【帰還の腕】
山を背に、山道を下り、穏やかな風の音すら遠のく中。
――ガルドは、一言も発さずに、歩き続けていた。
その足取りは、戦場でのそれよりも慎重で、なにより丁寧で。
腕の中に抱えた存在が、――重い。
体温も、重みも、息遣いも、ずっと共にいたはずなのに、遠い。
……こうして運ぶのは、ベルミードで魔力核が封鎖された時以来、か。
ふとした振動に、首元でルシアンが呻いたような気がして、足を少し緩める。
「……大丈夫か」
ゆっくりと抱え直しつつ、囁くように、けれど声は震えないように、そう聞いた。
わずかに持ち上がった手が、ガルドの胸元に一度だけ触れ……はく、と、何事か呟いている。
耳を近づけるように顔を寄せれば、ふ、と一粒だけ、笑みが聞こえた。
「……こ、かつ……し……」
スッと血の気が引いた気がした。こかつ……枯渇――魔力の、ことか。
笑いながら、何を言っているのか、と。
しかし、ルシアンの体温が、手のひらに伝わる。もう一度胸に抱え直し、力ない上体を引き寄せる。再びその目が閉じられたのは、一瞬意識が浮上しただけだったか。
(……くそ、大剣がなけりゃ……)
――背負えたか。魔力核のある関係上、肩で担ぐのも雑に抱えるのも避けたい。
しかしながら、いくら軽いルシアン相手でも、脱力した人間一人を抱えての下山は負荷が高い。――だが、
(……いや、背負ったら様子が見れねぇ……)
少しの変化も見逃したくはない。ましてや魔力枯渇など、戦士であるガルドには事の重大さがいまいち掴めない。少なくとも、こうしてほぼ失神に近い形で意識をなくすほどだ。
……苛立ちも、焦りも、悲壮もない。ただただ、一瞬たりとも目を離したくない。――怖いだけかもしれなかった。
日は天を回り、峡谷を背に、ガルドはゆるりと立ち止まる。
細く息を吐く。ここからまた斜面を下り、カドゥル北の街道に出て、街へ戻る。
行きはルシアンも歩いていたから、行軍速度自体が遅かった。ガルド一人の足なら、急がずとも夜には街へ着ける。――大丈夫だ。
斜面脇の岩の段差に、ほんの少し腰を下ろす。ルシアンはそのまま自分の脚に座らせ、両腕を少し休める。背も上腕も熱いが、……、まぁ、まだいける。
そのまま、首元の表情を軽く覗き込んだ。
――息はしている。変な汗も、もうかいていない。だが顔色はまだ悪いか。……体温も低い。
(……呼んでみるか……、いや……)
無理に意識を引っ張るのは、違うか……。
さわさわと、森を渡ってきた風が、頭上を通り過ぎていった。
見送らなかったが、あの竜はどこぞへ帰ったのだろうか。これでトグ森の薬草は、また息を吹き返すのだろうか。
それを確かめるつもりなど、毛頭ないが。
淡い旅装の裾を正し、腿の下に手を差し込む。高い位置で上体を抱え、また胸に重みを預かる。
ガルドが再び立ち上がれば、その動きに驚いたのか、草むらに小動物が飛び込んでいった。
「……行くぞ」
呼びかけに返事などないが、ガルドもそれきり黙って歩き出した。抱える腕をわずかに引き寄せただけ。
山道、風がざわりと梢を揺らしていく。
木漏れ日は、何事もなかったかのようにちらちらと降っている。
ガルドの視線は前を向いていて、耳は懐の気配に向いていて、頭は――コイツが起きたらなんて叱ろうか、と考えていた。
まだ街の輪郭は見えない。
けれど宿まで、あと少し。もうすぐ。すぐだ。
護衛はただただ、それをしっかりと腕に抱き、前へ進み続けていた。
――【帰還の腕】




