【ガルド、敗走】
カドゥルに戻る頃には、すっかり日が落ちていた。
大通りの街路灯に暖かな光が灯る。その下を往来していく影は、様々だ。
仲間同士、明るく声を交わし合い、酒場へ。装備を鳴らしながら、夜の依頼に向かう冒険者たち。
露天は店じまいを始め、商人たちは滞在先の宿へ帰る支度を始める。
そんな中を、ふたりも並びゆく。
「今日は街で夕飯を食べようか。お酒が美味しいお店がいい。料理は肉でも魚でも」
相談のようでいて、相談ではない声色。弾む声は、隣の護衛を見上げている。それは、なんのことはない――探して?という笑顔なのだが。
ふいに直視してしまったらしい通行人が、軽く咳払いをして視線を逸らす。花街の娘に引き寄せられていた男が、呆気という顔でよそ見をする。
耐性のない人間が、見るべき微笑ではなかった。
「……お前、俺以外にまともに話せる奴いんのか」
「まともに相手をしてくれるのは、君くらいだね」
何を今さら、といった具合に、ルシアンが首を傾ぐ。
ギュッ、と、ガルドの眉間に、いつもの皺。
「……くそ、甘ったれが……」
言いながらも声音は諦め半分で、料理屋を探すために、ガルドが通りを歩き始めた。結局のところ、こうして従ってしまうあたり、もう手遅れなのである。
ルシアンも、何も言わずに肩を揺らして、その大きな背について行くだけ。
街の灯りがふたりの背を優しく照らせば、賑やかな通りのざわめきもどこか遠く感じる。
ガルドは前を向いたまま、けれど背後から聞こえる控えめな足音に、歩幅を微妙に緩める。
言葉にならない「ついてこい」は、それだけでしっかりと後ろの男に伝わる。
通りの角を曲がり、飲食店が並ぶ一角へ差しかかると、香ばしい匂いが鼻をくすぐった。焼き魚。炙った肉。香草の香り。
そこに果実酒の甘酸っぱい芳香が混じると、背後の気配が少しだけ近づいた気がした。
通り沿いの店を一つ一つ、値札、店構え、それらを視線で品定めする。ルシアンが好みそうな、うるさすぎず、気取らず、そして――
「……あそこだ」
小さく顎を引いて足を向けたのは、木の看板に葡萄の房が彫られた、小ぢんまりとした店。
灯りが柔らかく、外からでも数種の果実酒の瓶が並ぶ棚が見える。
肩越しに後ろへ視線を向ければ、銀の瞳は何も言わなかったが、その笑みが声以上のものを伝えていた。
暖かな光に溢れる店内、ふたりが卓に着けば、やはりどうしても視線を集めた。
メニューを一瞥して、ルシアンが店員に注文を通す。ガルドも同じように。
笑い声と軽やかな空気で満ちる店内は、どこかトグ森の静けさを忘れさせてくれるようだった。
「北の丘は半日くらいで着くだろうか」
「んん……北の森を越える。丘はその森の奥にあったと思う。観測所とやらは知らん」
「……標高的に、雪は降りそうかい?」
「いや、そんな高くねぇ。季節的にも雪には早い」
そんな話をしながら、料理を待つ。明日の打ち合わせ、というよりも、ただの雑談。
やがて、根菜と鶏肉のステーキ、キノコと豆のポタージュ、塩漬け魚のハーブオイル添え。
そして、季節の果実酒がテーブルに並べられ、店員が会釈をして去っていった。
運ばれてきた料理は、どれもルシアンの満足のいくものばかり。
一つ一つを味わい、多い分をガルドへ押しやり、果実酒を楽しみ、また料理を口に運ぶ。
「…………」
――そういえば、と……。
ガルドがいらないことを思い出してしまう。
子爵家やら何やらでごちゃごちゃとして、すっかり頭の隅の方に流れてしまった、それ。
(……。……"アドリ"……)
