【コルグ湖にて】
朝陽を背に戻ってくるガルドの姿に――、あまりに出来上がりすぎているなと、ルシアンは一人、笑みを堪えていた。
コルグ湖にはもう、何の気配もない。さざ波も穢れすらもなく、風のない朝、揺らがぬ湖面は鏡のように空と対面の山を、そして護衛の姿を映していて。
彼が、この景色を連れてきた。彼が、この景色に連れてきたのだ。
それがあまりに出来上がりすぎていて――油断をすると、思わず笑ってしまいそうだ。
「……んだ、にやにやしやがって」
「ううん……ん、ふふ、なんでもないよ」
戦鬼の如き男は、なぜ笑われているのか皆目見当もつかないようで、眉をひそめて自分を一瞥。ついで背後も一瞥。……だが答えにはたどり着けず、眉をひそめたままルシアンに振り返る。まぁようわからんが、笑ってるなら良しとしよう、とでもいうように鼻をひとつ鳴らした。
「頼りになる護衛がいて、何よりだよ」
「……そっかよ」
ぶっきらぼうに返しながらも、ガルドの足が土を踏みしめる。久々に降り立った地面は、やはりちょっと恋しかった。
東の山の稜線から、今日という日が始まっていた。
徐々に水面に光が注がれる。わずかな風に揺れる水面は、朝陽を浴びてちらちらと瞬いているかのようで。
「…………」
「……これは、見る価値があるね」
足元を濡らさぬようゆっくりと歩きながら、ルシアンが水際へ立つ。
淡い陽光に照らされるその姿は、静謐の中にどこか神秘めいた気配を漂わせる。――わずかにだけ、その横顔に視線を留まらせて……。
「……ああ」
……ガルドも低く、ただそこへ置くように答えた。
魔術師。雇用主。
ただの旅人。
だが、どこか"それ以上"の存在。
その輪郭を前に、喉の奥からはもう、これ以上の言葉は出てこない。
言葉を探しかけた瞬間、ルシアンがゆるりとこちらを見る。
「そうだ、また次シャレンと戦うときは、一体持って帰ってきてね」
「……ああ?」
「ちょっと見てみたかったし……珍しい魔物だから、市場や研究の分野でも需要しかないと思うよ」
「てめ……先に言えよそれ……」
呆れたようなガルドの声に、ルシアンの柔らかな笑みが返る。
それは微笑ではなく――けれども安堵とも、感謝とも違う。ただ、まっすぐに"そこにある"眼差し。
それを正面切って食らったガルドが、苦々しげに舌打ちをひとつ。湖の中ほどに視線を投げたのは、沈んでいった貴重な素材たちを名残惜しげに……見た、ようにして、……隣から目を逸らしただけかもしれなかった。
頭をがしりとかき、ため息をひとつ。――ああ、そうか、次な、次。俺はまたいつかここに来て、またお前の魔法で水の上を走って、今度はあれをとっ捕まえてくるわけだ。なるほど、悪くはない。
ガルドの喉元まで出かかったそんなぼやきは、再度の舌打ちと共に飲み込まれる。
代わりに彼は、空を仰いだ。
湖面に差し込む朝陽が、緩やかに色を変える。瑠璃色は、黎明を受けて金色を湛えている。
冷たい夜の青が、黄金に溶けてゆく。確かな夜の終わりを告げる、そんなひと時。
「だから、また来ようね」
「……、ああ」
返したガルドは、まだ空を仰いだままで。
それを見て、またひとつ、ルシアンは肩を揺らした。
すっかりと陽は昇りきり、夜明けの静けさはとっくのとうに消えていた。
森が風に揺れ、辺りは鳥たちの鳴き声や森の生き物の気配にさざめいている。
何事もなかったかのような瑠璃色を背に、ふたりは野営地の撤収作業を行っていた。
天幕をたたみ、毛布をしまう。灰を均し、火の始末をする。鉄杭を抜くガルドの背に、小物をしまい込んだルシアンの声がかかった。
「次の街は交易都市だっけ?……確か、レストロワ」
「ん……」
ロープや杭を手早くまとめながら、ガルドは荷を背負い、革の留め具を締める音をひとつ鳴らした。
そのままルシアンに向き直り、視線を少し巡らせる。
「……交易路が、……交差するとこだ。人も多い、街もうるせぇ」
「ふふ、うん」
「この大陸で一番でけぇ街だ。……迷子んなんなよ、面倒だ」
人の多い街で、男からも女からも目立つこの男が迷子――などという、心底面倒な顛末を思い浮かべてしまったのか、ガルドの眉間に皺が寄る。
ルシアンが肩をすくめたのは、せめてもの不服の表明だ。
「……ふむ、物も食べ物も種類が多そうだね?」
「まぁ……飯も宿も店も多いな。……お前、またああいうの選ぶなよ。セレフィーネん時みてぇなたけぇ宿」
「ええ……?」
お小言の絶えない護衛と、歩き出す。コルグ湖を背に、また山道へ。最後に一度だけ振り返った銀の瞳に、何も変わらずに凪いでいる、鏡面の湖が映った。
そのままふたりの足並みは、朝の光が差す森の中へ。
「……。……なぁ」
「うん?」
落とされたガルドの声に隣を見上げれば、眼差しはまだひそめられたままに、山道の先へと向いている。
……わずかばかり、言いにくそうにした後に。
「……コルグ湖から出た川が、滝になってるとこ、ある」
ぶっきらぼうなまでに低い呟きに、――ルシアンが、また、瞬きをひとつ。
だがやはり目尻に笑みが浮かび、その足取りは半歩、護衛のそばへ寄る。その肩先を見たガルドが、ほんの少し眉間の皺を緩めた。
「……ちと迂回して、下るぞ」
「うん」
「獣道通るから、足場も悪い」
「ふふ」
木漏れ日の中に溶けていく、穏やかに笑う声と、どこか照れたようななぼやき。
それでも交わされる笑みは、端にかすかに、朝の残光を含んでいた。
――【コルグ湖にて】




