【そこまでの手】
一刻ほど山道を歩き続け、コルグ湖にたどり着く頃には、日が傾きかけてきていた。
山の稜線に触れている夕陽が、辺りを橙に染めている。湖面を滑る風は、ささやかに波間を揺らしている。
瑠璃色を湛えるその水は、秋の夕暮れに照らされて、雄大にそこにあった。
「これは……素晴らしいね」
畔に立ったルシアンが、凪いだ湖を見渡して、ひとつだけ呟く。その隣に並び立ち、ガルドも同じように眺める。
沈む陽が瑠璃色に反射して、その光が――ルシアンを照らす。
色彩の淡い主は、今にもこの景色に溶けていきそうであった。
「――まぁ、……いい眺めだな」
返された声は、どこかぶっきらぼうだった。水面を渡ってくる秋風が心地いい。
湖畔を取り囲む木々は、ところどころが赤や黄に色づきはじめている。淡紫の前髪が、風でわずかに乱れる。
その隙間から見上げてきた瞳が、ガルドに向いて、静かに和らぐ。
「朝陽が昇る様も見てみたい。今日はここで、このまま野営を張っていこう。朝焼けが溶けた湖も、綺麗だろうから」
「んん……」
わずかに顎を引きながら、ガルドがちらと空を見上げた。
西の空は朱に染まり、風の流れも悪くない。天候が崩れる様子もなさそうだ。あたり一帯は、訪れる夜の気配に静けさを抱いている。
「……わかった。寝床つくる。……お前は景色でも見とけ」
そう言ったっきり護衛は畔から引き返して、湖を囲む雑木林の外縁で荷を降ろした。野営の支度に取りかかる手つきは、無駄がない。
風下を選び、地形の傾斜と湖からの湿気を読みながら、手早く平らに地を均して焚き火用の石を組む。ポーチから乾燥樹皮を取り出し、組んだ石の真ん中に放る。
周囲の気配は、野生動物くらいか。……魔獣の痕跡はなさそうだった。
焚き火の位置から少し離した場所に杭と支柱を打ち込み、天幕を張りながら――。
ふと視線を湖畔に戻せば、ルシアンはまだ湖を眺めていた。
まるで、すでに朝焼けを思い描いているかのように、穏やかに。
「…………」
気に入ったんなら、何よりだ、とか。
お前の景色になったか、……とか。
口には出ない。思い浮かべただけで、火打ち金に打ち付けた短剣の音に、かき消された。
カン、――カン、鋭い音が、静かな風景に響く。
その音に振り返ったルシアンが、わずかに頬を緩めながら、焚き火のほうへと歩いてくる。
「薪、拾い終わっちゃったかい?」
「ん……いや、まだだ」
「うん、じゃあ拾ってくるね」
散った火花が手の中の火口に小さな炎を灯し、ガルドがそれを石組みの中に放り投げた。足元に転がっていた適当な細い枝を、ひとまずは突っ込んで。
「おい、俺も行く」
一歩遅れて、林の中へ向かった銀糸の外套を追う。背後からは、風が湖面を撫でる音が聞こえるだけ。
湖はそのたびに、瑠璃色の光を細やかに震わせて返していた。
夜の野営地は、遠くどこかでフクロウが鳴き、かすかに風の音がしていた。
ガルドはその場を離れ、林の中ほどで見つけた水場で、食事に使った食器の始末をしている。適当に水を切りながら戻れば、ルシアンは焚き火の傍らに座り込み、夜に更けるコルグ湖を遠目に眺めていた。
ガルドの足音に、わずかに振り返るようなそぶりを見せるが……けれどまた、湖へと視線がいく。
「夜番、今日は私が先にしようか」
「……んん」
背嚢に食器をしまい込みながら、ガルドが喉の奥で唸る。こうした野営時の夜番は、夜更け、月が天を回る頃に交代をして、順に仮眠をとるのが常になっていた。後先に関しては、その日の気分で適当に決める。
――寝ずの番でも、まぁ、苦ではないが……それを許す雇用主ではない。
「……わかった、それでいい」
「夜半に起こすね」
「ん。……朝焼け見るなら、早起きしねぇとな」
ルシアンの耳に届いたその声は、いつもより低く、ほんの少し掠れていた。
振り返れば、焚き火に照らされて赤く染まる黒髪。――す、とこちらを見下ろして、すぐに目を逸らす。
「……起こしてやる。寝坊しねぇように」
「ふふ、うん。お願いね」