自分と呼び間違う形でルシアンの口から放たれたそれが、――まだ解決していない。……いや、事件のようにしているのは、きっと自分だけだが。
「…………」
正直、護衛業になんの支障もない。自分の気の持ちよう以外は。
魚を一切れ口に運びながら、正面の雇用主を見やれば――機嫌良さそうに酒を口にしているところ。
……目の前の男から、その過去を聞いたことは、ないが。
(……聞けるか……今なら……)
――酒を楽しんでいる今なら。
――少なくとも、信頼関係が築けているだろう今なら。
「…………なぁ、」
「あっ」
重なるようにパッと顔を上げたルシアンに、思わずガルドの喉元の声が引っ込んだ。はた、と時を止めたルシアンも、同じようにこちらを見ている。
「あ、すまないね、どうかしたかい?」
「っ、いや……、……なんだ」
赤い瞳が、横目で店内をなぞりながらぼやく。……引っ込んだ。もう全部引っ込んだ。
小さく首を傾げたルシアンが、しかしいつもの微笑みで話を続ける。
「いやね、ふふ、忘れてたよ。寝間着をね」
「……あ?」
「今日、寝間着を見に行こうと思っていたんだ。秋冬用の、ちょっと厚めのもの」
……ねま、寝間着……と、杯に伸ばしたガルドの手が止まった。
……あの……ちょっと柔らかそうなあの……寝る時に着る上下そろいの服のことだろうか……、……それ以外ないか……。ガルドがゆっくりと視線を伏せる。
少し前なら……「へぇ」で済んでいたが……同室となった今は、全てに現実味が付随する。
「……。へぇ……」
「さすがに毎朝、君のシャツを拝借するのもね」
ひく、と酒杯を持つ手が震えた。何も口にしていないのに、むせ返りそうになる。
視線を皿へと戻すが、何も見えていない。視界に入っているが視界に入っていない。
それでも指先は、ハーブの香りが立つ塩漬け魚の切れ端を、器用にナイフで崩す。酒の杯は呑まれないままに手放されていた。
「……宿の女将に、毛布……一枚出してもらうか」
「ううん……」
なるほど、とでも言いだしそうに唸るルシアンに、ガルドはもうそれ以上何も言えない。
まかり間違っても、「別にそのまま着てりゃいい」などと、己のシャツを差し出す発言が出てこない。どの、どのツラ下げて言えというのか。護衛ヅラか。シャツ貸す護衛ってなんだ。俺か。
「まぁ……冷え込みが厳しくなってきたら、本格的に探そうかなぁ……」
対面では、ルシアンが気にする素振りもなく、果実酒の杯を手にして呟く。その言葉の裏に、「だからシャツは貸してね」などといった含みは見えない。
緩くその指先が杯を傾ければ、光を透かして、琥珀がかった液体がわずかに揺れる。
「……、おい飲みすぎんなよ」
「んん」
咎めるでもない護衛の声に、返ってくるのは否定とも肯定ともとれない柔らかな相槌だけ。
銀の瞳は落ち着いて微笑んでいるが、彼自身、酒はそこまで強くはない。
緩む頬はほろ酔いで染まり、食事処の灯りにゆらゆらと照らされている。
そうしてそれ以降、ルシアンから何か言葉を発することはなかった。
食事を済ませた食器とカトラリーが、その前に整然と並べられている。
急かすでもなく、待ちくたびれるでもなく、ガルドが食べるさまを、ただじっと見る瞳。
「……んだよ」
その居心地に、低くぼそりとこぼして、ガルドは器を引き寄せる。元はと言えば、目の前の雇用主が食べきれない分を押し付けてくるから量が多い。
目線を逸らし、肉の残りをナイフで押さえながら、ちらと向かいを一瞥すれば。
……こちらを見つめる銀の瞳が、やわらかく細められていた。
酔いのせいか、灯りの加減か――その頬はほんのり赤く、それでも姿勢は崩さず、端然とした所作のまま、ただただガルドを見ている。
