【人魚シャレン】
ルシアンの、魔力制御の精密さは、母譲りのものであった。
山の稜線にまだ朝陽はない。けれどもその光は、徐々に世界を包み始めていた。
伸ばした腕の先、その指先から、湖の広範囲に魔力を張り巡らせる。向けられた手のひらの動きは緩慢で、それでいて丁寧で、さながら見えない糸を手繰るかのようだった。
湖面を駆けていく大柄な身体の、軌道を読む。踏み込んだ足が沈まぬように。あの瑠璃色を大地のように。
しかしシャレンが飛び出そうとすれば、そこだけ魔力を抜く。水は途端に水となり、ぱしゃりと冷たい飛沫を上げるのだ。
銀の視線が護衛を追う。
魔獣がどう出て、彼がどう応えようとしているのか。次の斬撃を打ち込むために、どこを踏み、その赤い瞳がどちらを見ようとしているのか。
シャレンから見た彼の"隙"はどこで、その隙を打つために奴らはどこを狙おうとしていて、彼はいつそれに気が付いて、その水面のどこに次の一歩を――。
「……ふふ、」
感知に沈み、水流を読み、瑠璃色の水中の、見えないシャレンの動きも見る。
膨大な魔力を絶え間なく流し続け、局所的に支え、瞬時に抜き、常に追う。
責任を感じてなどいない。焦りも困惑もない。あるのはただあの護衛が、自分が設えた仮初めの舞台で、この手を信じ切って魔獣に相対しているという事実。
それが、どれほどこの頬を緩めるか。
彼――ガルドに魔力はわからない。こちらが何をしているのかなど、説明をしても片眉だけで返事をしそうで。きっとああしている今も、"魔術師ってのはそんなもん"と思っているのだろう。
それが、どれだけ心地いい"自由"か。
一度もこちらを振り返らない大きな背が、また青白い魔獣を、一閃。
「あ、……シャレン、見てみたいって伝えてないや……」
小さく囁いたルシアンの声は、とてもじゃないがガルドには届かない。すでに斬り伏せられていた魔獣の身体が、硬質の水面に重く倒れ込む。
黒く濁った血が、瑠璃の湖面に広がって、まるごと飲みこまれていく。
「ああ……沈んでしまう……」
残念そうな声が、ぽつり。――とはいえ、まぁ、珍しいから見てみたいというだけで、あの素材が欲しいとか研究をしたいとか、そういう類のものでもない。
なにより、だからといってわざわざこの水の大地にあがって行って、「ちょっと近くで見せてね」なんてしようものなら、折角の舞台の邪魔をしそうで。
「……まあ、またの機会でいいね」
「…………」
……なんか妙に見てやがるなと、ガルドもその視線を背に受けていた。
鋭く息を吐き、じりりと残る一体を睨む。その瞳は赤く、逸らされることはない。
対するシャレンも背を丸め、爪を立てて低く唸っていた。
同族が二体も斬られていて逃げもしないのは、単にその獰猛性によるもの。人魚の通称があって上半身が人型に近くとも――所詮は獣なのだ。
青白い膜が張った目は、……こちらも眼前の"獲物"から逸れることはない。その前脚が水を引き裂くように水面を滑れば、低く飛沫が上がり、次の瞬間には跳ね返るように水中へ。
――とぷり、ガルドもその水飛沫を目で追うが、瑠璃の湖面が阻む。深く潜っていった魔獣の身体は、なるほどこの湖によく溶けた。
しん――、と……束の間だけ、静寂。
しかしその一瞬の気配の変化を、ガルドは見逃さなかった。
目には見えぬ足下の水流、ひそやかな害意、――水の流れが不自然な軌跡を描いているのが見えたのは、湖を手に取る魔術師のほう。
ぬら、とガルドの背後へ、回り込むような揺らぎ。
だが、ふたりの眼は欺けない。
水流がねじれたその瞬間、ガルドの斜め後方、硬化した湖面が一部だけ融け落ちる。
シャレンは"そこ"が開かれた道だとは知る由もなく、鬼の首を取りに――、
――いや、"刈られ"にか。
「よぉ」
軋むことなどない湖が、踏み込んだ重さで悲鳴を上げたような錯覚があった。巨躯の重さを乗せた一撃が真上から振り下ろされ、黒鉄の刃がその胴を叩き伏す。
断末魔もあげさせず、青白い身体ごと、大剣が湖面を打つ。バシャ――と跳ねあがる水飛沫には、瑠璃と赤黒い血の色が混じり合っていた。
そこからぞぶりと大剣を引き上げれば、瑠璃色の湖上には静寂が戻ってくる。
沈んでいく血の気配と、硝煙のような魔力の余韻だけがそこにあるだけ。
赤い眼差しが、静かに水面を見下ろした。
水面がゆらりとたゆたっている。けれど自分の足は沈まない。
「……魔術師ってのは、皆こうなのか」
あらためてそうひとりごちて、足先を湖畔へと向ける。
顔を上げれば、白んできた朝の光の向こうに、柔らかな微笑みが見えた。
――【人魚シャレン】




