【朝焼けを待って】
――まだ、夜が明ける前。
夜露を凌いだ天幕の下、ルシアンは薄ぼんやりと目を覚ました。
視線を巡らせれば、焚き火は潜まり、黒く炭化した木がチラチラと火種を残している。
その傍らには、座ったまま目を閉じ、静かに仮眠をとっているらしき護衛がいた。
秋の朝、とりわけ水辺は――やはり冷える。
毛布を剥いで起き上がったルシアンが、着たままだったクロークの襟元を緩く寄せる。
旅の当初はなかなか慣れなかった野営も、いつの頃からか、ガルドが心地よい空間を作ってくれるようになっていた。
それは小さなランタンがあるだとか、風を通さない毛布があるだとか、そういった実務的なものだけでは無い。
何より信頼のおける護衛の存在そのものが、結局は一番ルシアンの心を穏やかにしていた。
天幕を抜け、足音を潜めて、その大きな身体の隣に腰かける。閉じられた瞳は静かで、呼吸も規則正しい。
この男、野営時は特に、音や気配にひどく敏感だ。――それこそ、獣のように。
だがこうしてルシアンだけには、もう"警戒"といった類のものが働いていないらしく……。……口元に笑みを浮かべ、寝顔などを覗いてみる。
「……"無哭"の寝首をかけるのは、私くらいだね?」
小さく笑うルシアンの呟きに、ぴくりと、ガルドのまぶたが動いた。薄く開いた瞳が、ちろ、とルシアンを向く。
「……、……誰が寝てるっつった」
「おや」
赤い眼差しを細めながら、かみ殺すようなあくびをひとつ。覚醒というよりは、気配を感じ取って意識だけ浮上させたような――そんな緩い醒め方だった。
「てめぇは……気配がやたら甘ぇ」
低いぼやきは、文句のようなもの。指先でぐり、と目元を擦り、無造作な髪を片手でぐしゃりとかき回し、ようやく腰を伸ばす。
高地の秋の未明、世界はまだ夜の続きにあり、朝靄すら出てきていない。冷気がじわりと肌にまとわりつく。
ルシアンがクロークの襟元を寄せているのを見て、ガルドも黙って焚き火に薪を足す。
「……まだ暗ぇ。戻って寝てろ」
顎で天幕を示すその声色はぶっきらぼうで、けれど気遣う色もあった。わずかに蘇った炎は機嫌を取り戻したようで、ぱちりとひとつ鳴いている。
その灯りに照らされ、すん、と鼻を鳴らしたルシアンは、穏やかに微笑んだまま――けれど頷きを返すこともせず、ひょい、と天幕に引っ込んでいった。
片眉を上げてその背を見送っていたガルドに、すぐに戻ってきたルシアンが笑みを向ける。
その背にぐるりと毛布を背負っており、焚き火を挟んでガルドの向かいに座った。
「朝焼けを見るんだよ。楽しみでもう眠れないね」
「ああ……」
楽しげな表情に、呆れたような、ほんのりと笑うようなガルドの声が返る。
まったく、"景色"に関しては本当に徹底した男だ、と――淡紫を見るガルドの眼差しは、やれやれといった具合だ。
「起こす手間ァ省けたな」
「ふふ。居眠りしてもいいよ。起こしてあげる」
「バカ言え」
まだ夜も明ける前の畔に、火の赤と、また影が二つ。毛布の中、顔の前で両手を合わせたルシアンが、じっと湖を見たまま、――やがてその両手で自分の頬を包む。
焚き火にもう一本薪を足しながら、ガルドがそれを目の端で見やる。
「……てめぇ、自分だけ"なだめて"してやがるな」
「ふふ、うん。暖かいよ」
湖を見たままに、ばれた、と笑う横顔。ぱちり、ぱき、小さく炎が爆ぜる音。
静かな朝の気配はもうすぐ。風もなく凪いでいる湖。狭霧が水際に低くたなびき始めており、湖面と岸の境が曖昧になっていく。
薄まってきた空には雲もなく、もうすぐ白んでくるだろう。
「……ガルド」
そんなコルグ湖を見つめたまま、ルシアンがふと、呟いた。まるで冷気に溶けていきそうな声。
声にはせずに視線だけを返したガルドに、視線を返さずに声だけを、返す。
「……あのね、いつか私の」
――、――
途端、湖の中央から、鋭い気配が上がった。
ふたり同時にそちらを向く。音はない。けれど、静寂が破られた。
朝靄が這う湖面の中央――より、やや奥側か。……何もいない。しかし瑠璃の鏡が裂けるように、なにかが。
……ざり、と鳴ったのは、そちらへ肩を向けたガルドの靴音だった。
座ったまま、手が傍らの大剣へ伸びる。静かに、音もなく――こちらを見ている気配。
「――なんかいるな」
「うん」
ガルドが唇の端を引き、その赤い瞳が、ゆっくりと細められる。――邪魔しやがって、というような悪態は飲みこまれ、穏やかなまでにすらりと大剣を抜きはらったのは……感じた視線が"害意"だったからだ。
