【かつて見た滝】
コルグ湖を発ったふたりは、山道の方には戻らず、ゆっくりと斜面を下っていくように森の中を歩いていた。
標高の高い場所にあったコルグ湖は湧水湖で、溢れ出た水が川となり山肌を伝って落ちていく。今は川沿いを離れているが、標高の緩やかなこの山は、川の流れも穏やかなものだった。
件の滝は、ガルドが言うにはそんなに遠くない場所にあるらしく、ルシアンも黙ってその背を追う。
朝の空気の中、木立にはところどころに木漏れ日が差し込んでいる。やや湿った森の空気は、草や土の匂いが濃かった。
木々の葉が擦れる音に、下草を踏む足音が重なる。
歩くたびにカチャリとなる目の前の大剣と、時折確かめるように、肩越しにこちらを向く赤い視線。
秋にくすみ始めた枝葉の下をくぐり、茂みを抜け、森の中をただ進む。
道がないのに歩きやすいのは、枝を払い悪路を見極めていくあの大きな背があるからか。
「――この辺りには、かつての旅の中で来たのかい?」
……その背中に、ルシアンは何気なく声をかけた。
街道からコルグ湖への道のりも、そして今、その下流の滝へと向かう道程も、彼は迷いなく進んでいく。
その背中がわずかに歩幅を緩め、また肩越しに振り返ってみせる。
「ん……覚えちゃいねぇが……依頼かなんかだったか……」
「ふふ、そう。他の大陸も旅してきたの?」
「……あぁ、まぁ……。……一通りはな」
小さく言い添えながら、進む足取りは自然と後ろの気配を意識していた。――ルシアンに、こうして過去のことについて言及されたことは……あまり、ない。
それは互いに互いの過去に触れてこなかったからでもあるし、互いに自身の過去を語るたちではなかったからでもあるし。
気ままな冒険者稼業、何かに従うこともなく、どこかに縛られることもなく。
その時の気分で行き先を変えて、海を渡り、また別の大陸へと流れ。
ただ毎日の飯代や酒代を稼ぐために適当な依頼をこなして、力試しのような感覚で面倒そうな魔獣の討伐依頼があれば赴き、斬り伏せて。
そうしてまた地を変えて、気づけば冒険者ランクは上がっていて、いつの間にか酒代や飯代を稼ぐ必要もないほどに金は溜まり、けれど飲み食いや武器のメンテナンス以外に使い道もなく。
魔獣共はもう大した脅威にもならない。指名依頼はあわよくば囲おうとするものばかり。――まぁ、せいぜいこんなもんかといったところで、ある酒場で声をかけられた。
――『旅の護衛をしてくれる方を、探しているんですが』
「じゃあ、海を渡った後の道行きも心配ないね」
そう軽やかに笑う顔は、あの日とは打って変わった柔らかいもので。
ああ、そうだな、は言葉にはならず、目線で返す。先導していたはずなのに、まるでその肩先が追い付くのを待っていたかのよう。
だから今、繕うことなく、ちょうど隣を歩いている。
「世界中を巡ったら、いつか私たちの故郷も通るかもしれないね」
「……ああ」
……ぐ、と喉が鳴りそうになり、ガルドは前を向き直った。故郷だ云々の前に、お前の素性すら知らないわけだが――などという無粋は、この際もう飲みこむ。意識だけを隣に向ければ、視界の端で、淡紫の魔術師もまっすぐに前を見据えている。
とっくに朝を過ぎた森の陽光は、足元の小枝をささやかに照らしていた。ゆっくりと下っていく斜面のすぐ右手には、静かに聞こえ始めた水の流れ。
「……このまま川沿い下ってくぞ」
「うん、わかった」
下草を踏みしめていく音だけが、静かな森の中に響いていた。
それは、コルグ湖の余水が山の斜面を落ちて下った先にあった。
森がやや拓け、清浄な空気が漂う崖の下。見上げれば、高さ十二メートルほどはあろうかという、細い滝。
それは人の手が入ることもなく、ただ自然のままに、そこにあった。
「ほう……」
