【おまかせ書庫整理】
冒険者ギルドの二階、廊下を渡っていった奥にある書庫は、やはりまだ朝早いためか人の気配が少ない。
そんな中で、再び目を白黒させていたのは、書庫の管理を任されている職員であった。
昨日の無哭の来訪で、かなり経験値が上がった。
酒のネタにもなったし、酒場でつかの間の英雄気分を味わった。
もはや、ちょっとやそっとでは動じない自分になったと思っていた。
だが――、柔和な微笑とともに目の前にいる麗しの魔術師に関しては、昨日の無哭とは違う意味で緊張した。
淡紫の髪、深い銀の瞳、穏やかな物腰。
底の見えない笑顔と、唯一"無哭を動かす"という真偽の定かではない噂。
勘弁してほしい。――今この街で話題の、無紋だ。
「おっ、おはようございます、すみません散らかっておりまして……!」
絞り出された一言目は、やはり情けないほどにひっくり返った。まさか自分の人生において、こうも美しい人に見つめられる未来など誰が予想できたか。
銀の視線がにこりと細くなり、整理途中であろう書庫内を一瞥する。
「お忙しいようですね。昨日お借りした本を返却に参りました」
す、と両手で差し出されたのは、"砂原の星"。両手に抱えていた本の束を慌ててカウンターに置いた職員が、その布張りの記録書を両手で受け取る。
「はっはい、ありがとうございました……!えと、またご利用になられますか?」
「ふふ、お邪魔にならないように改めます。また後日、見させていただいても?」
「ええっ、もちろんです!」
職員、"砂原の星"を思わず胸に抱える。――聞いた。「ふふ」を生で聞いた。しかも、次の約束まで取り付けた。
全ギルド支部の中で、この魔術師と何かを約束した職員など、俺くらいじゃないだろうか。
「次、――ル、ルシアンさんがいらっしゃるまでには、片づけておきます!」
「楽しみにしていますね」
柔らかな笑みとともに首が傾げられ、ふわりと髪が揺れる。
なんかもういい匂いすらする。同じ人間なのか本当に。
無哭は毎日この隣にいて、なんで平気なんだ。
――職員は、眩暈がする思いであったが、……これもまた、酒のネタにできそうな事件だった。
魔術師が書庫を去ったあと、職員はしばしその場に呆然と立ち尽くしていた。
手の中の本はきちんと整えられており、頁の隅すら折れていない。表紙を撫でるように拭いながら、視線を落とす。
「…………」
棚の間に残る香油の余香と、端然とした足音の記憶。
――カドゥルの子爵家のバカ息子に、無哭の仲間が罵倒され、往来で"無紋"と罵られたという事件。たかだか数日前の事件だ。まだ皆の記憶に新しい。
自分は所詮、一ギルド職員で、貴族様やら何やらに顔が効くわけでもなければ、そういった世界で生きてきているわけでもない。いわゆる"庶民"というやつではあるが。
(……ありゃどう見ても"紋無し"の方じゃないだろ……)
遠目で見れば、ああ不思議な魅力のある人だな、で収まるかもしれない。
すぐそばまで寄れば、おや、まとう空気も上品だな、と頷くかもしれない。
だがああして対峙して、ふたつみっつ言葉を交わせばすぐわかる。――あれは、……いや……。
半月ほど前、ベルミード支部から、全ギルド支部に向けて通達された一文を思い出す。
――『無哭とその魔術師には触れるな』。
「…………」
要は、探るな、深入りするな、放っておけということだ。ベルミード支部ギルド長直々の通達は、軽くはない。
無紋……魔術師の去っていった書庫の出入り口に、もう一度目を向ける。今さらながらに怖さもあるが、それ以上に、あまりにも優雅で、不思議で、圧倒的だった。
そして……確かに、何者にも属さず、何者でもあるような存在だった。
「……ま、マジでまた来てくれるのかな……」
呟き、震えるように深呼吸をしてから、彼は書庫内の整理に戻る。
書架の蔵書を並び替えていく手つきは、どこか丁寧だった。
ルシアンが階段を降りギルドホールへと戻れば、ガルドがまだ依頼掲示板を眺めていた。
軽い足音に赤い瞳がちらりと視線を寄こし、……その眼差しだけで、来い、と言う。
何か面白い依頼でも見つけたのだろうか、目元を緩ませながらルシアンもそちらへ足を向ける。
その空気は柔らかく、威圧の欠片もないのに、人波は自然と割れた。
「どうしたんだい。何かいい依頼でもあった?」
見上げながら並び立てば、黙したままにガルドの指が、一枚の依頼書を指し示した。
――《ギルド書庫整理》
【依頼内容】
・ギルド書庫の目録整理、分類棚の補修、古文書の修復補助など
・閲覧者対応の簡易補助あり(職員指導あり)
【報酬】
・銀貨四十枚/半日(延長可能)
【備考】
・知識・魔術関連に関心のある者は歓迎
・古文書へのいたずら、無断持ち出しは厳禁
「おや……」
ぽかんと口を開けたルシアンは、……自分でも、目が輝いたのが分かった。
いいの?と隣の護衛を見上げれば、ふんと小さく鼻を鳴らされる。
「用事もねぇ。俺はぶらぶらしてる」
「そう?じゃあ、やってみようかな」