「…………」
……食いづれぇ……。
ステーキの最後の一切れを噛み切りながら、ガルドが視線を窓の外へ逃がす。
用事があるならまだしも、何を言うでもなくにこにことこちらを見て、なんだというんだ、と。
飲んだ果実酒は……三杯程度だったか。なるほどその量でこのくらいに、と……取得した情報を整理する前に、目の前のご機嫌な男を処理する必要がある。……いや別にないか。
「……もう飲むなよ。フラフラんなっても運ばねぇぞ」
素っ気なく投げたその言葉にすら、対面でふわりと頬が緩む。しかし口を開くことはなく、ただ杯を静かに置き、指先で縁をなぞるだけ。
まるで、"おかわり"も"帰ろう"も、どちらでも良いと言わんばかりの態度。
だが、そうして黙って見守られていることこそが――もう妙に落ち着かない。
「…………」
「……ふふ」
やっと帰ってきた声に、ガルドがじわりと顔を上げた。銀の眼差しは伏せられていて、空になった自分の酒杯を見つめている。
「お酒も美味しい、料理も美味しい……なんだか名残惜しくてね」
「…………」
――珍しい、ことだった。
いつもどこか、あらゆる場合を計算して動いているような、理性の塊のようなこの男。
感情由来の発言は、……あまりない。あっても、ふふ、と誤魔化してみせる。
「もう少し飲みたかったんだけれど、さすがに明日の朝も早いだろう?どうしたものかと思って、でももう一杯飲んだら、さすがにね……」
はっきりとした口調に、ガルドもわずかに肩を緩める。――うっすらわかってはいたが、どうやら多少酒を飲んでも、前後のわからなくなるような酔い方をする男ではないようだ。
ことり、空の杯をテーブルに戻し、――ふう、とため息をついたルシアンだったが、ふとガルドの果実酒を見てにこりと笑った。
ごく自然にそれを引き寄せ、二回ほどごくりと喉を鳴らして飲み下す。
杯を当然のようにガルドへ返し、また、微笑み。
「……これで我慢することにするよ。じゃあ、私は先に宿に帰っているね。君はゆっくりしてきていいよ」
――周りの客と共に……呆然とするガルドを背に……、雇用主は、上機嫌で宿屋へ戻っていった。
「…………」
「…………」
「…………」
沈黙は……周囲の卓にも伝播した……。
飯屋の空気が、数秒止まっていたように思う。
一連の動作があまりに自然すぎて、誰も止められなかった。いやもちろん、他の客には何も関係のないことではあるのだが……。
「…………ンのやろ……」
低く……低く呻く仏頂面の男に……店内の視線が静かに逸れていく。
手元に戻ってきた杯の、縁に残る一粒の水滴を……睨みつけるように見つめるしかできない。間違っても、杯の底にわずかに残る酒を飲み干すことができない。
「…………」
悪態をつこうにも、その相手はもう通りの向こうへと姿を消しているし。熱くなった額を手のひらで覆うので、もう今は精一杯。これが今夜の限界値。
(……ったく)
舌打ちとともに立ち上がり、椅子を引いたガルドの動作に、厨房の店主が思わず背筋を伸ばす。
会計を済ませ、通りへ出る頃には、街の夜風が幾分冷たく感じられた。
とりとめのない食事、くだらないやり取り。勝手に酒を飲まれただけである。なんのことはない、冒険者同士、てめぇこのやろうで済む話。
それなのに、なんだって、こうも、どうにもこうにもならないのか。
「……酒のせいか」
……ああ、そのとおり、もうそういうことにしよう。ぼそりと呟いて、ガルドはそのまま、宿屋の灯りを目指して歩き出した。
部屋ではきっと、あの柔らかな笑みが待っているだろうから。
――【ガルド、敗走】