ちら、とその横顔を、そしてその手元に視線を向けたルシアンが、肩の毛布をゆっくりと落とす。
場違いなまでに柔らかな緊張が、静かな湖畔にじわりと広がっていた。
湖面から、ぬら、と現れたそれは、もう沈んでいった月の残滓を引いていた。
薄闇の中、水上にせり出したその肢体は人の身体のようでいて、随所にヒレや鱗が窺える。
目には青白い膜が張り、髪のようなたてがみはぞろりと長く、重く水面に垂れ下がっていた。
「……ガルド、人魚シャレンだ」
「ああ……?」
ルシアンが、じわりと立ち上がった護衛の背中に声をかける。
「水棲の魔獣だよ。この辺りの地域に棲息しているとは聞いたけど、目撃数が少なくて詳細は不明でね」
「……ああ、んで」
「"人魚"なんていう神秘的な通り名があるけど、肉食の獰猛な魔獣だ」
ぽつぽつとルシアンが話をしている最中にも、一体、また一体と、水面には全部で三つの影が並びきる。
「……陸には上がってくんのか」
「さあ……けど、水中ではかなり機敏に動くらしいから、潜水での戦闘は分が悪い。水際の獲物を引きずり込んで、捕食をするのかもしれないね」
「…………」
……の場合、その獲物っつうのは俺たちだが、と言わんばかりのガルドの眼差しに、ルシアンが小さく肩をすくめた。シャレンはこちらの様子を窺っているのか、波間をゆらゆらと漂いながら、その視線をふたりから外すことはない。
じりじりとその距離が寄ってきているようにも見えるが、……水際に寄らなければ、回避をすることも……、――とはいえ、"アレ"がいては……。
「朝焼けに差し支えるね……?」
「……はっ」
口の端を歪めて笑ったガルドの身体を、ひたりと防御魔法が包む。それは、――構わん、暴れろ、という言外の合図にも似ていて。
――こいつの景色を邪魔しようものなら、竜すら排除されそうだ。そう考えると、あの山の赤い竜はある意味、命拾いしたのかもしれないな、などなどを頭の隅でぼやきながら、ガルドが一歩を踏み出せば。
「湖の水は私が固めておくよ」
背中側から聞こえた声に、がつ、とガルドの足が止まった。
「……、なに……?」
「君は大地を駆けるように行くといい」
前方、シャレンを睨んだままのガルドの視線の端に、湖に向けて伸ばされた腕が見えた。そしてその言葉が終わる先から、湖面が、たゆたう動きを止めていく。
凍っているのではない。水の揺らぎはそのままに、固形になっているのだ。
「……さすがに水の上走ったことはねぇな」
しかしわずかに口角を上げ、ガルドが歩みを進める。大きな影が水際に差し掛かり、ためらうことなく踏み込んでいけば――靴底は、ぴしゃ、と水を踏んだ感覚で、……なのに水底は遠く、この巨躯を難なく支えた。
ならば、これは瑠璃色の地平である。
白み始めた空には風もなく、まだ鳥の声もない。
湖に響くのは、足元の水を踏む音と、背後で薪がやわく崩れる音。
ひそりと顔色を変えた湖面の上に、何事もないようにシャレンが浮いているのは、そこだけ魔力が抜いてあるからか。まるごと湖を固めてシャレンを拘束しないのは――。
(――また"見せろ"ってか)
手に提げた大剣の切っ先が、湖面を掠る。筋を描くように小さく飛沫が上がる。
次の瞬間、靴底が"地"を蹴る音とともに、その巨躯にぐんと加速が乗った。
「楽しんで」
……笑みを含んだようなそんな声が聞こえた気がしたが、振り返らない。
あたかも平地を滑空するような、重さを殺した足運びは――びくりと身を引いたシャレンの懐へと一直線に。
真正面の一体が、甲高い鳴き声を上げて口を開いた。首との境が曖昧な縦長の顎、口内には歪んだ細かい牙がずらりと並び、青白い舌が覗く。
威嚇か、目くらましか、水とともに激しく尾を巻き上げ……、
……が、遅い。
どしゃりと重い踏み込みののち、水を抉った大剣が斜めに斬り上がった。
鉄塊が唸りをあげ、硬化した水を削り飛ばしながらも、鋭い斬撃がシャレンの胴を裂く。
湖上に赤い飛沫が弾けたが、ガルドが足を止める理由にはならない。ぐるりと囲うように旋回しながら、次の一体との間合いを詰める。
その動きの下、ルシアンの魔法が、まるで地形のように波打ち、硬化した水面を滑らかに保ち続ける。
手のひらは緩く宙をなぞっている。指先がガルドの足元を追う。目元には笑み。口元にもほろりと微笑み。――それはひどく満足げな表情で。
一陣の風が吹き抜ける。
朝陽はまだ昇らず、湖面はまだ暗色に沈んでいる。
その静けさの中で、斬撃だけが、鈍く低い音を響かせていた。
――【朝焼けを待って】




