【手遅れの笑み】
食事を終えた、昼下がり――。
ルシアンは、その席を立とうとはしなかった。
給仕によって食器が片づけられたテーブルに腕を置き、優雅に両手を組んでいる。
銀の瞳はどこへ向くでもなく、けれども食堂の中をゆるりと眺めている。……そんなに物珍しいか、とガルドも正面に眼差しだけを向ける。
ルシアンはその視線にすら柔らかな表情をするだけで、――気を利かせて紅茶を一杯持ってきた給仕に、ひとつ柔和な笑みと目礼を向け、また目を伏せてじっとしていた。
「…………」
「…………」
――整った手つきで、紅茶を一口。受け皿にカップを置く指先は、時間がゆっくりと流れているようで。
宿に戻らないのか、と声をかけようとして……ガルドは、はたと気づいた。
「んでな、降ったんだよ、赤い雪が。まだ季節じゃねぇのによ」
「ああ、北の丘だろ。あのー……ほら、観測所のとこ」
――まさか、と思った。
それは、周囲の冒険者たちの噂話。 伏せられる銀の瞳は、紅茶の赤い液面を見ている。
だが、その耳は、噂を拾っていた。
「トグ森の薬草やべぇよなぁ」
「ああ……今はレストロワの援助があって、街の薬屋は安定してるみたいだがな」
「街の薬師たち、ベルミードの図書館に過去の異変を調べに行ったってな。結局わかんなかったようだけど」
……もう、手遅れだった。魔術師は、ゆったりとした動作で、また、紅茶を一口。
カップの影、形のいい口元が、ゆるりと弧を描いている。
「トグ森っていえば、山道近くで死んだトレントが結晶化してるらしいわね。見た?」
「見ちゃいねぇが……知ってるよ。珍しいってんで、もうすぐ競りにかけられるってな」
「珍しかろうが魔物だっつぅのに、そんな希少性があんのかねぇ?」
――ふ、と銀の瞳がガルドを見上げた。渋面と目が合い、微笑みをひとつ。
カップを置き、くい、と首を傾げ、柔らかな笑み。
「……てめぇ、」
「ふふ」
……恐らく、そのひそやかな笑みだけで大抵の人間は落ちる。ガルドが、眉根をぎっと寄せたままため息をついた。
椅子を引く音すら静かに、ルシアンが立ち上がる。
銀糸の外套が揺れて、その気配が食堂にわずかな空気の揺らぎとして揺蕩った。
椅子にかけたまま、腕を組んで見上げてくる護衛の横合い――こつ、と軽やかな足音がギルドホールへと向かおうとして。
「さ、行こうか」
つい、と指先だけで、その肩先に触れる。……きろり、と赤い瞳が、目の端でそれを見やった。
言葉は誘導。けれど声色は、お伺いを立てるような――まるでおねだりである。
「……チッ……」
護衛の口から漏れた大きめの舌打ちに、食堂がまたざわりと波打つ。
「や、やっぱり無哭に指図してんぞ……!?」
「あんなん殴られかねねぇよ……!こえーって……ッ」
「い、いや殴れないわよあれは……無理よ……」
ざわ、ざわり。
注がれる視線のすべてが、ふたりのテーブルに集中する。何のことはない、ただ食事を終え、行くぞと合図をしているだけ。
がちりと組まれたガルドの腕が、わずかに解かれた。肩先に触れられた指は、するりと離れていく。
たかが指先、外套越し、温度も何もない。――だが、顔は確実にこわばっている。不機嫌そうに立ち上がるその背が、逆に"受け入れている"ように見えるから、またざわつく。
「……俺も"行こうか"ってされたら逆らえないかも……」
「なんで無紋がお前に"行こうか"するんだよ……」
「バッカお前……見せてくれよ夢くらい……」
――いや、冒険者たちのざわめきは、最早ただの"観客"だったかもしれない。
そのさざめきの中で、ルシアンは満足したように食堂を後にし、ガルドもまた静かにそれを追う。
その背は、どこか肩が沈んでいるようにすら見える。
許可ではない。諦めでもない。それは、"行くな"の一言が言えなかった男の後ろ姿。
「……ったくよ……」
背後から聞こえた呟きに、前を歩くルシアンが小さく肩を揺らした。
その口元には、まるで最初から勝者の笑みがあったかのように、浮かんでいた。
昼下がりの商店通りを、宿へ向かって歩を進めながら。
「君なら許してくれると思ったよ」
「食堂で留まった時点でおかしいと思ったんだ……」
どこか嬉しそうなその声に、ガルドは舌打ち混じりに、そうぼやいていた。
そのしかめっ面を見て、ルシアンも小さく頬を緩める。不満そうにしていても、止めようとしないのがこの護衛であると知っているから。
「トレント、競りに回収される前に見てみたいね。トグ森は……街から南西の森?」
「……ああ。今から行って戻っても、夜には街に帰れる」
「じゃあ、宿で支度をしたら行こう。今日はトレントと、枯れた薬草」
……ふん、と鼻を鳴らす音が一つ。通りの喧騒に紛れながらも、ガルドの靴音だけは静かに隣で響いていた。
それにすら目を細めたルシアンに気づき、視線を逸らす。まるで最初から、止めるつもりなどなかったような面構えで。
「……君は私に甘いなぁ」
「……てめぇがそれ言うのかよ……」
ひとつだけ交わされた軽口に、淡い外套の肩口が揺れた。
もうすでに、止められる気配は一切ない。けれど隣の護衛の足取りは――まるで、それでいいと言わんばかりの歩調だった。
――【手遅れの笑み】