「まぁ……、寝坊したところで、お前が映ってりゃ、それで済みそうだ」
足元に落ちるようなそんな呟きは、まるでルシアンに向けて言ったのではないかのようだった。
きょとん、とした瞳が、ガルドの方を見やる。
――しまった、というような視線が、一瞬だけ淡紫を向いて。
けれど、それ以上何かを足すでもなく、引くでもなく。
「……私が綺麗だと言ってるかい?」
首を傾げたようなルシアンの声音に、……意地の悪さやからかいはなかった。
ただ静かな微笑みだけが、焚き火が爆ぜる音に消え入りそうで。
だからガルドは舌打ちもせず、ただ小さく息を吐く。
「…………るせぇ」
「ええ……」
苦々しげな護衛の顔は、さしずめ、"勝手に聞きやがって"といったふう。
足元の薪を、火の中にくべるように放る。赤い瞳は、もう炎の中から上がってこない。
それでも口を開いて、――何も言わずに閉じ、……もう一度開く。
「……キレーだなんだ、そういうのは……」
言いかけて、焚き火がぱちりと音を立て、それをきっかけに、ガルドは続きを呑み込んだ。
代わりにがし、と頭を掻き、どうにも困ったように眉を寄せて、ルシアンの隣に腰を下ろす。背を火に向けていた。
「……水は……、映してるだけだ。空だの、風景だの」
「…………」
「けど、お前が映ると……最初っから、そうだったみてぇに見える」
言ってしまった自分の言葉に、自分で眉を寄せる。
言い慣れないことを言うもんじゃない、というのは……誰よりも自分が一番わかっている。うまい言葉も出てこない。だが、それ以上はもう何も言わなかった。
「……、そう……」
「…………」
ぽそりと返しながらルシアンも、予想外にまっすぐな言葉が返ってきて、わずかに目を開いていた。
この護衛のことだから、舌打ちをして、文句の一つでも言いそうなものなのに、と。
だからこそ、その言葉の静けさに、頬が少し――、隣から目を逸らす。
火の粉が宙に舞い、星のように瞬いては、夜気に溶けて消えた。
湖面も今はただ、浮かび始めた月光を映して静かに息づいている。
返事の途絶えたルシアンに、――ひくりと、ガルドの視線が揺れる。指先が冷えていく感覚。
今まで、隣の男の見た目に言及したことは、ほとんどない。自分の中性的な見た目を、きちんと理解している彼。"嫌ではない、けれど疲れる"と、旅のどこかで言っていた記憶もある。
しくった、と思った。やらかした、……と。
目の端で、隣をそろりと見下ろす。火に向いた顔は、俯いていた。
「――……」
先行したのは、心配。
またどこか具合が悪いのか、――まだ魔力が不安定なのか。……夜風で冷えたのか。
「……おい」
と呼びかけて覗き込めば、スッと眼前に手のひらを差し出された。
というよりは、視線を遮られた。
――向こうの目元が、見えない。
「……ふふ、ダメだよ、ガルド」
「は……」
明確な制止の言葉と、初めての、真っ向からの、「ダメ」。
思わず突き刺されたような気持ちに――なる、が。
手のひらの向こう、口元が微笑んでいる。声色は、やはり笑んでいる。
背筋がぞくりとする。
それは、……この手のひらは、拒絶ではないのか。否定でも、……もちろん仮面でも、……。
「……チッ」
辛うじて、何とか、舌打ちを返す。
けれどため息は、もうほとんど"降参"に近い。手のひら越しに見ることすら叶わない、その銀の瞳。
だが、笑っている――確かに。それだけは、まるで皮膚の下から伝わってくるほどに、はっきりと。
「……てめぇ、たちわりぃんだわ」
低く唸るように言って、眼前の手のひらをそっと払いのけた。触れるには近すぎて、見つめるには強すぎて、どうにもならない距離。
それでもガルドは座ったまま、不機嫌そうに鼻などを鳴らしてみる。……ほんの少し、肩先が触れるくらいの微細な寄りかかりと。
「……もう喋んねぇ」
悪態をつくような口調とは裏腹に、声には熱がなかった。
そのまま、ただ焚き火の爆ぜる音に身を任せる。
月光の中、湖面に二人分の影が映っていた。
――【そこまでの手】




