【名もなき、その村、山間に】
日が傾き、山に夕暮れが近づく頃には、村の生活道にはひとまずの道筋が見え始めていた。
土砂の除去は八割がた終わり、仮の通路も小さな荷車が通れるほどに整った。橋の基礎部分も、明日の再建に向けて整地と杭打ちが完了している。
「……ひとまず、今日はここまでだな」
「ありがとうございました……!」
誰からともなく、自然と起こった礼の声。それを背に、ガルドがひとつ首を回し、泥のついた肩を軽くたたいた。
その仕草ひとつにさえ、どこか安心を覚えたのだろう――村の若者たちは、疲れた顔を綻ばせながら、互いの背を叩き合い、集落への帰路へと向かっていく。その最中。
「あ、お疲れさまです!」
道の向こうから駆けてきたのは、村の広場に集っていた娘たちのうちの一人だった。
冷たい井戸水を汲んできたのか、桶と布を一緒に抱えている。
「あ、あの、これ、どうぞ……!」
桶を差し出す手はもじ、としていたが、村の男衆にそのねぎらいは一切向かない。清々しいほどの分かりやすさに、男たちが顔を見合わせて肩をすくめた。
ガルドが小さく頷いてその桶を受け取れば、娘はぱっと頬を赤らめてぺこりと頭を下げる。
「……あいつは?」
布に水を含ませ、くしゃ、と片手で絞りつつ、ガルドがそう呟く。ひやりとしたその布で腕から首筋を拭えば、しみ込んだ汗と土埃が流れ落ち、肌に夕風が触れて心地よい。
娘も、ガルドが言う"あいつ"にすぐに見当がついたのか、村への道を歩きながら、にこ、と口角を緩めた。
「はい!さっきまで集会所でおばあちゃんたちと話してましたよ!でも今は……あ、ほら、あそこです!」
歩を進めながらに娘が指さしたのは、集落の中央から少し離れた丘の上の小道。
そこに、柔らかな外套を羽織った淡紫の男が、夕暮れの風を抱きながら立っていた。
穏やかな眼差しで集落を見下ろし、山の稜線に沈む太陽に目を細めている。
その隣には、集落の年長者らしき白髪の男が寄り添い、なにやら静かに語らっている様子だった。
(――あっちは、あっちで……)
……視線を逸らし、水桶の中に手を浸せば、手のひらに水の冷たさがじわりと広がる。
そうか、俺は無意識のうちに、村に残った奴らの対応を、あれに任せていたのか、と――誰に指摘されたわけでもなくそれに気づいて、ガルドの肩が緩く落ちた。
「……こっちは、こっちでやるだけだ」
呟くように、足元に落とすように吐き出した声。
その背に、暮れていく斜面の影が、淡く滲んでいた。
「夕食前に、お湯、用意してありますのでどうぞ!」
広場まで戻り、村の娘に案内されれば、集会所の裏手に湯桶が設えられていた。
臨時で幕と湯が張られ、湯気が上がっている。ガルドもそちらへ首だけをむけて一瞥し、静かに頷いた。
「……助かる。あいつはもう入ったのか」
"あいつ"ばっかりね、といった具合に、娘がやや苦笑し……そのまま小さく首を振った。
「ルシアンさんにもお勧めしましたが、ガルドさんが入られた後にすると仰ってました」
「……んな律儀な……」
再度丘の上に目を向ければ、夕陽に照らされた姿がふわりと揺れる。
が、すぐにガルドの視線に気づいてこちらを向き、かすかに笑ったような気配がした。
「夕食は村長の家にご準備してますので、汗を流したらいらっしゃってください!大したおもてなしもできませんが、せめて、ごゆっくり!」
ぺこり、と勢い良く頭を下げ、娘が走り去っていった。
「たくましい方ですな」
丘の上、わずかに腰を曲げ、その様子を見ていた村長が、隣で佇むルシアンにそう呟いた。
それを受けたルシアンもひとつ頷き、最後に山並みに目を向けてから集落への道を下る。
狩猟と、畑の収穫と、山の恵み。それだけで自給自足をする、小さな集落。
飾らない暮らし。のびのびとした数頭の家畜たち。
話せば子どもたちは明るく素直で、若い女たちも大切にこの村を守っていた。
「いい村ですね」
忖度のないルシアンの言葉に、村長もまた自慢げにひとつ頷いたが……、ふと足を止めて、そのまましばし村を見下ろす。
小さな灯がひとつ、またひとつと家々に灯り始めている。屋根からは煙がのぼり、夕餉の香りが漂ってきていた。
「……数日前、崩れた道を前に、正直、もう駄目かと思っていたのです。外との行き来が絶たれれば、畑も山も、すぐには回らない。わしらだけでは、どうにもならんかった……」
淡々と語る声音に滲むのは、抑えていた不安と、それを手放せた安堵。ルシアンが軽く頷きながら歩を進めれば、村長もその背に続く。
「だからこそ、お二方がいらっしゃって、……本当に神様かと思いましたわい」
「それはまた大袈裟ですねぇ……神様なら、もう少し優しげな眼をしているでしょう」
誰のことを指したのか、ルシアンの言葉に村長はくつくつと笑みを漏らし、肩を揺らした。道の先、夕餉が支度されている家を手のひらで指し示す。
「大したおもてなしもできませんが、今夜は山菜と獣のスープがございます。塩加減が気に入ってもらえれば良いのですが」
「……大変な時に、お心遣いをありがとうございます」
「いえとんでもない」
ふたりが向かうその先には、灯のともった一軒家。立派とは言えないが、手入れの行き届いた板壁に、炊事の香りが窓から漏れている。
柔らかな笑み、安堵の声、家から零れる人の気配。
それらをどこか、耳の端に引っ掛けながら……、集会所裏手の幕の陰では、急ごしらえの湯桶の脇でガルドが身体の泥を洗っていた。
張られた湯はほどよく熱く、疲れた皮膚に心地よい。
「……後から入るなんざ、気ぃ遣いやがって」
低く零しながら、手拭いを肩にかける。
水面に映る夕空が、静かに揺れていた。
――【名もなき、その村、山間に】




