【北の丘の観測所】
「…………」
銀の視線が、望遠鏡の先、歪みの中心へと向く。
「……。……帰、ろう」
「ん、」
「……街に、帰って、……夕食をとって、宿で眠ろう」
穏やかで、柔らかな声は、風が唸る中で、それでもしっかりと聞こえた。
ガルドが隣を見下ろせば、淡紫が風に揺れている。語られる日常は、確かにそこにあるのに、今のガルドには少し遠かった。
観測者の日記、その走り書きを、ルシアンが静かになぞる。
彼らがここへ戻れなかった理由はわからない。けれども、その原因は恐らく今も、北西の山にある。
――だが、これは物見遊山ではない。
「……いいんだな、"帰る"で」
「…………」
隣からの低い声に、ルシアンが、押し黙る。
肩先に、迷いが浮かんでいる。
しんとした室内に、紙の擦れる音と、外套がはためく音が響いていた。
割れた窓からは、一つ、二つと、時折赤い雪が吹き込む。望遠鏡の向こうにある山肌を見つめ、……ガルドはぼそりと呟いた。
「――ちなみに」
「うん……」
ぎし、と巨躯が、テーブルにわずかに腰かけながら、腕を組む。
身体はきっかりとルシアンを正面に捉えていて、眉は片方だけ寄っている。一見すれば、逃がしゃしねぇぞ、の姿勢だが。
「……何と何で、迷ってんだ」
声は重く、けれども責める色はない。目の前の男が帰るといえば帰るし、行くと言えば行く。ただそれだけのことで、……その理由を問うたのは、ただその内側を知りたいだけだった。
珍しく迷う素振りを見せるルシアンに、その迷いを預けてほしかっただけかもしれない。
……しばしの、沈黙の、のち。
「……、知らんぷりするか……」
「ん……」
「……君に、叱られるか……」
「…………」
――なる、ほど……。
護衛、額を押さえる。なるほどそうか、こいつを叱りつける事態になり得る可能性……。ガルド、黙考。
それは考えていなかったし、そうなるとすれば一番避けて通りたい。要は、"ガルドの手の届かない危険"だ。
そしてその仔細を口にしないということは、恐らくそれを聞けばこちらが引き下がれなくなるということ。
扉を開けて、そこに踏み入るか、引き返すか――、目の前の男は、その境にいるのだ。
「…………」
「…………」
「……たとえば、」
渋面のガルドが、掠れた声で一つ切り出す。ぐし、と指先が、眉間を揉んだ。
「"叱られねぇ"ようには、できねぇのか……」
「……ちょっとわからないね……」
――わからねぇときたか……。腕を組んだガルドが、ぐ、と唸ったように聞こえた。
ガルドに魔力はわからない。
だが、わからないなりにわかることもある。
近辺から魔獣が姿を消している。これは一見いいことだ。けれど近場の森の薬草は枯死している。
遠景の山を望むこの観測所は、雑に打ち棄てられている。中央学術院と魔術院が合同で何かを調べていたらしき痕跡はあちらこちらに。
各専門機関の統括は国だ。後始末の手が入っていないということは、今もどこかで何らかの対応に追われているのだ。
下手すれば、その大元かもしれない何かが、あの対面の山にあって。
それを、この魔術師は、「行けばガルドに叱られる」と言う。
それは、"見る"ではなく"何かをする"のだ。
自分の手の届かない危険に、何かをするのだ。
「……、……一個だけ聞かせろ」
唸り混じりのガルドの声に、淡紫が頷いた気配が返ってきた。
「……お前は、……なんか、それに……責務でも、あんのか」
――それをやろうとすることは、……誰かに押し付けられてか、と――、赤い眼差しが、まっすぐにルシアンを見る。
一拍、……二拍の、間を以て。
「――ないよ。私は何も背負ってない」
芯のある声が、返る。
(……ってこたァ……純粋に"好奇心"じゃねぇか……)
"やらなければいけない、でも叱られるかも"なら、……放っておけと、街を去ることもできた。
だが、"やってみたい、見てみたい、でも叱られるかも"は……結局それがガルドには、なんだかんだ、一番止めにくい。
深いため息と、重い頷き。
いい、わかった、ついていく。
――だが本気であぶねぇのは止めるぞ、の睨みも添えて。
その仕草に返事こそなかったが、ルシアンの口元が嬉しそうに弧を描いた。
そしてそのまま、静かに、けれど楽しげな声が弾む。
「今日は街に帰ろう。出発は明日」
「……チッ」
「珍しいものが見れるかもしれないよ、ガルド」
「……俺に怒鳴られるお前とかな」
まだ納得のいかない顔をする護衛にひとつ笑いかけ、ルシアンが階段へと足を向ける。
その軽やかな背を追う男は、一度だけ望遠鏡に視線をやって、すぐさま続けて階段を降りていった。
赤い雪が、――またひとひら。
観測室の中に舞い込み、ノートの上に落ちて、跡形もなく消える。染みすらも残さずに。
カン、カン、と階段を降りる足音が二つ。
ガルドの視線は、ただ目の前の男に。
共にいればいるほどに、知れば知るほどに、その輪郭はぼやけていく。
(……当たり前みてぇに、読んだな、地脈……)
――今さら、ため息など、出ないが。
風のように渡って、掴めなくて、魔力のように見えなくて、けれど存在だけは強くて。
こうしてすぐ傍にいることすら、彼の気まぐれなのではと思ってしまうほどに。
温度も、匂いも、姿もあるのに、明け渡されない"彼"が多すぎる気がして。
……だが、それでも守ると決めて、ここまで来た。
「……んで、何を見せてくれるってんだ」
文句も兼ねた呟きに、柔らかな笑い声が返される。ふん、とガルドがひとつ鼻を鳴らし、観測所の扉に手をかけた。
扉を押し開けば、外の暴風は変わらず、ばさりと外套を煽る。――まぁ、この風の源に、"珍しいもの"とやらがあるのなら。
ガルドは、……せいぜいおっかねぇ叱り文句でも考えておこうかと、風の吹き荒ぶ丘を、ルシアンを連れて街へと帰っていった。
――【北の丘の観測所】
《旅の記録》
・場所名(通称):観測所
・最寄り街:カドゥル
・景観種別:謎/静
・特徴メモ: カドゥル北の丘にある、打ち棄てられた観測所。内部は当時のままになっており、緊迫した人々の影が見えた気がした。
・時期・時間帯:秋・昼
・再訪:不明
・個人的メモ:
「資料群もそのままで、あそこにいた観測員たちはどこへ行ったのだろう。義理はないが、無事は祈ろう。」
――ルシアンの手帳より




