【戻らない観測員】
辿り着いた小さな観測所の壁に身を寄せれば、先ほどまでの暴風を少々遮ることができた。
建物は古びておらず、まだ建てられて日が浅いのだろうということが窺えた。ガルドが扉に手をかけると、施錠はされておらず……鉄製のそれが軋む音と共に開く。
相変わらず、中に人の気配は無い。
扉から差し込んだ光に、室内の塵や埃がちらちらと舞う。吹き込んだ風が、壁際に落ちていた書類群をばさりと暴れさせる。
しばしの間、室内を警戒していたガルドが緩く頷くのを見て、ルシアンがするりとその建物に入っていく。
背後で扉が閉まると同時に、室内の空気が重く沈むようだった。
埃と紙の匂い。窓の隙間から差し込む光が、仄暗い室内に薄ぼんやりとした線を引いている。
内装は、簡素なものだ。
余計なものはなく、けれど作り付けの棚には崩れて散らばった資料束。床には何枚も紙片が落ち、椅子は斜めに引いてあるまま。
壁には周辺の地図が貼られ、テーブルの片隅には飲みかけのマグが、しかし中身は干からびて放置されている。
まるで、大した片付けもできず、急ぎ撤収したかのような。
観測したであろうデータが記された書類は、その大部分が残っているようにも見えた。
――かさ、とガルドが足元の書類を拾いかけて、けれどルシアンがそのどれにも目をくれず、まっすぐに奥の階段へ向かうのを見て顔を上げる。
「ガルド、上の観測室を見てみてもいい?」
「……ああ、今行く」
ガルドの返事に、ルシアンも小さく頷く。螺旋状の鉄階段の、その手すりに手をかけ、足を一歩。上からも風が吹いてくるのは、外で見えた割れた箇所から風が吹き込んでいるのだろう。
一歩遅れるようにして、ガルドもその背に続く。背後や足元を警戒しながら、壁のひび割れや崩れた床材にも無言で目を走らせた。
こうした遺棄施設に付きものの、棲みついた魔獣や獣の痕跡は――やはり見当たらない。
二階の観測室は、吹き抜けのように天井が高く造られていた。
部屋の片面の壁が大きく窓となっており、そこから丘の先端と空が見渡せる。
ただし、ガラスの大半は風で砕け落ちている。開口部からは、先ほどの風が吹き込んできているが……、壁や窓枠に当たり、外よりは幾分か、風の勢いが和らいでいるように感じた。
その窓辺に、ルシアンが静かに立つ。
風に髪が揺れる。外套がふわりと靡く。
銀の瞳は、興味深そうに遠くを見つめるばかり。
「……、あんまキワに行くなよ。煽られて落ちんぞ」
「うん、わかった」
無防備な背に声をかければ、素直な反応が返ってくる。ガルドの視線が、壁の書棚、木のテーブルと、先ほど登ってきた階段へと移っていく。この空間で、危険があるとすればそれは、"外"ではなく"中"の可能性もある。
――だが、何も起きない。
風だけが、鳴っていた。
紙が擦れる音が、風に建物が軋む音が、峡谷からの風鳴りだけが、聞こえる。
斜めに重なった書類をガルドが数枚手に取れば、中央学術院と魔術院の資料が雑多に交じっている。
何かの測定値のような数字と、小さな地図と、記録時刻と――まぁ、よくわからんなと、ガルドがそれをテーブルに戻した。
一方――、窓から丘の先端を見やっていたルシアンも、ふと傍らの大きな設備に目を向けたところだった。観測室の中央に静かに佇む、大きな望遠鏡。
それが向く先は空ではなく、北西の山岳地帯……丘の切っ先の、さらにその向こう。
(……ほう……)
望遠鏡を一瞥したルシアンの視線が、観測設備の架台の横、大きな机の上に向けられた。
たくさんの器具や書類が乱雑に、所狭しと並べられている。書類にも、器具にも、置き捨てられた名札にも、中央学術院や魔術院の印が入っている。
積まれた書類の下、半端に開かれたままのノートに、走り書きが残されていた。
――"魔力異常、視覚的歪み、風向きの乱れ。地脈の流れが変わっている?"――
ルシアンは、――思案した。その横顔に、笑みはない。
思っているよりも、……事は重大かもしれない。そんな思いが渦巻いていく。
走り書きを見つめる目は学者のようであり、どこぞの研究員のようでもあった。
そしてそれを見つめるガルドもまた、観測室に満ち始めた空気の違いを感じていた。
これは、物見遊山を逸脱している、……けれど。
「……どうしてここを放棄するときに、この資料群を持ち帰らなかったんだろう」
ぽつりと、しかし当然の疑問が、ついルシアンの口から零れてしまう。ガルドへの問いかけではなく、独り言だ。
別に控えがあったのか。観測員たちに何かがあったのか。
理由があり、取りに戻れなかったのか。他の地で、何か重大なことがあったのか。
今となっては、もうなにもわからない。
ルシアンが、資料に目を落としたまま動かなくなる。銀の眼差しが、瞬き一つせず、資料の文字列を斜めに渡っていく。
風でひらりと舞い上がった紙片が、まるで渦を描くようにくるくると天井近くまで舞い上がり、ゆっくりと沈む。
机の端に添えられた細い指先は、無意識に紙の一枚を押さえている。
だがその手に力はこもっておらず、口元だけが小さく何かを呟いていた。
――【戻らない観測員】




