【地図を辿る指】
――地脈の流れが、変わっている。
走り書きの一文が、室内そのものに形を持ち始めたかのような気配があった。
ここにはふたりの他に誰もいないのに、今も慌てたようにこの場を撤収していく影が横切った気がした。
だが、何もいない。空間の揺らぎも、音もない。ただ窓の外で、風がごう、と鳴る。
ガルドがゆっくりと歩を進め、静かにルシアンの隣に立った。
何も言わず、ただ一度ぐるりと周囲を警戒しながら、彼の肩越しに書かれた文字列を覗き込む。
とん、と肩口に感じた護衛の気配に、わずかにルシアンが息を吐いた。
――どうやら、少々、息を詰めてしまっていた。
もう一度、手元に視線を落とす。背中は、大丈夫だ。
魔力異常。視覚的歪み。風向きの乱れ。地脈の流れが変わっている。
ひとつひとつの事象に共通する事実がなければならない。
「魔力異常は――仮にトグ森の薬草の枯死にも影響が及んだとして、地図は……」
「これか」
顔を上げたルシアンが振り返るよりも前に、資料群の中からガルドがそれを見つけていた。
角が折れた大判のそれを受け取り、ルシアンが机の上にばさりと広げる。
ガルドもその端を押さえながら見下ろせば、その地図はこの一帯の山や川の地形線でできていて、けれどもそのどれにも属さない線が――、手書きでぐちゃぐちゃと黒い線が引かれていた。
一見すれば川の分岐図のようにも見えるが、実際の川とは照らし合わせられていない。
「……んだこりゃ」
「地脈の流れだね」
ガルドの問いに、ルシアンが指先でその線をつく。
――ほう、と、ガルドは思った。大地を巡る、魔力の奔流。それは川のように地上を流れているものではなく、魔力感知に優れていなければ、感じ取ることすら難しい"流れ"。
なるほど、こういう風に、……さながら血管のように、地中に巡っているのかと……思いかけたがしかし、書き込まれた黒い線は、途中で迷うように蛇行したり、消されたり、?マークがついたりと不安定だった。
これを書いた観測者たちは、恐らく地脈の流れを読み切れなかったのだ。
――そりゃそうだ、とガルドは渋い顔をする。
詳しくこそないが、確かこういったものの解析やら何やらは、高位の魔術師などが時間をかけて波長を合わせ、膨大な魔力の流れを読み取らねばならなかったはず。
しかしルシアンの指先が、地図上にあるトグ森を指した。
黒い線には沿わず、だが迷いなく、つつ、と動き始める。
「ここがあのトレントの森。あの森は地表近くを地脈が通っている。この本流は街を大きく迂回してこの経路を辿るけれど、枯死が見られたのはあの近辺だけ……つまりは近辺の地脈の大元が断たれたわけではない」
ルシアンの指は滑らかに地図上を踊っていたが、……ガルドの視線は、もう地図を見ていなかった。地図に落とされた銀の眼差しを、じっと見つめる。地図上を滑る指先は、黒線を辿る動きも、辿らない動きもあった。
その穏やかな語り口はさながら、かつての観測者たちと、対峙して話しているかのようでもあった。
「――分岐はここと、ここ。こっちはイブニール地方へ通じる流れだけれど、通ってきた限りでは、あちらに異常は見られなかった。ということは滞留があるのはこの地点……」
ぴた、とルシアンの指が止まった地点は、おおよそ望遠鏡が向いている位置と合致していた。
――なるほど、それで……と、ガルドと目を合わせる。
「視覚的歪み……」
呟いたルシアンが、テーブルを離れて望遠鏡を覗き込み――すぐに意味を理解する。
遠景の先、正面の山肌が、まるで蜃気楼のように空間が歪んでいた。
それは特に魔力が濃い、――濃すぎる場所に現れる現象だ。
あの揺らぎは魔力感知が苦手な人にも見え、そして身体の不調などの影響を与える。あの周辺に街こそないものの、あれでは調査隊も入れない。
す、と望遠鏡から身を引く。
「風向きの乱れは……あの地帯から来る乱気流だね。この丘の地形のお陰で防風堤のようになってて、丘からこっちの地域に影響がなかったんだ。
……そうか、この観測所は、恐らく建てられるギリギリの場所だったんだね」
――どこか諦観すら滲ませるような声で、ルシアンが机をすり、と撫でた瞬間、……それに応えるように、たったひとひらだけ、ちらりと赤い雪が吹き込んできた。
「……っ」
バッと、ガルドがそれを掴む。
その動きに驚いたように顔を上げたルシアンも、握られたガルドの拳を見て、ついでガルドに目をやった。
「……多分とった」
「…………」
黙したままに、ルシアンがその拳を引き寄せる。
そろりと指を開けば、確かに赤い……雪……か、なにか……。
「……なんだろう……」
「……ん、消えたな」
じわりと、ほんのひとひら。だが、それは確かに"目視できる異常"だった。
手の中に、残っているものは何もない。濡れた痕跡すら、ない。
ガルドの手中を見下ろしたまま、ルシアンは動かない。
続きの雪がないかと空に目をやるガルドの隣で、ただただじっと、消えた残滓を見つめる。その静けさはまるで、何かを押し留めるようでもあり、手放しかねるようでもあった。
――【地図を辿る指】




