【風渦巻く丘】
翌日、早朝のうちに支度を済ませたルシアンたちは、カドゥル北の街門から街道へと歩を進めていた。
カドゥル北部の地形は険しい山岳地帯となっており、大小さまざまな山が隆起し合うように連なっている。カドゥルの街そのものの標高が高いこともあり、周囲の地形は一部峡谷状になっている箇所もあった。
街の北門からさらに北の方角へ足を進めれば、山間へと続く広大な森に入る。街道はとっくに外れ、周囲の木々は落ち着いた秋の様相を見せ始めていた。
「この森を抜けた先に、丘がある」
獣道のような山道を先導しながら、ガルドが肩越しにルシアンを振り返る。
背後をついてくる足取りには、楽しみが滲んでいた。
「……冒険者どもの話を聞いた限りじゃ、そこの丘にあんじゃねぇか、観測所だかなんだか」
「うん」
答えるルシアンの髪を、外套を、深まる秋の風が揺らすが……それは雪が降るほどの寒さではない。
森の中は静かで、時おり姿を見せる動物たちの気配だけ。
「魔獣の気配がないね」
「……トグ森にも、いなかったな」
――それきり、会話が途切れる。
そういえば、トグ森どころか、カドゥル近郊ですら魔獣らしい魔獣を見ていない。
冒険者ギルドの依頼掲示板にも討伐依頼はあったが、隣接都市の討伐支援依頼だったり、畑荒らしの害獣駆除のような、ごく小規模のものがほとんど。
「…………」
「…………」
たとえば、あらゆる魔獣が逃げ出すような脅威がいるのであれば、説明もつく。
けれど、そんなものがいるのなら、魔力の感知に優れたルシアンや、そもそもの気配に敏感なガルドが気づかないわけもなく。
「……何が考えられる」
「ううん……」
歩き続けるガルドの問いに、ルシアンが小さく唸った。
仮にここが火山地帯であれば、その火山活動の活発化で動物たちが逃げていく可能性もあるだろう。
魔獣同士の縄張り争いがあるのなら、それに勝った魔獣がこの近辺にいる可能性もある。
だが、森の動物たちは平穏としているし、妙な圧も感じない。
「一つの脅威が他を追い払った、という形ではなさそうだし……この近辺の土地そのものが壊れている、というわけでもなさそうだ」
「……ああ」
「となると魔獣だけが近づきたくない何か……、あるいは棲みにくくなった何かがあるか……普通の動物たちに影響がないのであれば、やはり地脈の乱れかな」
ぱき、と足元で小枝を踏んだ音に、そしてその声に、一瞬だけガルドの肩が動いた。
"地脈の乱れ"という言葉の重大さが、まだどれほどのことかはわからない。この魔術師は、何でもないことのように言う。
けれどこの男のふわりとした発言が、普通の枠に収まらないことも、これまで多々あった。
――とは、いえ。
「魔獣が少ないと道行きも早くていいね」
とっ、とガルドの隣に並んだルシアンが、柔らかに微笑んで先へ行く。
どこか夢を見るような気配を纏っているその後ろ姿は、あまりにも無防備で、あくまで物見遊山をしているだけで。
一つため息をついて、護衛は再びその背を追いかけた。
森の木々が風に鳴る。落ち葉の舞う音と、ふたりの足音だけが続いていく。
やがて木々の密度が緩み、傾斜が緩やかに変わっていく。北の森の中腹を越えれば、丘まではそう遠くない。
足を止めることのない、淡い外套。足取りも、武器を持たぬ手も、すべてが軽やかに見える。
"無哭の雇用主"――その肩にかかる周囲のひそかな期待すら、何のことないようにいなしながら。
――あるのはただ、旅人の背だ。
どこかの誰かに強いられたわけでもない。誰のためでもない、ただ己が「見たい」ものへと歩いていく背。
ガルドは、しばしその背中を見つめていた。
(……夢見がちなやつ、ってわけじゃねぇんだよな)
見えているものが違う。
嗅ぎ取っている空気も、踏みしめる地も、すべての感覚が違う。
なのに、その笑みだけは、いつも"こちら"を見ている。
「…………」
何も返さず、ガルドは歩幅をひとつ広げる。
歩く距離が詰まる。今日もただ、自由な背中に肩を並べて守るだけだ。
森の緑が揺れ、鳥の影が上空を横切る。風が吹き抜け、草木の葉が揺れる。
その音に紛れて、ルシアンの笑みがほんのわずか、深まったようだった。
すぐ隣を守る巨躯の護衛に、振りむくでもなく、ただ静かにその気配を感じる。
この旅路に名前はない。
けれど互いに、それを確かに"選んだ"のだと、今さらながらに思い知らされていた。
ごう、と風が唸る音の中、森がひらけた先には、大きく空にせりあがるように丘が広がっていた。
丘、というよりは、崖、が正しいのかもしれない。
その先端より向こう側には小さく峡谷があり、対面にはベルミードから見えた山脈が連なっていた。
赤い雪が降る、と噂されたこの丘は、今も絶えることのない強い風が渦巻いていた。その風に肌を刺すような冷たさこそないが、とても優しいものではない。
押さえた外套がばさりと大きく翻る。目的の赤い雪は降っていない。
「……チッ」
小さく舌打ちをしつつ、ガルドがルシアンをわずかに引き寄せる。そのまま見れば、丘の中腹あたりに例の観測所らしき建物の影が見えた。
遠目に見た限りでも上部の窓ガラスが割れており、人の気配はない。まるで打ち棄てられているかのようだった。
懐を見下ろせば、銀の瞳と目が合う。
「行くか」
「うん」
――まぁ、だろうなと。やれやれといった眼差しで、ガルドが丘の上を見上げて肩をすくめた。
――【風渦巻く丘】




