【カドゥルの赤い雪】
そこの、魔力の濃度は――、
今までのどこよりも濃く、停滞していた。
登ってきた山道の終点、わずかに拓けた小さな台地。
全てが静まり返っているのに、肌がひりついている。
留まりすぎた魔力の圧に、足元の小石が、ピシ、と音を立てて割れる。
隣の背を支えたままに、ガルドが岩山の台地のとある一角を指さす。
崖と崖が噛みあうように迫り合い、隙間のようにぽっかりと口を開けた黒い裂け目。
その奥に、かすかに――ゆっくりとした息のような脈動が、感じられた。
ひとつ頷いたルシアンが、痛む頭に顔をしかめ、自分を庇う護衛の腕を、避ける。
一歩、また一歩と歩み寄る背は、――ここからは自分の本分だと言うようで。
その気配に、裂け目の奥、巨大な赤い岩かと思われたそれは、ゆっくりと……確かめるように頭をもたげた。
こつり、揃う、かかと。
「──ごきげんよう。お困りのようですね」
毅然と立つルシアンは、その魔物に、格式張った一礼をした。
ガルドの喉が、……一度だけ鳴る。
無意識に剣へと伸びかけた手を、だが、すんでのところで止める。――拳を握りこむ。
時が、ゆったりと流れているようにすら感じた。
過不足のない一礼を受けた赤い――竜は……、ウルル、とかすかに喉を唸らせながらも、威嚇をする気力もないようだった。
その竜が苦しむ度に、身体が軋み、鱗が剥がれ……、風に乗り、魔力の波に砕かれ、──雪のように飛んでゆく。
それを目の端で見送り、ルシアンが、柔和な笑みを浮かべた。
地脈の魔力が歪められ、今ここに滞っている。
どぷりと漬け込まれるような息苦しさ。
頭が酷く痛む。吐き気もある。ぐるぐると目がまわり、足場も遠い。
だがしかし、その"格"は易々とは揺らがなかった。
竜の息に合わせて、空気が震える。淡紫の頭上で、その風がかすかに渦を巻いた。
裂け目の奥からは、今も低い音が漏れてくる。それが呻きか、嘆きか、呼吸の音かすら分からない。
だからこそ、ガルドも一歩も動かない。
剣に手は伸ばさずとも、すぐに動けるように、全身の感覚を張り詰めた。
ルシアンを信用していないわけではない。……けれど、それしかできることがなかった。
その"守り"を背に、ルシアンは、ひとつだけ笑みを落とした。
「あそこにね、悪人面の人間がいるでしょう」
それは、さも世間話でもするかのような口調だった。まるで、街の食堂のようなやりとり。
ガルドの眉がぴく、と振れ、赤い竜の瞳も、じわりとそちらを一瞥する。
「いつだったか、彼の怪我もね、私が治したんですよ。魔法の心得が、……ありましてね。――どうでしょう。それほどまでに苦しいのならばいっそ、任せてみてはいただけませんか」
――ルシアンの声は、道行く人に、露店の店員に、乗合馬車の、子どもに。
そうした彼らに向けられていたものと、何ら変わりなかった。
力なく淡紫を見つめていた竜が、――やがて小さく鼻を鳴らして一歩、二歩……裂け目の奥から姿を現す。
身体中の鱗が剥げて、痛々しく地肌が露出している。足取りは重かったが、芯が入っていなかった。
裂け目から半身を乗り出したところで、どしゃり、と崩れるように地に伏せ、……そのままかろうじて、長い首をルシアンの方へ伸ばしてきた。
魔術師のその腹に、深く顔を埋めるかのように。
それ以上は何も言わず、ルシアンもその大きな頭を両手で抱え、静かに瞳を閉じる。
魔力というものは、通常、目で見ることは叶わない。
この地のように、非常に濃く溜まる時にだけ、蜃気楼のように揺らめく。
しかし今、ルシアンと竜を繋ぐように、帯状の魔力が循環していた。
ルシアンから流れた魔力が竜へ。同様に、竜から流れた魔力がルシアンへ。
最初は不安定にざわついていたその帯も、やがて揺らぎが落ち着き、均衡の円になる。
――そうか、これが"整え"か、と――、……ガルドは、目が離せなかった。
ルシアンと竜が魔力交換を始めたあたりから、台地周囲には、次第に静けさが戻ってきていた。
頭痛が和らぎ、吐き気も収まり、ガルドの体調にも落ち着きが戻る。
遠く、峡谷の空で唸っていた気流も、徐々にか細い音になっていく。
(……"吸い上げ"を、やめたのか)
魔力の円環から目を逸らさぬまま、ガルドは思ったが……それを確かめる術はなかった。
喉が渇いていた。
ひりついて、張り付くかと思った。
円環は濃さを増し、今も循環を続けている。
(……、……いつ、終わる……)
ぎり、と奥歯を噛みしめた。舌打ちをしたい気持ちを、喉の奥で押し殺した。
"それ"は、負荷じゃないのか。あの魔術師は今、何をしている。
一見、循環にも見えるアレは、……見たまま、本当に循環していると思っていいのか……。
ガルドは、魔力のことは分からなくて……、……初めて、魔力のことがわかれば――と思った。
どれほどそれが、続いただろうか。
じわり、と金の瞳を開いた竜が突如、大きく首をもたげ……天高く咆哮を上げた。
山を、地を、雲をも震わすようなその音が、朝の秋の空に吸われて。
ごつりとした足が、大地を踏みしめる。
持ち上がった首は、遥か頭上からルシアンを、そしてガルドを一瞥し。
再度その眼差しをルシアンに向け、まだ荒れの残る翼を二度、三度、強く羽ばたかせると、赤く痛々しい巨体を持ち上げて、山の頂すら超えた上空へ。
その風圧に、ルシアンが半ば弾かれるように尻もちをついた。
「おいルシアンッ――!」
ほぼ怒号に近い声をあげ、大きな影がすぐさま駆け寄った。頭上で羽ばたきが遠ざかっていく音がするが、もうそれどころではない。荒れた地面を蹴って、項垂れたその傍らに、膝をつく。
細い両肩を支え、下から覗き込むように顔を寄せる。……銀の眼差しは伏せられ、普段の柔らかな笑みはない。
頬は青ざめており、額には冷や汗。指先がわずかに震えている。
「……おいっ」
短く呼びかける声に、ようやく、そのまぶたが持ち上がった。
瞳は、霞んだまま焦点を探し、やがてガルドの顔を見つけてかすかに緩む。
――途端、身体を支える手に、ずしりとした重みが預けられる。完全に力が抜けたわけではないが、明らかに限界に近い。
ここがどれだけ、濃すぎる魔力に満ちていたか、……それを今さらながら、痛感させられる。
先ほどまで端然と立っていた男は、足に力が入っておらず、呼吸も弱い。血の気が薄い。手は冷たかった。
岩山の台地にはもう魔力のざわめきもなく、雪のように散っていた赤い鱗の欠片も、何一つ残っていない。
地は静まり返り、裂け目はただの黒い影だ。
――ならば、もう、目の前の彼だけでいい。
「……担ぐからな」
問いかけながら、ガルドはルシアンの背に腕を回し、抱き起こすように身体を支えた。
返答が何もないのは、完全に糸が切れたように目が閉じられたからだ。
けれど弱々しくも、呼吸はある。低くとも、体温もある。
何より、今この腕の中に、確かに抱いている。
「……、帰るぞ」
せめて意識の深層に届けばいいと、ガルドはそれだけを、呟いた。
――【カドゥルの赤い雪】




