【還しの刃】
ふたりは、トグ森沿いの山道を西へと進んでいた。
このまま山越えのルートを辿れば、次の街へ続く高原へと出る。今はカドゥルからの整備された街道があり、人の通りはめっきり減った道だった。
山道、とは名ばかりで、足元はもはや獣道に還ろうとしている。道の両脇から、背の高い木々が腕で覆うように地面に影を落としている。そんな中、前を歩いていたガルドが、手でルシアンに制止の合図をした。
「…………」
「……ガルド?」
ぴたりと足を止めたルシアンが、腕越しに前方に目をやる。――何もない。
護衛を見上げれば、その赤い視線は山道の右側、立ち並ぶ木々の奥へと向けられていた。……ざり、と靴底を鳴らして道を逸れていくガルドの背を、ルシアンが静かに追う。
森の中にぽっかりと現れたその空間は、元々あったものではなく、一定の範囲の草木が枯れ果てて生まれた空間だった。
――周辺に、命の気配は無い。
だがその空間の中央に、ぞわりと立つ捻くれた黒い枯れ木があった。
大人がギリギリ抱えられる程の大木で、根元から枝の中腹辺りにかけて、赤黒く結晶化している。……トレント……、樹木の形を持つ魔物だ。
「……死んでんな」
「うん……」
背後を庇うように掲げていた左腕を、ガルドがゆるりと下ろす。
並び立つように一歩、隣に歩を進めたルシアンが、それ以上は進まぬままに、"それ"を見つめた。
「……"結晶化"というからには、勝手に美しいものを想像してしまっていたけれど」
半ば自嘲気味にぼやくルシアンに、ガルドは何も答えなかった。ただ、目の前のそれから視線を外すことはない。
綺麗とは言い難い、わずかに濁った赤黒い結晶。トレントの身体から、少し地面にも広がって――、いるのか、……地面からトレントに侵食したのか、ガルドには判断がつかない。
「薬草が枯れたのと、……関係あんのか」
ガルドの問いともつかない呟きに、少しの間、品定めをするようにトレントを見つめた後、――ルシアンが軽く首を振る。
「……、このトレントが森の魔力を吸い取っていたわけじゃないね。これは被害を受けた側だ」
「……こいつだけ、か。他のは」
「植物系の魔物は、周辺の魔力変化にひどく敏感だとされている。体内の魔力循環が淀んでしまうから……、環境の魔力濃度に異変があれば、逃げるなりなんなり回避行動に出るはず」
"淀み"――と、ガルドの視線がトレントの結晶部分へと向く。まるで体内の淀み、穢れが溢れ出そうになったところを固めたような、その晶塊。ルシアンも同じことを考えたのか、ひと時だけ、森に静寂が漂った。
「……。他のは逃げて、こいつは残ったってのか」
「ううん……」
ぽつり、交わされた会話は、森に溶けだしていきそうなほどに穏やかだ。
ルシアンは、相変わらずそこから足を踏み出さない。ガルドもその捻じくれた木から、目を逸らさない。けれど、二つの眼差しは、静かで。
「……自らの"淀み"を外に出さないようにしてまでも、この森に固執したのは……」
柔らかく囁いたその声には、どこか惜別が混じっていたようにも聞こえる。
……少し前に、――見た。同じように、死してなお、森を守る存在を。
金の紋様こそ、ないものの。
「……森を守りたかったのだろうか」
「……、さぁな」
さらり、と森の中を風が渡っている。
ふわり、と淡紫の髪が揺れる。
見上げてくる気配にガルドが視線を向ければ、銀の瞳と目があった。
「"彼"は、この場所にいるべき存在なのかもしれない。持ち出して競りになんて出せば、今度こそ森の被害が広がるかもね」
「……"かも"、か」
――いいのか、とガルドが背負いの大剣に手をかければ、ルシアンは静かに微笑んで、一歩下がった。
「……森に還そう」
「……おめぇが言うと全部それっぽく聞こえやがる」