小さく感嘆の声を上げて、ルシアンがその白糸を見上げる。
落ちてくる水が、霧状になって周辺に漂っている。秋の欝蒼とした木立がぽっかりと穴をあけた空へ、まるで滝が伸びていくような景色。
森の生き物の息遣い、鳥が羽ばたく音、風が木々を撫でる音――そんな、今ここにあるすべてを、ざあざあと落ちる水の音が包み込んでいた。
「…………」
その様子をちらと一瞥だけして、ガルドが滝の根元へと足を向ける。
水煙が外套を濡らす。足元の岩場には苔。滝が落ち込む小さな滝つぼの外周を岩壁に沿って進めば、その滝の裏には、わずかな洞穴――いや、その名残があった。
いつの間にか後ろを着いてきていたルシアンが、ガルドの肩越しにそこを見やる。
「滝裏があるのかい?」
「ん、ああ……」
そこは、まるで動物の隠れ家のような、滝のカーテンに隠された、小さな空間。
けれどもそれだけで、朽ちた木くずや、吹き込んだのであろう落ち葉があるだけだった。
「……昔な、野営に使った」
「ふぅん……?」
「……濡れる、な」
ぽつりと呟いたガルドが踵を返せば、すぐ真後ろのルシアンと向かい合わせる形になる。――なおも覗き込もうと笑みを作っている雇用主に、両手を広げて"下がれ"と示して。
「なんだい、何かあったの?」
「……もうねぇ。風邪ひく」
ずいずいと迫りくる巨体に、ルシアンは楽しげに笑いながらも、外周を戻っていった。
水音が背後で響く中、ガルドは最後にちらりと洞の奥を確認してから、滝を背に外へと歩き出す。
湿った外套の裾から水が滴り、歩くたびに足元の苔がぐしゃりと音を立てる。
数歩先で待っていたルシアンのもとに戻ると、まだ頬にわずかに笑みを残している気配。
その視線の意味を計る前に、ガルドは自分の濡れ具合を確認するように外套をはたいた。
「……こっから街道まで半日だ。日が暮れる前には道にでてぇ」
「うん」
話す内容は実務的でも、その視線は銀の表情に向いている。まだ滝を見上げる眼差し。口元には笑み。それがこちらへ向いて、また笑って。
「行こうか」
「――ああ」
頷きを交わし、そのままふたり、また森の道へと歩き出す。
水音は徐々に遠ざかり、かわりに森の葉擦れがまた耳を満たしはじめる。
静かな、けれど確かに残る余韻が、背中に張りついていた。また歩き出した森の中、歩幅を揃え、隣に並ぶ形をとっていく。
黒髪から、ぱた、とその肩に雫が落ちる。
分厚い外套もわずかに湿っていたが、本人は全く気にしていない。
「……君、また風邪ひかないだろうね」
「…………」
――"また"……の含みに、アウルグレイでの失態が脳裏をよぎる。そう何度も、風邪をひいて無様を晒してなどいられない。……む、と口を結んだガルドが、頭を一振りして水滴を払う。
まぁ、外套の内には染みていない。そのうち、乾く。
「問題ねぇ」
「そう?」
隣からはやはり楽しげに、そんな声が返ってくる。森はまた日常の顔をしていて、滝の音はもうしない。
ルシアンは、後ろを振り返るでもなく、軽やかだ。
「さっきの滝、いい場所だったね。もうちょっといてもよかったかも」
「……飛沫がやべぇ。あと少しいたらずぶ濡れだぞ」
「ふふ、それもそうだね」
控えめな笑い声が、梢に溶ける。足元の道がわずかに乾いた土に変わり、歩く音もさらさらと軽くなる。
陽の角度が変わり始め、木漏れ日が細く、長く差し込んでいた。
その中を並んで進んでいく二つの影は、時折枝をよけるように手が動き、低木を避けるようにわずかに身体が傾く。
街道に出れば、この穏やかな"ふたりきり"は終わるのかもしれない。
けれど森の中で交わされた何気ないやりとりも、きっとそのまま、旅の景色に織り込まれていく。
足音と風の音だけが、ふたりの前に続いていた。
――【かつて見た滝】