――にこりと笑ったルシアンの顔は、今日もガルドにしか見えない角度で……、ついと依頼書を引き抜いてカウンターに行く背中は、心なしか、弾んでいるように見えた。
その背をガルドも、無言で見送る。腕を組み、眉根を寄せ、しかめっ面なのは、懐の距離から笑顔を食らったせいだ。ごり、と喉が鳴る。やっと色々を飲み下す。
……まぁ……。と、小さく顎を引いた。
たまにはこういう日があっても、いいのかもしれない。何よりあれほど楽しそうにされたら、止める理由もない。
「……、なにすっかな……」
小さくぼやき、依頼掲示板を見上げる。討伐系の依頼もいくつか出てはいるが、ルシアンを置いて街の外に出るつもりはない。ましてや今日はどれも気が乗らない。
かといって安全なギルド内、ルシアンが書庫で過ごすというなら、自分がその場で張り付いている必要もない。
「…………」
久々に、ギルドの食堂でダラダラしてみるかと腕をほどく。さすがに朝から酒を飲むには至らないが、まぁ、元来暇なら依頼に出るか、ギルドの食堂で食うか飲むかという生活だった。
一歩踏み出して受付へ向かう。カウンターでは、ルシアンが受付職員と簡単にやり取りをしている。――その背に立ち。
「おい、昼頃に迎えに行く」
低く伝えれば、緊張したようにやや固まる受付職員と、肩越しに振り返って微笑むルシアン。頷きがひとつ返ってくる。
その笑顔を見て、ガルドが、静かに目を逸らす。
(……へらへらしやがる……)
悪態ではない。あの上機嫌を引き出したのは自分だという実感。
……くそ、と思いながら、護衛は静かに食堂へ消えた。
冒険者ギルドの二階、廊下を渡っていった奥にある書庫は、まだ朝早いためか人の気配が少ない。
そんな中で――書庫の職員は、もはや白黒させる目も持ち合わせていなかった。
む、無紋が戻ってきた。作業用の布手袋を手に。どこか楽しげに。
「ご指導お願いいたします」
「ッッへ、へ!?あのっ……!?」
混乱極まる職員の面前、微笑みと同時に、過不足のない会釈がひとつ。
まさか、無哭の相棒が書庫整理に来るとは、夢にも思っていなかった。夢かもしれない。夢であれ。
こんなの心臓が持つ気がしない。誰だあんな依頼を出したのは。俺だ。ちくしょう。
「……ええと……?」
「あっ!?いえっ、失礼しました!!お、お願いします……ルシアンさん……!」
しどろもどろになりながらもなんとか応対する。とにもかくにも、目の前の麗しい人は依頼で来ている。仕事だ。何なら自分も仕事だ。書庫の整理、補修、修復。
振り返れば雑多に塗れてしまっている書庫。こんなんもう、誰であろうと、助太刀いただけるなら渡りに船。浮かれる自分に向けて、必死に言い訳をこねくり回す。
「では、えと、目録整理をお願いしてもよろしいでしょうか……!」
職員が、カウンターに散らばっていたリストを、ざっと手に取る。
書架ごとの分類、その中での著者や研究者、タイトルの並び、連番の書籍。これらを説明するために紙面を指させば、横合いから覗き込んでくる気配。視線の端に、揺れる淡紫の髪。
――グッ、と息を詰めそうになりつつ、震える指でリストをなぞる。
「ぶ、分類棚の補修がてら、欠番や紛失の確認をしておりまして……っ」
「ええ」
「リストにないものがあれば、項目にチェックを……並びは基本昇順で、その、前後していれば簡単に入れ替えていただければ……」
……言いながらも、無哭の相棒にこんなこと頼んでいいものかどうか、職員の声が先細っていく。だが隣からは、そのひとつひとつに誠実な相槌が返ってくる。
柔らかなそれは、理解している人間の頷きだった。
「なるほど。では、わからないことはお聞きしますね」
「よろしくお願いします……!」
リストの束を受け取った魔術師は、柔和な笑みで、にこりと笑んだ。
――まず、手始めに目録リストの確認からだった。
職員がルシアンを未整理の一角に案内すると、軽く目を丸めて頭が傾げられる。
「……これは、なかなか」
積み上がった未分類書籍の山を見て、けれど声色は楽しそうである。布手袋を軽く引き、さっそく一冊ずつ、背表紙と目録を照合し始める。
目線の動きも、指先の扱いも、とても丁寧で的確。ひとつも迷いがない。分類ルールも見慣れたものなのか、すぐに飲み込み、必要とあらば職員に確認も入れる。
「失礼、この二冊、内容は似ていますが……研究者が異なりますね。分類棚は、こちらでしょうか?」
「はっ、はい、そちらの第二研究項目棚で……!」
「……こちらの基礎構造理論は、魔術院ではなく中央学術院の棚では?」
「か、確認いたします!」
ひとつ、またひとつと会話が発生するたびに、職員の緊張が少しずつ解けていく。
ただの美形ではない。ただの旅人でもない。半端な物知りでもない。本当に"わかっている"人だと、整理されていく書架が証明していた。
一刻も経てば、あれだけ混沌としていた書庫が、まるで魔法でもかけられたかのように整っていく。
気がつけば、職員のほうも無言で動き、ふたりは静かに本の海を捌いていた。
(……神様マジありがとう……)
職員の感謝が、整然とし始めた書架の間を漂っていった。
――【おまかせ書庫整理】