ええ?と肩をすくめるルシアンにはもう目もくれず、ガルドの背から大剣が引き抜かれた。
幅広の両刃の剣。盾にもなるそれは、刃というよりはもはや鈍器にも似ていた。
森を裂くにはあまりにも無骨なその剣が、抜き放たれる様は……まるで儀式のようにも見える。
一歩、また一歩。
枯れ木のトレントへと近づく足取りは重く、しかし迷いはない。
自分の身の丈を越える"彼"へ、一度きり視線を向けたガルドは――その根元にまで歩み寄ると、すっと腰を落とす。
風は途絶え、森は静かだった。
――がん、と鈍い音が一発。斧が、木の幹に食い込むかのような。
続けて、がつん、ばきん、と打ち込まれるのは、斬撃ではなく、破砕。
「……わりぃな」
低く吐き捨てるように言いながら、結晶の枝を、幹を、慎重に、だが確実に砕いていく。
結晶に、一瞬だけ、背後のルシアンが映る。少し離れた場所で、目を伏せるようなその仕草。
ただそこにいるだけの静けさが、音のない祈りのようにも見えた。
最後のひと太刀で幹の芯を割ると、結晶の破片がぱらぱらと崩れ落ちた。
後ろを振り返らないままに、ガルドが背後に声をかける。
「……、粉々にするか」
「ううん、溶けると思う」
――そういうもんか、と、ガルドの視線が足元に落ちる。砕け落ちた破片は確かに、徐々に境界をなくしていっているようであり。
そしてそれがなぜか、静かに息を引き取ったかのように思えた。
剣を肩に担ぎ、外套の端にかかった結晶片を払いながら、ガルドがルシアンのもとへ戻る。
「……終わった」
乱暴なようでいて、どこか弔いめいたその行為を何も言わずに眺めていたルシアンは……、横に歩みよってきた彼に、ひとつだけ頷きを返す。
「人が来る前にこの場を去ろう。枯れた薬草とトレントは確認できた。明日は北の丘で赤い雪。見れるかな?」
「……ハードだなオイ」
返ってきた文句に明るく微笑み、ルシアンが山道を戻り始めた。
ガルドも最後に一度だけ、トレントのいた場所を視線の端で捉える。
守り人の領域だった場所。その中心に、枯れた木くずと黒ずんだ結晶片が残る。
けれどそれらはもう今にもなくなりそうで、憎悪や後悔の気配はなく、――"やっと"、という思いが流れ込んできた気がした。
「ガルド、帰るよ」
少し離れた場所から、銀の瞳がそう笑いかけてくる。
小さく頷いて隣まで行けば、歩き出すこともせずに、ルシアンがこちらを見上げていた。
一拍、視線が交差する。
「……ありがとう」
「……ああ」
ガルドはそれきり、無言のまま隣を歩く。
ルシアンの言葉に返した声は短くても、それだけで十分だった。
日が傾いた森の中、その余韻だけが静かに漂っていた。背を向けた森は、もう何も語らない――けれどその静けさが、すべてを物語っていた。
再び歩き出す足音は、往きとは違って、どこか軽い。踏む落ち葉の音も乾いたまま、だが……、森に残る気配はもう、張りつめたものではない。
陽の傾きとともに、森の木々の影が長く伸びる。
その隙間を縫うように、ふたりの影も並んで歩く。
そうして森の出口が見えかけた頃、ルシアンがひとつ、背後を振り返った。
もう薄暗くなり始めた森には、枯れた薬草と、在りつづけた魔物があっただけ。
何一つ、解明していない。何も、解決していないけれど。
けれど、その微笑には確かに、何かを"置いてきた者"の表情があった。
しかし、それも、一瞬だけ。
「お腹空いたね」
「……、……おめぇはホント好き勝手しやがるな」
「ええ……?」
心の底から疑問符を浮かべたような顔に、その隣にいる男は、もう何も聞かなかった。
ただ、口の端を緩めて隣を歩いていた。
ふたりの足音だけが、森に優しく返っていった。
――【還しの刃】




