言っていた中ほどの太さの薪がもうなくなるから、それを重点的に作ろうか。
太薪はさっき風呂焚きで使ったから、あれも足しておいて。
再び斧を振り上げれば、背後の窓がわずかに開いており、そこから室内の笑い声が漏れてくる。
何やら話に花が咲いているようだが、――まぁ、向こうはアレの得意分野である。
「……ったく、どこでも馴染むなお前は」
ぽつりと呟いた声は、風呂場の炎とともに湯気に溶けていった。
「……ダメだ、今日は寝とけ」
ロサにぺこりと一礼をされ、もう治ったと感謝をされたガルドから出た言葉は、ルシアンと同じものだった。
そのぶっきらぼうな気遣いに目を丸くするロサに、ルシアンが"ほらね"といった具合に小さく笑みを作る。
思わぬ後方支援を得たメロにもダメだと押し切られ、……多対一で押し負けたロサは、どこかしょんぼりとした顔で大人しく帳場の椅子に腰かけた。
「薪割り、本当にありがとうございました!お部屋の鍵、魔術師のお兄さんにお渡ししてます!」
腰にエプロンを巻き付け、パタパタと台所へ向かいながら、メロがガルドに向かって笑う。
それに対してガルドも一つだけ頷き、やっとルシアンを振り返った。
「お疲れさま」
「……ああ」
交わされた言葉はただそれだけで、ふたりそろって宿の客室へと歩き出す。
軋む廊下の窓からは、暮れてきた陽射しが差し込んでいた。全体的にこじんまりとしているが、清潔で、手入れの行き届いた建物。
宿奥の客室も静かで、ベッドのシーツも皺なく整えられている。
恐らく、愛されている宿であった。
「夕飯、あの子が作ってくれるのかな」
「……どうせ、横からじいさんが口出すんだろ」
荷を置き、旅装を解きながら、そんな会話をする。重たい外套は部屋の椅子の背にかけ、大剣はベッド脇に立てかけて。
秋の夕暮れではあるが、この宿はどこか暖かい――そんな中。
「…………」
――いや、当然のように同室なんだな、と……、……ガルドが思うが、口には出さない。
カドゥルで同室になったのは、まぁ、宿の女将にその方がいいかと言われたからで……正直、あの時限りなのかもしれないとも、心のどこかで思っていた。
外套のクロークを脱いだルシアンが、それを壁の棚に置き、荷物から取り出した薄手のストールをさらりと背に纏う。
「夕飯まで、休憩しようか」
「……ん。風呂も、そろそろいいんじゃねぇか」
「うん」
要点だけの、短いやりとり。部屋は柔らかな灯りで照らされている。窓の外、落ち葉が風に遊ばれている。
ふとそれを見たルシアンが、革鞄から手帳を取り出して窓際の小さな卓に置いた。
あとは、軽く首を回すようにして、ふう、と一息。
そのまま近くの椅子に腰かけ、背もたれに身をあずけると、ストールの端が緩く流れた。
――横顔に、ガルドの視線がほんの一瞬、止まる。
だがすぐに、無言で窓のほうへ歩み寄り、窓を軽く開ける。外気を確かめてから、ため息をひとつだけ。
「……風もねぇ、天気も悪くねぇ。静かに寝れそうだ」
「ふふ、うん」
肩越しに呟くその声に、小さく笑う声が返る。まるで、"それはいいね"とでも言うように。
そのまましばらく、音のない時間が流れた。
遠くで、かすかに包丁が鳴る音がする。少女が笑うような声も。
ガルドもまた、そばの椅子に腰を落ち着け、手首を軽く回す。
指を鳴らし、手のひらを軽く揉む。――斧の手応えが、まだ残っているようだった。
向かい合い、視線を合わせるでもなく、ただ静かに夜を待つ。
手帳は閉じられたままに卓の上にあり、窓の外はしずしずと陽が落ちていく。
ふと目があえば、安心したように緩む銀の瞳。
「疲れたかい?」
「……いや?」
ふふ、と返される笑みに、ガルドは何も言わず、そっと窓へ視線を外した。
いつもより、肩が緩む夜だった。
――【街道宿の夜】




