【おはようの温度】
ぼやり、と……ルシアンが目を開けた。
視界に入った窓の外、陽が高い。
頭の下にある腕が、そのまま自分の肩を包んでいる。
後ろから回された手が、身体を包んでいる。背に、大きな身体を感じる。
――ああ、守られていたんだね、と腑に落ちた。
もう一度目を閉じる。
全身に温もりが回っていた。充実した魔力の巡りも感じる。
あのひどい苦味の回復薬と、保温と、安心感のおかげかな、と思った。
――しかしながら。
(…………起きてるね……)
背中側、そんな気配を感じた。
下手をすれば、一晩中寝ていなかったのではないか、とすら思う。……この護衛は、そういう男だ。
律儀というか、献身的というか、もはや捨て身というか……過保護が過ぎるというか。
そのくせ、たとえば今こちらが振り返ったら、悪態をついて逃げかねないのだ。
「…………」
しばし考えたのち、枕になっている腕の肩口に、とん、とルシアンが後頭部を預けた。――ぐっ、と詰まるような声が聞こえる。
ほら、やはり起きていた、と頬が緩んだ。
「っ…………飯、行くか……」
頭の後ろから聞こえる、絞り出された掠れた声に――ふふ、と笑って、頷いた。
そのかすかな笑い声に、ガルドが喉の奥で息をのむ。全身に張っていた緊張が、やっとほどけた気がした。
いたずらのように預けられた、頭の重さが嬉しかった。
もう大丈夫だと言われているようで、それが何よりも救いに思えて。
「……立てるか?」
「うん」
声をかけながら、ようやく背中から離れる。
開いた腕から起き上がる所作に、昨日までのような不安定さはもうない。
そのままベッド脇に足を下ろし、静かに立ち上がる。ガルドも同じように。
肩越しに振り返ったルシアンは、まだやや薄い顔色の中にも、目元に微笑みが戻っていた。
「……お腹ぺこぺこだね?」
「……おま、お前なぁ……」
零れた悪態は、もう悪態の体を成していなかった。腕を組もうにも、舌打ちをしようにも、頭を抱えようにも、もうどうにも誤魔化せない。
――お前が無事でよかった……は、もう何をどうしても誤魔化せない。
とん、とルシアンの頭に置かれた手のひらは、その手つきは、少しぶっきらぼうで、それでも丁寧で。
「チッ……顔洗って、飯だ」
「うん」
そっぽを向いた護衛の声に込められた、怒気と、心配と、安堵を、……ルシアンはすべて汲み取って、ただ優しく笑った。
その笑顔がまた、"ありがとう"とでもいうかのような光を含んでいて、ガルドは渋面のまま、また顔を逸らすしかなかった。
ざわめく宿の一階。
食堂は朝の喧騒も一段落した頃合いで、常連らしき冒険者や商人たちが、それぞれの席で軽食や準備を進めていた。
そこにルシアンとガルドが姿を現すと、気づいた従業員がハッとした顔をして、慌てて厨房へ駆けていく。
入れ替わりで姿を見せたのは、嬉しそうにした女将だった。
「兄さん!おはよう、顔色がいいね!」
「おはようございます。昨夜はお恥ずかしいところをお見せしました」
ルシアンもまた、そう微笑みながらガルドと並んでカウンター席に座る。
街着の襟を整え、笑みをたたえるその姿は、まるで舞台に現れた貴族のような気品をまとっていたが――、その笑みに、わずかに気まずそうな照れの色が混じったのを見た女将は、目尻を下げて笑った。
「あらまぁ、……反省はしてるようだね?」
「ええ……これでも一応」
からりと笑う女将の声に、隣で肩をすくめたガルドが、呆れたようにルシアンを見やる。
「……おめーのせいで俺まで怒られた」
「ふふ、そうだったね」
「こええ女将だぜ、ったく」
ふたりのやりとりを見て、女将はくすくすと笑いながら、ガルドの肩をぽんと叩いた。
「冒険者連中は、二度と帰ってこないこともままある。あんたが連れて帰ってきてくれて、何よりだよ」
そう言って、厨房へ朝食の支度をしに行く背中。
ガルドもそちらを一瞥だけして、また隣に目を向けた。
水のグラスを手にしたルシアンは、――微笑みが少しだけ、柔らかく、深くなっていて……まるで、それがまっすぐ心に沁み入ったようにも、見えた。
小さく目を伏せたその仕草には、いつもの柔和さとは違う温度。カウンターに肘をついて、それをじっと見ていたガルドが、ぼやく。
「……あの女将には、お前の"仮面"も通用しなさそうだな」
「……ふふ」
小さく返された、そんなはにかんだ笑いに――ガルドは満足げに鼻を鳴らした。
食事を済ませた後も、ふたりの間にはしばし静かな時間が流れていた。
食堂は、相変わらずざわついている。背後の席では、今日の取引について話す商人たちの声が飛び交い、窓際では、地図を広げる冒険者が頷いている。
だがルシアンは、騒がしさなどどこ吹く風といった様子で、手帳を広げたり、飲み物を口にしたりと、いつも通りの所作で静かに過ごしていた。
ガルドはその横顔を盗み見て、思う。
(……なんも、変わっちゃいねぇ……)
あの異常な魔力濃度の中、竜の目の前に立ち、己の魔力を尽くして向き合った男とは思えない。
だが――昨夜、腕の中にいた時の感触を思い出せば、どれだけの無理を重ねていたのか、肌でわかる。
(……また、"通り過ぎただけ"ってか)
ため息になりそうな感情を、喉奥で飲み込む。
ギルドで依頼を受けたわけでもない。
どこかの機関に頼まれたわけでもない。
ただ、この魔術師の好奇心のままに首を突っ込んで、ちょっと魔物と相対して、魔力を空にして、帰ってきただけ。
(…………)
――"だけ"、の度合いが、どんどんわからなくなる。
なのに隣の魔術師が平然としすぎていて、常識と非常識の境が、日に日にぼやけていく。
その視線に気づいたように、ルシアンが小さく顔を向けてきた。
細められた眼差しに、いつもの柔らかな微笑。けれど、どこか照れたような――安堵と、信頼が滲んだ眼差し。
「……まだ怒ってるかい?」
……その穏やかな一言だけで、また何も言えなくなって……ガルドは鼻を鳴らし、カウンターに肘をついた。
言いたいことは、山ほどあったが。
「……、……まぁ、」
「……?」
「……俺もお前側になってきたってとこか」
諦め混じりのそれを聞いた隣の肩が、くすぐったそうにふるりと揺れていた。
宿の空気は、またいつも通りに戻っている。
けれどその"いつも"には、確かに――ひとつ、踏み越えた温度が宿っていた。
――【おはようの温度】




