【そこまで】
そんな中――ガルドが書庫の様子を見に行ったのは、昼前のこと。
二階の廊下を進む途中から耳に届いていた、人のざわめき。
普段は静かなはずの奥の書庫から、かすかな騒がしさが漏れている。
(――まぁ、……だろうな)
特に驚くでもない。食堂で暇をつぶしていた最中も、囁かれる噂は耳に入っていた。
無哭の仲間が書庫にいるだの、無紋に本を紹介してもらっただの。
ごつりと木の床を鳴らし、書庫に足を踏み入れた瞬間、職員ではない面々の視線が一斉にこちらに流れる。
気圧されて目を逸らす者、気まずそうに本を戻す者、普段本など読まなさそうな者まで。
その視線をものともせず、奥のカウンターを見やれば――ああ、いた。淡紫の魔術師が、書物の山に囲まれながら、楽しげに仕事をしている。
本来なら職員がやるのであろう帳簿整理を引き受け、利用者の質問にも的確に答え、時折、古文書のほこりを柔らかい刷毛で払っている。
欠損部分を見つけては記録をし、ギルドの標準書式で整然としたリストも作っている。
「……いややりすぎだろ……」
まるきり生き生きと働いている雇用主に小さくぼやいて、ガルドは壁際に寄りかかった。
ふとこちらを向いた銀の視線と、一瞬だけ目が合う。
――にこりと、いつもの笑み。
だからといって手を止めるでもなく、眼差しはすぐに手元に戻っていく。そこへ寄る人波は、入れ代わり立ち代わり。
「あの、すみません、個体技能論の序説を探しているんですが――」
「アストリオ氏の論文でしょうか。七番棚の下段にありますよ」
「あー、失礼、種族ごとの補助魔法の適用差は、どの文献が詳しいだろうか」
「はい、種族生態学の分類棚に各種族ごとの目録がございます」
すぐに戻る声、すぐに返される答え。
少しでも長く会話ができれば――と練られたであろう利用者の質問が、軽やかにいなされていく。去る背中たちは、少々肩が下がっているようにも見える。
(…………)
あの柔らかさの下に、どれだけ詰め込んでいるのだろう。ガルドは、肩を壁に預けたまま、腕を組んだ。
ここまで徹底して隙がない姿を見ると、いっそ可笑しくなってくる。
(……そいつ服どろぼうだぞ)
……ガルドの眉が片方上がる。ゆっくりと息を吐いたのは、口角を引き締めるため。
この場所で、あの魔術師は、誰よりも"無害"で、"有能"で、そして、"遠い"。
今朝は護衛の服に埋もれていたのに。
「…………」
ひとの服を手をかけるアレは、無害どころじゃないし、有能でもないし、何より……近い……。
――ガルドは、一人静かに、……あの服明日も置いとこうと……、……そう、思った。
さて、人が集えば噂話も集うもので。
カウンターに腰かけ、すらすらとペンを滑らせるルシアンの前には、やはり冒険者の姿があった。
「すみません、トレントが枯れた前例資料をさがしているんですが」
「魔獣図鑑はありますが、お求めの資料は記載がありませんでした」
「あの、種類問わず薬草が枯れる場合の研究書は……?」
「書棚はあちらですが、先ほど他の方が借りられてしまいましたね」
「トレントが結晶化することってあるんですか?」
「はい、魔獣図鑑はあちら、二番棚です。が、結晶化の項目はなかったかと」
「気象天候に関する文献を……赤い雪に関して調べたくて……」
「赤い雪、ですか……文献は入り口近くの書棚にありますよ」
それらは全て、違う人物からの質問だったが――同じようなことを聞いてくる利用者が、この他にも何名もいた。
ルシアンもその都度丁寧に受け答えこそしていたものの、いつのころからか、その柔和な笑みの底に、ふつふつと好奇の色が湧き始める。
――まずい、とガルドは思った。
枯れた薬草、トレント、赤い雪。ひっかかってしまいそうだ、あの琴線に。
壁にある時計を見れば、もうすぐ昼を回る。
書庫の整理は、素人目に見ても終わりかけている。
職員も、満足げな顔をしている。ならば、もう用はないだろう。
「おい、仕舞いだ」
低くガルドが呼びかければ、今もまたルシアンに声をかけようとしていた冒険者が、小さく肩を揺らして一歩後ずさった。
顔を上げ、書庫の奥からこちらを振り返ったルシアンも、一拍の間をおいて頷き、軽やかに腰を上げる。
帳簿を伏せ、手袋を外し。
椅子を引く音も優雅に、微笑を崩さぬまま、職員に小さく会釈をする。
手早く整頓された机まわり、使い終えた書類の束。
置きっぱなしの物はひとつもない。職員が感無量といった様子で、過不足なく一礼をしている。
す、とルシアンが一歩踏み出せば、書庫の空気がわずかに張る。書庫整理の臨時係員の顔はもうない。
今は、ただ、無哭の相棒。無哭の仲間の魔術師。――"無紋"。
「迎え、ありがとうね」
「…………」
ガルドの面前に歩み寄った表情は穏やかだが、確かに、目元にわずかな"物足りなさ"が残っていた。
護衛の眉間に皺が寄る。そのまま並んで廊下を歩き出す。名残惜しそうに見送る冒険者たちと、書庫職員を……ふたりが振り返ることはない。
――あれ以上、滞在させていたら……。ガルドが隣の淡紫を、目の端で見下ろす。
赤い雪、トレントの結晶化、枯れる薬草。八方から集まる声に、手を止めずにいられるはずがない。
そして、興味を持ってしまったルシアンは、歯止めが利かなくなる。
「ガルド」
「ん」
――呼ばれ、どきりと肩を揺らせば、ルシアンは何事もないように階段の手すりに手をかけるだけで。
「私、ギルドの食堂を使ったことがないんだ。食べてみたいな」
「……ああ。いいが、食いで重視の野郎飯だぞ」
「ふふ、いいね」
階段を降りる動きに合わせて、淡紫が規則的に揺れる。
それを追いながら、ガルドも肩をわずかに落とした。
(……ギリギリ、だな)
気づかれぬほどの、ため息をひとつ。……昼食へと向かうその歩調は、どこか張り詰めたものだった。
――【そこまで】




